来年のNHK大河ドラマは “軍師官兵衛” のタイトルでこの人を主題にして大きく変貌する
戦国歴史ドラマが展開されるようだ。
すいぶん昔に、やはり戦国時代を描いたNHKドラマの中で、黒田官兵衛が幽閉されていた土牢から
救出されるという悲壮な場面があったが、いまだに印象に残っていました。
で、この人を少し追ってみました。
1546年12月22日(グレゴリオ暦では、1547年1月1日)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国
(姫路)に生まれ、名を孝高という。黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての
武将・大名である。 一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった
黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られている。
(ネットから拝借しました。)
13歳ですでに初陣を飾っており、21歳で結婚し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代トップの
宰相に仕え、数々の戦いに功績を残し、それぞれの主君に認められていた優れた人であったようだ。
信長には7年、秀吉に16年、家康には関ヶ原以降3年仕えたそうで、秀吉にはその側近として仕え、
調略や他大名との交渉などに活躍するとともに、竹中半兵衛(重治)と双璧をなす秀吉の参謀であった。
後に、黒田官兵衛、竹中半兵衛二人を「両兵衛」、「二兵衛」と並び称されたという。
それで、私が未だに記憶していた、“官兵衛が土牢に幽閉され救出された” くだりは、
“織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城(有岡城の戦い)し、
さらに自らの主君の小寺政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるべく交渉に有岡城に
乗り込んだが、成功せず逆に幽閉されてしまう。
そして、1年後に、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は救出された。”
34歳の頃であった。一時は、信長にも疑心されるという不本意な事件であったのでした。
“本能寺の変(1582年)の時、高松城攻めの最中であったが、変を知った孝高は秀吉に対して、
毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われている。
山崎の戦いでは天王山を抑えて、明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。 また、秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、
佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、
奮戦し守り抜いた。”
その後も連戦しながら、九州征伐に参戦し、1586年、九州を平定するや豊前国(福岡県)に12万石を与えられた。
秀吉没後、石田光成らの挙兵により、関ヶ原の戦い(1600年)が起こった時、孝高(この頃は如水と名乗る)は、
いち早く蓄財を開放して中国、四国、九州方面の百姓などを集め速成軍を作り上げるなどして、家康方についた。
関ヶ原の戦い後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送り、晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に
草庵を構えている。 1604年4月19日 京都伏見藩邸にて死去。59歳であった。
39歳の頃、キリスト教に入信している。
秀吉をして恐れさせる武将 “官兵衛” は、石高も低く不遇の知将とも言われているが、秀吉の言葉に
“彼は10万石そこそこだからいいが、仮に100万石を与えたら一夜にして天下を取るだろう” とあるくらい、
優れた武将であったのであろう。
築城の名手でもある官兵衛は、リーダシップに富み、部下の指導にあたっても、数々の名言を残している。
そのいくつかをネットから、以下にピックアップしてみました。
これらは、現代のリーダたちにもそのまま当てはまる意味深い洞察をしている。
(ネットから)
“まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。”
“世の中で主のために追腹を切る(後を追って切腹すること)ぐらいつまらぬことはない”
“人に媚びず、富貴を望まず”
“蒸気となり雲となり雨となり雪と変じヒョウと化し凝っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり。”
“もらった者は喜ぶであろうが、もらわぬ者は恨むであろう。誰にやって誰にやらない、でよいというわけのものではない。しかし、だからといって功のない者にもやれば、功のある者に賞を与えるとき、その甲斐がない。
だから、古い物をやりたいと思うときは安く払い下げるのだ。お前たちにしても、わずかの銭を出して買う方が得であろう。”
“金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである。”
“上司の弱点を指摘するな。”
“その時、お前の左手は何をしていたのだ?”
“最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ。”