春日祭(かすがさい)は、3月13日に行われる奈良・春日大社の例祭です。
上野東京国立博物館で開催されていました「春日大社 千年の至宝」が終了したばかりです
が、これを観賞した余韻の流れで、この春日祭を取り上げてみました。
春日祭
(春日大社HPより)
天皇の使者(勅使)が派遣されて執り行われる「勅祭(ちょくさい)」は、京都賀茂神社
の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭とこの春日大社の春日祭の三つで、旧儀保存の
目的を含め古式を参照した特殊な内容を持ち、特に「三勅祭」と呼ばれているのです。
その一部を、文末のyoutube動画でご紹介しています。 春日祭は、かっては2月、11月に
行われていたようですが、明治19年(1886年)以降は、新暦の3月13日行われています。
そもそもの起源は、850年といわれ、藤原氏の祀りとして執り行われていて、989年には、
一条天皇の行幸が実現するなど、摂関政治の繁栄と共にその規模を拡大して来たといいます。
しかし、戦国時代以降は衰退し、上卿・弁の派遣の停止など簡略化され、明治18年以降は
今日と同じ形式になり、藤原氏の祭祀としての性格は喪失したとあります。
春日大社一の鳥居
(ウイキペディアより)
そもそも、春日大社というのはどのような神社なのか、改めて確認しておきたいと思いま
した。 ウイキペディアはじめ、ネット検索をまとめてみました。
春日大社は、中臣氏(藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された神社であるとあり、
全国に約1000社ある春日神社の総本社で、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白鹿に乗っ
てきたとされることから、鹿を神使としています。(「千年の至宝」にも軸がありました。)
中臣氏というのは、もちろん中臣鎌子(藤原鎌足)で、中大兄皇子と共に(というか、皇子
の腹心として)あの蘇我入鹿を倒し、蘇我一族を滅ぼし、大化の改新をなした中心人物ですね。
藤原氏は、皇族と姻戚関係を持ち大きな勢力をふるっていたようです。
藤原鎌足像(菊池容斎画)
(ウイキペディアより)
で、春日大社の主祭神は以下の4柱で、総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神なのですね。
・武甕槌命 :藤原氏の守護神(常陸国鹿島の神)
・経津主命 :同上(下総国香取の神)
・天児屋根命 :藤原氏の祖神(河内国平岡の神)・・現在は枚岡神社
・比売神 :天児屋根命の妻(同上)
ここで話が少し本題から外れてしまうのですが、大化の改新に至る流れとその後の都の
移り変わりなどについて、当ブログに古い記事ですが“難波宮と孝徳天皇”(2011.5.4)に
部分を記しています。その流れをかいつまんで思い返してみることにしました。
蘇我馬子は、その妹二人と欽明天皇の間に、用明、崇峻、推古の3天皇をいただくなど皇室
の外戚として大きな実権を有していました。そして、蝦夷、入鹿と蘇我一族の権勢は続きます
が、これを阻むべく、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が組んで、蘇我入鹿を暗殺し、大化
の改新を進めたのです。しかし、蘇我の残党などからの反発を避けるため、鎌足はここでも
秘策を講じて 都を大和から難波に移すのです。これにより、難波宮が構築されますが、孝徳
天皇没(654年)後には都は再び大和(藤原宮)に移され、その後710年に都は長岡京に遷都
されるのです。
お話は戻って、春日大社は、1998年(平成10年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に
「古都奈良の文化財」の1つとして登録されています。
また、創建以来ほぼ20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えもしくは修復を行い御神
宝の新調を行う「式年造替」を行ってきており、最近では2015年から16年にかけて第60次
式年造替が行われました。
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