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黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

イタリア旅行記 #30 パラティーノの丘とチルコ・マッシモ

2011-05-09 02:10:15 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はパラティーノの丘とチルコ・マッシモ@ローマです。

パラティーノの丘は、フォロ・ローマノの南に隣接する、
歴代皇帝達の宮殿があった場所です。

パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

フォロ・ロマーノの中から、
パラティーノの丘の隣接部分を見る事ができます。
かなり崩れてはいるものの、
その規模の大きさが今でもうかがえます。





パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘は、
BC745にローマ人が最初に住居を建てた場所ともいわれ、
今でも鉄器時代初期の小屋の跡が残っているそうです。
共和制の時代には既に富裕層の邸宅が建ち並び、
やがて初代皇帝オクタヴィアヌスが、
宮殿を移築(BC44)しアポロ神殿(BC28)を建設すると、
以降、歴代皇帝はこぞって宮殿を建設する様になります。





パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘はフォロ・ロマーノより遥かに広く、
その広大な敷地に歴代皇帝の宮殿が建ち並ぶ光景から、
パラティーノは宮殿を意味する言葉、
パラティウム→パレスになったそうです。





パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘の南壁。
これまでの画像はパラティーノの丘の北壁ですが、
これは丘の南端に残る巨大な宮殿の跡です。
前回の記事で触れたプセミティウス・セウェルス帝の宮殿。
壮麗を誇ったパラティーノの丘も、
3世紀に入ると宮殿は建てられなくなり、
コンスタンティヌス帝が遷都すると、
丘は急激に荒廃していたそうです。

今回は時間がなく、見学できませんでしたが、
次回訪れたときは、是非見てみたいと思います。





チルコ・マッシモ
チルコ・マッシモ(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘に南に隣接する位置に、
古代ローマ最大の競技場、チルコ・マッシモの跡があります。
王制の時代に既に造られていた競技場は、
帝政時代にたびたび改修されながら、
6世紀まで使用されたそうです。
30万人もの観客を収容でした大競技場の、
最大のショーは戦車競技でした。





チルコ・マッシモ
チルコ・マッシモ(画像はクリックで拡大します)

空港でゲットした、
『ローマ 過去と現在~再原図付き~』に載っていた、
チルコ・マッシモの復元図。
左の建物がプセミティウス・セウェルス帝の宮殿。
その手前の、観客席が神殿風になっている所が皇帝の観覧席。
中央にオベリスクがみえますが、
これはオクタヴィアヌスがエジプトから持ち帰った(略奪した)、
ラムセス2世のオベリスク。
その後コンスタンティヌスが、
トトメス3世のオベリスクを立てたものの、
やがてローマの衰退とともに倒れ、土中に埋もれていたそうです。

16世紀に発掘された2本のオベリスクは、
今もローマ市内にあります。(後日アップ)


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