「蜘蛛とわたし」は、その1から、その4まである短編です。
初めてのかたは、その1からお読みください。
「蜘蛛とわたし」 その4 完結編
・・・本文・・・
彼は、ドアノブの少し下、ドアの角っこ、出口ぎりぎりのことろまで行くと、そこで止まった。
なるほど、これならドアは ほんの少し開ければよい。
ほんの5センチ、いや、彼が出られるぎりぎりを開ければよいのだ。
ドアの側面にいる彼の姿は、新しく付けた斬新なデザインのドアノブのように見える。
さて、しかし、彼の位置は、
ドアノブ、つまり、元々からあるドアノブに近づく結果となった。
そのノブは、彼がこの家から出て行くには、どうしたって、私が掴まなくちゃならないドアノブなのだ。
あとは私の度胸次第というわけだ。
やろうと思えば、彼は、ノブにかけた私の手の甲に這い上がって、タップダンスを楽しむこともできる。
う~ん、
ここで引くか?
ありえない!
「じゃ、やってみましょうか。あなたを信じるほか、ないものね。」
斬新なほうのドアノブは、「俺を信じろ。しっかりやれ」とは言わなかったが、とりあえずじっと動かない。
「信じるわ、私、あなたのこと、信じるわ。でも・・・」
でも・・・何?
なんで、「でも」?
この言葉の先に続く私の感情は、なんとも説明しがたい。
私はこのとき初めて、このドアを開けたら、彼とはもう、これきりなんだ、ということに気付いたのだ。
「これきり」という表現は、二度と再び彼に会うことが無いであろうという、信じがたいが、その、言ってしまえば、
「さびしい」という気持ち以外の何ものでもない感情なのだ。
私の脳裏には、銀色の星雲のように輝く彼が紡いだ巣が浮かんだ。
彼が紡ぎあげた彼の家は、私の家の一部となって、今もどこかのお暗がりで輝いている。
生まれ育った故郷を、彼は今、追われようとしているのだ。
そうしているのは、この私である。
ヘンネェ、こんなことってあるのねぇ。
私は、改めて自分が話しかけている相手を見た。
相手に特別な感情をもつには、時間の長さは関係ないようだ。
「ねぇ、なぜ、今日に限って、あんなところにいたの?
どうして私にみつかっちゃったの?」
もちろん、彼は何も言わない。
何も言わなかったけれど、ダスティン・ホフマンが肩をすくめてちょっと笑ったような、
そんな暖かい感じが彼から伝わってきた。
もしや、彼は私に見つかっても良いと思っていたのではないか?
長年の同居人である私を、私のほうは知らなくても、彼のほうはよく知っていたはずだ。
人間の私を、彼は興味をもって観察していたのかもしれない。
天井裏の隙間から、映画を観るみたいに?
あ! 去年のセーター!
秋に編み始めて、未だ、裾から10センチ以上、編み進まない、その存在すら抹殺しようとしているあのセーター!
きみはそのことも・・・まぁ、いいや。
私は猫のキナコとよく話をする。
料理をしながら、掃除機をかけながら、お風呂に入りながら。
もちろん、一方的に話すのだけれど、なぜか、ちゃんと会話は成り立っている。
私にとって楽しい会話だ。
あなたも、私と話をしたかったの・・・?
んな、ありえない。
私は、あらためて、自分が話しかけている相手を見た。
そこには、言葉を話さぬ静かな生命がいた。
私にとって、すでに巨大な蜘蛛という以外の、他のなにかになりつつある彼だった。
彼と出会ったのはついさっきなのに、この親しみはなんだろう。
彼のほうも私を見ているらしい。
心が通じ合ってここまで来た二人である。
なんとなく、胸の奥にクンとくるものがあった。
「私があなたを追い出しちゃうのよね。今日、もし、出くわしていなければ・・・・。」
あぁ、感傷的になってもしょうがない。
「明日、あなたはどこにいるのかしら?」
蜘蛛は何も言わない。
何も言わないけれど、私は彼に、こくりと頷いた。
「・・・じゃ、やっぱりここでさよならね。ありがとう。ここまで協力してくれて。
私ね、80歳のおばあちゃんになっても、今日のこと、あなたのこと、憶えていると思うわ。
自慢しちゃうわぁ。
約束、守るわね。蜘蛛はぜったい殺さない。守るわね。」
私はサンダルをつっかけて、タタキへ下りると、パントマイムのマルセル・マルソーとまではいかないけれど、
ゆっくりとドアへ、彼に近寄った。
彼は暫く脚をもぞもぞやって、それからドアの開け口のほうへ向き直り、体制を整えた。
私はそっと右手をノブにかけた。
10センチも離れていない。でも怖くなかった。
一呼吸おいて、それから、しっかり力を込めて握った
彼が今ここにいて、生きているって感じが、すうっと私の体にしみ込んできた。
数秒の静寂のあと、急に彼は身体をキュッと小さく丸めた。なんだか、痛そうなくらい。
合図だ。今なのだ!
私はノブを回した。
ほんの3センチも開けないうちに、彼の大きな黒い身体は、その隙間から、液体のように外へ吸い込まれて行ってしまった。
あっという間の結末だった。
10秒ほど、私はそのままドアを開けていた。
彼を、はさんでしまってはいけないからだ。
もう、だいじょうぶかな・・・・
そうして私はドアを閉めた。
カチャっというドアの閉まる音の他、何も聞こえない一瞬だった。
通りには誰も歩いていなかった。
「・・・ありがと」
私は彼が出て行ったドアに持たれてしばらくボーっと立っていた。
ドアの横にある小窓からは西日が射して、たった今まで彼と二人で歩いてきた廊下を朱色に染めていた。
彼のいなくなったこのこの家が、古ぼけた写真のように止まっていた。
うまく説明できないのだが、説明のつかない感情というものは、誰にもあるだろう。
箱の中のマッチを一本取り出してシュッとこすって両手で火を囲むような、
そして、しゅうぅっと消えて、細く長い煙が鼻先を漂うような、
それはほんとに一瞬だけど、それでも、とても大事な一瞬の感情だ。
私は今、そんな大事な一瞬の感情をしっかりと感じていた。
去っていった彼には、いったい、これからどんなことが起こるのだろう。
彼の黒い優雅なそして力強い後姿が思い出された。
この家を出た彼のその後が、けっこう良いものになるような、そんな予感がした。
もっとおもしろい人間の映画、どこかのお家でやってるかしら。
自転車のベルがチリチリ鳴っている。
私はハッといつもの日常の中にいる自分に戻った。
全身汗だくだ。
もう一度、シャワーを浴びなくちゃ。
今まで、どこに隠れていたのか、キナコが何もなかったかのように、「あーよん」と甘えた声を出しながら私の脚にまとわり付いてきた。
「ほれ、あんたもシャワーをあびるかぁー!」
私はキナコに襲いかかった。
作:庄司利音
初めてのかたは、その1からお読みください。
「蜘蛛とわたし」 その4 完結編
・・・本文・・・
彼は、ドアノブの少し下、ドアの角っこ、出口ぎりぎりのことろまで行くと、そこで止まった。
なるほど、これならドアは ほんの少し開ければよい。
ほんの5センチ、いや、彼が出られるぎりぎりを開ければよいのだ。
ドアの側面にいる彼の姿は、新しく付けた斬新なデザインのドアノブのように見える。
さて、しかし、彼の位置は、
ドアノブ、つまり、元々からあるドアノブに近づく結果となった。
そのノブは、彼がこの家から出て行くには、どうしたって、私が掴まなくちゃならないドアノブなのだ。
あとは私の度胸次第というわけだ。
やろうと思えば、彼は、ノブにかけた私の手の甲に這い上がって、タップダンスを楽しむこともできる。
う~ん、
ここで引くか?
ありえない!
「じゃ、やってみましょうか。あなたを信じるほか、ないものね。」
斬新なほうのドアノブは、「俺を信じろ。しっかりやれ」とは言わなかったが、とりあえずじっと動かない。
「信じるわ、私、あなたのこと、信じるわ。でも・・・」
でも・・・何?
なんで、「でも」?
この言葉の先に続く私の感情は、なんとも説明しがたい。
私はこのとき初めて、このドアを開けたら、彼とはもう、これきりなんだ、ということに気付いたのだ。
「これきり」という表現は、二度と再び彼に会うことが無いであろうという、信じがたいが、その、言ってしまえば、
「さびしい」という気持ち以外の何ものでもない感情なのだ。
私の脳裏には、銀色の星雲のように輝く彼が紡いだ巣が浮かんだ。
彼が紡ぎあげた彼の家は、私の家の一部となって、今もどこかのお暗がりで輝いている。
生まれ育った故郷を、彼は今、追われようとしているのだ。
そうしているのは、この私である。
ヘンネェ、こんなことってあるのねぇ。
私は、改めて自分が話しかけている相手を見た。
相手に特別な感情をもつには、時間の長さは関係ないようだ。
「ねぇ、なぜ、今日に限って、あんなところにいたの?
どうして私にみつかっちゃったの?」
もちろん、彼は何も言わない。
何も言わなかったけれど、ダスティン・ホフマンが肩をすくめてちょっと笑ったような、
そんな暖かい感じが彼から伝わってきた。
もしや、彼は私に見つかっても良いと思っていたのではないか?
長年の同居人である私を、私のほうは知らなくても、彼のほうはよく知っていたはずだ。
人間の私を、彼は興味をもって観察していたのかもしれない。
天井裏の隙間から、映画を観るみたいに?
あ! 去年のセーター!
秋に編み始めて、未だ、裾から10センチ以上、編み進まない、その存在すら抹殺しようとしているあのセーター!
きみはそのことも・・・まぁ、いいや。
私は猫のキナコとよく話をする。
料理をしながら、掃除機をかけながら、お風呂に入りながら。
もちろん、一方的に話すのだけれど、なぜか、ちゃんと会話は成り立っている。
私にとって楽しい会話だ。
あなたも、私と話をしたかったの・・・?
んな、ありえない。
私は、あらためて、自分が話しかけている相手を見た。
そこには、言葉を話さぬ静かな生命がいた。
私にとって、すでに巨大な蜘蛛という以外の、他のなにかになりつつある彼だった。
彼と出会ったのはついさっきなのに、この親しみはなんだろう。
彼のほうも私を見ているらしい。
心が通じ合ってここまで来た二人である。
なんとなく、胸の奥にクンとくるものがあった。
「私があなたを追い出しちゃうのよね。今日、もし、出くわしていなければ・・・・。」
あぁ、感傷的になってもしょうがない。
「明日、あなたはどこにいるのかしら?」
蜘蛛は何も言わない。
何も言わないけれど、私は彼に、こくりと頷いた。
「・・・じゃ、やっぱりここでさよならね。ありがとう。ここまで協力してくれて。
私ね、80歳のおばあちゃんになっても、今日のこと、あなたのこと、憶えていると思うわ。
自慢しちゃうわぁ。
約束、守るわね。蜘蛛はぜったい殺さない。守るわね。」
私はサンダルをつっかけて、タタキへ下りると、パントマイムのマルセル・マルソーとまではいかないけれど、
ゆっくりとドアへ、彼に近寄った。
彼は暫く脚をもぞもぞやって、それからドアの開け口のほうへ向き直り、体制を整えた。
私はそっと右手をノブにかけた。
10センチも離れていない。でも怖くなかった。
一呼吸おいて、それから、しっかり力を込めて握った
彼が今ここにいて、生きているって感じが、すうっと私の体にしみ込んできた。
数秒の静寂のあと、急に彼は身体をキュッと小さく丸めた。なんだか、痛そうなくらい。
合図だ。今なのだ!
私はノブを回した。
ほんの3センチも開けないうちに、彼の大きな黒い身体は、その隙間から、液体のように外へ吸い込まれて行ってしまった。
あっという間の結末だった。
10秒ほど、私はそのままドアを開けていた。
彼を、はさんでしまってはいけないからだ。
もう、だいじょうぶかな・・・・
そうして私はドアを閉めた。
カチャっというドアの閉まる音の他、何も聞こえない一瞬だった。
通りには誰も歩いていなかった。
「・・・ありがと」
私は彼が出て行ったドアに持たれてしばらくボーっと立っていた。
ドアの横にある小窓からは西日が射して、たった今まで彼と二人で歩いてきた廊下を朱色に染めていた。
彼のいなくなったこのこの家が、古ぼけた写真のように止まっていた。
うまく説明できないのだが、説明のつかない感情というものは、誰にもあるだろう。
箱の中のマッチを一本取り出してシュッとこすって両手で火を囲むような、
そして、しゅうぅっと消えて、細く長い煙が鼻先を漂うような、
それはほんとに一瞬だけど、それでも、とても大事な一瞬の感情だ。
私は今、そんな大事な一瞬の感情をしっかりと感じていた。
去っていった彼には、いったい、これからどんなことが起こるのだろう。
彼の黒い優雅なそして力強い後姿が思い出された。
この家を出た彼のその後が、けっこう良いものになるような、そんな予感がした。
もっとおもしろい人間の映画、どこかのお家でやってるかしら。
自転車のベルがチリチリ鳴っている。
私はハッといつもの日常の中にいる自分に戻った。
全身汗だくだ。
もう一度、シャワーを浴びなくちゃ。
今まで、どこに隠れていたのか、キナコが何もなかったかのように、「あーよん」と甘えた声を出しながら私の脚にまとわり付いてきた。
「ほれ、あんたもシャワーをあびるかぁー!」
私はキナコに襲いかかった。
作:庄司利音