goo blog サービス終了のお知らせ 

蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

春日祭  (bon)

2017-03-15 | 日々雑感、散策、旅行

 春日祭(かすがさい)は、3月13日に行われる奈良・春日大社の例祭です。 
上野東京国立博物館で開催されていました「春日大社 千年の至宝」が終了したばかりです
が、これを観賞した余韻の流れで、この春日祭を取り上げてみました。

        春日祭
          (春日大社HPより)
 

 天皇の使者(勅使)が派遣されて執り行われる「勅祭(ちょくさい)」は、京都賀茂神社
の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭とこの春日大社の春日祭の三つで、旧儀保存の
目的を含め古式を参照した特殊な内容を持ち、特に「三勅祭」と呼ばれているのです。
 その一部を、文末のyoutube動画でご紹介しています。  春日祭は、かっては2月、11月に
行われていたようですが、明治19年(1886年)以降は、新暦の3月13日行われています。
 そもそもの起源は、850年といわれ、藤原氏の祀りとして執り行われていて、989年には、
一条天皇の行幸が実現するなど、摂関政治の繁栄と共にその規模を拡大して来たといいます。
 しかし、戦国時代以降は衰退し、上卿・弁の派遣の停止など簡略化され、明治18年以降は
今日と同じ形式になり、藤原氏の祭祀としての性格は喪失したとあります。

        春日大社一の鳥居
           (ウイキペディアより)


 そもそも、春日大社というのはどのような神社なのか、改めて確認しておきたいと思いま
した。 ウイキペディアはじめ、ネット検索をまとめてみました。

 春日大社は、中臣氏(藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された神社であるとあり、
全国に約1000社ある春日神社の総本社で、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白鹿に乗っ
てきたとされることから、鹿を神使としています。(「千年の至宝」にも軸がありました。)

 中臣氏というのは、もちろん中臣鎌子(藤原鎌足)で、中大兄皇子と共に(というか、皇子
の腹心として)あの蘇我入鹿を倒し、蘇我一族を滅ぼし、大化の改新をなした中心人物ですね。
藤原氏は、皇族と姻戚関係を持ち大きな勢力をふるっていたようです。

        藤原鎌足像(菊池容斎画)
          (ウイキペディアより)


 で、春日大社の主祭神は以下の4柱で、総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神なのですね。

  ・武甕槌命 :藤原氏の守護神(常陸国鹿島の神)
  ・経津主命 :同上(下総国香取の神)
  ・天児屋根命 :藤原氏の祖神(河内国平岡の神)・・現在は枚岡神社
  ・比売神  :天児屋根命の妻(同上)


 ここで話が少し本題から外れてしまうのですが、大化の改新に至る流れとその後の都の
移り変わりなどについて、当ブログに古い記事ですが“難波宮と孝徳天皇”(2011.5.4)に
部分を記しています。その流れをかいつまんで思い返してみることにしました。

 蘇我馬子は、その妹二人と欽明天皇の間に、用明、崇峻、推古の3天皇をいただくなど皇室
の外戚として大きな実権を有していました。そして、蝦夷、入鹿と蘇我一族の権勢は続きます
が、これを阻むべく、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が組んで、蘇我入鹿を暗殺し、大化
の改新を進めたのです。しかし、蘇我の残党などからの反発を避けるため、鎌足はここでも
秘策を講じて 都を大和から難波に移すのです。これにより、難波宮が構築されますが、孝徳
天皇没(654年)後には都は再び大和(藤原宮)に移され、その後710年に都は長岡京に遷都
されるのです。

 お話は戻って、春日大社は、1998年(平成10年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に
「古都奈良の文化財」の1つとして登録されています。

 また、創建以来ほぼ20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えもしくは修復を行い御神
宝の新調を行う「式年造替」を行ってきており、最近では2015年から16年にかけて第60次
式年造替が行われました。

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サギソウ教室  (bon) | トップ | 彼岸入り  (bon) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

日々雑感、散策、旅行」カテゴリの最新記事