庄司利音の本棚

庄司利音の作品集
Shoji Rion 詩と物語とイラストと、そして朗読

手紙

2020-04-11 14:13:24 | 短編や物語
長い年月が流れました。

それは、遠い遠いあの日から始まって、

そして、毎日、毎日、途切れることなく続いて

ずっとずっと続いてきたから、だから、今になりました。

あのとき小さな子供だった老人は

今ではもう、子供であった自分のことをすっかり忘れていました。

生まれたときから自分はずっと老人だったと思い込んでいたのです。

ですから、老人の朝は、悲しい朝でした。

老人の夜は、寂しい夜でした。

老人は、悲しさと寂しさの隙間で眠り

悲しさと寂しさの隙間で生きていました。


ある日、老人のもとに一通の手紙が届きました。

薄茶色い皺々の古ぼけた手紙です。

覚えたての文字を一生懸命に書いたのでしょう。

たどたどしい小さな子供の字で、老人の名前が書いてありました。

「おやおや、こんな老いた私に、いったい誰が手紙をくれたんだろうねぇ」

そう思いながら老人は手紙の封を開けました。

手紙には、こんなことが書いてありました。


「ずっとずっと遠くの未来のぼくへ

ぼくは、どんな大人になりましたか?

ぼくは、どんな出来事に出会いましたか?

たくさん友達が出来ましたか?

ぼくは、なにをしましたか?

楽しかったですか?

面白かったですか?

それとも、悲しかったですか?

苦しかったですか?

ぼくは、一生懸命に生きることができましたか?

ずっとずっと遠くの未来のぼくへ

ぼくは、こんど、生まれてくるときも、きっと、自分に生まれます。

だって、ぼくはきっと毎日毎日、一生懸命に生きていくと思うからです。

どんな悲しいことも苦しいことも、きっと乗り越えられると信じているからです。

だから、ぼくは、こんど生まれてくるときも

きっと、ぼくに生まれます。」


そうなのです。

その手紙は、子供だった遠い昔の自分からやってきた手紙なのでした。

その手紙を読んだ老人は、しばらくじっとその手紙を見つめたまま、ぼんやりとしているようでした。

けれど、しばらくすると、老人の瞳のなかには、コンペイ糖のような輝きが生まれたのです。

「あぁ・・・そうだねぇ。楽しかったよ。苦しいこともあったけど、でも、楽しいことがいっぱいあったよ。

あぁ、そうだとも。一生懸命生きて来たよ。

あぁ・・・そうだねぇ。思い出したよ。

明日はきっと良いことがあるかもしれないんだよねぇ。

そうそう、良いことがあるかもしれないんだ。

そうだったよ。そうなんだ。」


老人は、心があたたかくなって、元気になっていく自分を感じていました。

そして、明日が来ることが楽しみになりました。

明日の朝が楽しみになりました。

明日の夜も楽しみになりました。

老人の心は、子供の心になっていました。

そして、その夜、老人は、最後の眠りにつきました。

夢のなかで、老人は、野原を走り、小川と飛び越え、空をかかえて、笑っていました。

どんなことでも自由自在のだたっ広い未来がそこにはありました。



明日を楽しみに

大きな希望をもって

老人は、

最後の眠りにつきました。



長い月日が流れたのち、

あなたにもいつか、子供だった自分から手紙が来るかもしれません。

その手紙を読んだ時、きっと、

あなたの瞳にも、コンペイ糖のような、輝きが生まれることを、

心から願っています。


さくら さくら さくらが いっぱい

2020-03-24 10:10:08 | イラスト作品




ポニーの朝

2020-02-11 16:56:18 | 短編や物語
朝でした。

目を覚ますと、ガラスのコップに満たされたミルクの中へ落ちてしまったように、

私の周囲は、まっ白い朝なのでした。

けれど、しばらくすると、ぼんやりと、ぼんやりと

白い画用紙に、白い絵の具で描かれていくように、

まっ白い山が見えてきたのです。

確かにそれは、山の頂上でした。

ソフトクリームの一番上を、小さなスプーンで ひとさじぶん、

誰かが掬って舐めてしまったように、そこだけが平らです。

そして、そこには、一頭の小さな白い馬が立っていました。

ポニーです。

白い山の頂上に、白いポニーがいました。

陶磁器のお皿に描かれた絵のようです。

ポニーは短い草を食べています。

三日月よりも細くて尖った草が、一面に生えています。

ポニーは、その草をゆっくりと食べていました。

まるで、ガラスで出来ているように、草は透明です。

その透き通る草の重なりを抜けて、地表すれすれに、なにもかもが、

音もなく通り過ぎていくのでした。

草たちには、なにも留める力がありません。

ただ、黙って見送るだけです。

草たちは名残惜しそうに、ただ、見送るのです。

そして、

草たちは、一人一人

何か考え事でもしているように、

あっちへ揺れて、こっちへ揺れて・・・

ゆっくりと風になびいています。



そして、草の少し上には、たくさんの光のシャボン玉が飛んでいます。

光のシャボン玉の群れは、くるくるとポニーのまわりをまわって、

土星のわっかのように輝いています。

この真っ白い世界に、シャボン玉だけが、様々な色に輝いています。

どれひとつとて、同じ色はありません。

すべてがそれぞれに違って、それぞれに輝いています。

けれど、どのシャボン玉も、儚くあっという間に消えていってしまいます。

だから、消えてしまったシャボン玉がどんな色をしていたのか、

誰も思い出すことはできません。


誰かが瞬きをする一瞬です。

目をひらいた そのときに、光のシャボン玉が生まれます。

そして、ワルツを踊るように、ポニーに寄り添いながら、ほんの刹那、輝くのです。

次に目をひらいたときには、さっき見たシャボン玉は消えていて、

別の、違うシャボン玉が、ポニーのまわりでワルツを踊っているのです。


あふれるほどたくさんのシャボン玉が、色鮮やかに光り輝き 育まれた・・・

そういう世界が、どこかに、

きっと、どこかに、

あったのでしょう・・・。



穏やかな風が、お母さんの手のように、山の頂上を優しく撫でて吹いていきます。

「いい子、いい子、いい子だね・・・。あなたはいい子、ほんとにいい子・・・」

風はそう言いながら過ぎて行きます。

ふぅっとやってきて、くるりくるりと巡って、すうぅと消えていくのでした。



ポニーは、美味しそうに草を食べていました。

その首には、フサフサと白く輝く たてがみが生えています。

白いたてがみを、さっきの風が揺らしていきます。

たてがみの白い色が、その風のなかへ、水彩絵の具のように溶けていきます。

そして、この世界を白い刷毛で塗っていきます。

白く、白く、この世界を白くしていきます。



ポニーは、私に気づきました。

そして、私を見上げました。

ポニーの瞳は、深い青をしています。

白いその顔に、二つの夜空が輝いているようでした。

ポニーは、眩しそうに私を見上げました。


「こんにちは、ポニーさん」

私はできるかぎり優しく言いました。

ポニーはとても驚いているようでした。

「まぁまぁ、なんとまぁ・・・。」

けれど、私を怖がることもなく、嬉しそうに言いました。

「まぁまぁ、なんとまぁ・・・」

ポニーは繰り返して そう言いました。

だいぶ年をとっているようです。

長いこと、誰とも話をしていないのでしょうか?

年をとったお婆さんの声でした。

「まぁまぁ、なんとまぁ・・・。

ようこそ、お越しくださいました。

ありがとうございます。

あなたにお会いできて、私は とても うれしいですよ。

・・・・なんとまぁまぁ。」

年おいたポニーは、とても礼儀正しく首を垂れ、会釈をしました。

「あなたは、ここにお一人で暮らしていらっしゃるのですか?」

私は、失礼にならないように、丁寧に尋ねました。

「ひとり? そんなことを言ったら この子に叱られますよ。

ほらほら、出ていらっしゃい。」

すると、彼女の白い たてがみから、一匹の白い蝶が、花が一輪散るように、

ひらひらと姿を現しました。

蝶は、そのまま草の上を飛んでいきます。


「あぁ、失礼いたしました。

あなたのたてがみと同じ、真っ白な蝶々さんがそこにいらしたのですね。」


「お友達なんです。でも、ちょっと、はずかしがりやさんで・・・。

あらあら、あの子、あんなに遠くまで 飛んで行ってしまったわ。

でも大丈夫、すぐに戻ってきますよ。」

そう言いながら、彼女の瞳は、蝶を追って、

そうして、もっと遠くの何かを見つめているようでした・・・。


そして 彼女は、語り始めました。


「昔のことですが、まだ若かったころ、

私はこの山のふもとにある村に住んでいたのですよ。」

彼女はうれしそうに微笑みながら言いました。

「山のふもとに? 村があったのですか? そうなのですか・・・。」

しばらく彼女は黙っています。

それから彼女は、話を続けました。

「私は、この山のふもとにある村で、一人の人間と一緒に暮らしていたのです。

もうずいぶん前のことですわ。

どのくらい前なのか、私にも、もう わからなくなりました。」

そのとき、白い蝶が、ふたたび戻って来て、彼女の耳の先にとまりました。

彼女はそれを気にすることもなく、話をつづけました。

「私の飼い主は、とても優しい人間でした。

私と 私の飼い主は、とても仲良しでした。

気持ちがいつも寄り添っていましたもの。

私が生まれたとき、彼は若い青年でした。

彼は、雪のように白い美しい髪をしていました。


生まれたての私を見て、彼は強く、自分の馬にしたいと思ったそうです。

私と一緒に走りたいと・・・。


牧場で働いていた彼は、とても一生懸命に仕事をしました。

毎日、日が昇る前に起きて、日が沈んで最後の一人が帰っても、

彼は働き続けました。

生活を切り詰めて、やっと貯めたお金で、私を牧場主から買いました。

その日から、私は、彼の唯一の家族になりました。



彼は、小さな鞍を、私に作ってくれました。

仕事から帰ったばかりで、疲れているのに、休みもしないで・・・。

夜遅くまで、一生懸命、ひと針ひと針縫って 作ってくれました。

その鞍をつけて彼を背に乗せて、初めて歩いた日

あの日のことは忘れません。

私たちは、ゆっくりと村を一周しました。

私たちは、まるでずっと前から、そうしてきたように、

心を一つにすることができたのです。

最初は走らずにゆっくり歩きました。

それから日を重ね、時間をかけて、少しずつ速足になって・・・。

彼の手綱さばきは、とても優しかった・・・。

彼は、私をとても大事にしてくれました。

やがて私は大人になり、そして、彼を乗せて草原を走るようになりました。

小柄な彼は、細身で軽かったので、私は全速力で走ることができました。

あぁ、あのときの清々しい気持ち。

彼と私の心が一つになって、時空を超え

いくつもの時代を突き抜けて走っているような、そんな気がしました。



村には、年に一度、収穫祭がありました。

そのとき、馬のレースがありました。

私は彼と一緒にレースに出走しました。

村の馬たちは、大きな馬ではありません。

普段は力仕事をしている馬たちです。

けれど、私ほど、小さな馬もいませんでした。

どの馬も、私よりは大きな馬でした。

村人は彼をばかにしましたよ。

「こんなちびっ子馬で走る気か?よせよせ、やめとけ!」って。

でもね、レースは、ね。

どうなったと思います?

私と彼は、それは息のぴったり合った素晴らしい走りをしたんです。

秋の空に流れる白い雲と風のように、私たちは走りました。

他の馬を追い越しました。

そして、誰も私たちを追い越せませんでした。

優勝しましたよ。

ちびっこいポニーが、優勝したんです。

あのときの彼の笑顔、太陽の光を浴びて、きらきらと美しかったこと!

私は今もはっきりと憶えています。

絹糸のような風が、彼の髪を幾筋も通り抜けて行きました・・・。


幸せというものは、誰かと一緒に感じるからこそ、幸せなのかもしれません。

あのとき、私たちは、幸せを感じていました。


私たちは少しの賞金と、そして収穫されたばかりのジャガイモや、

美味しい干し草をたくさん もらいましたよ。

彼はその賞金に自分の貯えを足して、新しい鞍を買ってくれました。

村の職人が作った立派なものです。

刺繍飾りが付いていて、とてもきれいでしたけれど、

私は、彼が作ってくれた鞍のほうが、ほんとうは好きでしたよ。


もう、「ちびっこ馬」なんて言う村人は誰もいませんでした。

彼を乗せて村を歩くと、村人は、私たちに 「よぉ、優勝馬!」 って声をかけてくれました。


次の年も次の年も、私たちは優勝しました。

他の村から、私を買いたいという商人がやって来たことがありました。

その商人は彼の前にお金をたくさん置いて、

当然、私を買うことができるだろうと思っていたようでしたが、

彼は、首を縦には振りませんでした。

私たちは家族でしたから。




ある年のことです。

なぜか、その年は、収穫祭は行われず、馬のレースもありませんでした。

そう、ジャガイモの畑には、花も咲かなかったし、蝶も飛ばなかった・・・。

次の年も次の年も。

そして、ずっと・・・。


初めて優勝した日の記憶が、少しずつ、影絵のように ぼんやりとして、

本当にあったことなのか、夢のことだったのか、

くねくねとした山の稜線を辿るような、そんな時間が流れていきました。




気が付くと、彼の美しい真っ白な髪は、いつの間にか、銀色になっていました。

すでに彼は、若者ではありませんでした。

もちろん、銀色の髪をした彼を、私は大好きでした。




夏の夜でした。

月が輝き、草原の草たちがサワサワとおしゃべりを始めたころでした。

あの日、彼は草原に座って、星空を見上げていました。

星たちが藍色の夜空から、ほろほろとこぼれ落ちていく様子を、

彼は黙って見上げていました。

そのとき、彼が何を思っていたのか、私にはわかりません。

彼は何も言わず、なぜか少し寂しそうでしたけれど、でも、ときおり微笑んで、

そして幸せそうでした。

夜の風が彼の銀色の髪をすぅっと梳いていきました。

姿のない風が、目に見える一瞬でした。

風は嬉しそうに過ぎていきました。


やがて、暗くて長い廊下の向こうからやって来る部屋の明かりのように、

月の光が彼の髪を照らしました。

けれど、彼の心のなかまでは照らすことはできません。

すると、たくさんの星々が、彼のところへ我先にと集まってきました。

西の空からも、東の空からも。

そわそわと、心を弾ませながら集まってくるのです。

彼の周囲を囲んで星たちはキラキラと輝きました。

彼はまるで、万華鏡の中心に閉じ込められてしまったように見えました。

けれど、彼は優しく星たちを見上げていました。

そして、星たちは、滑り台で遊ぶ子供たちのように、

その銀色の髪を次々に滑り降りていきました。

誰もが楽しそうに、笑っていました。


星たちを追いかけて、私たちは、走りました。

私たちと星たちは、みんなで笑いながら走ったのです。

あぁ、楽しかったこと・・・。

彼を乗せて一緒に走るその瞬間が、私の幸せのすべてでした。


やがて星たちは夜空へ帰っていきました。

一つ、また一つ・・・。

そして、最後まで残っていた星も、振り返り振り返り、夜空へ帰っていきました。

みんなが帰ってしまうと、夜空は湖の水面ように静かになり、やがて夜が明けました。


夢のような日々でした。

夢の日々でした。


でも、楽しいときはあっという間に過ぎるものです。

そうでしょう・・・。



ある日、彼は、とても無口でした。

「おはよう、今日はちょっと山をのぼるよ、がんばっておくれ」

それだけ言うと、彼は手綱を引いて、馬小屋を出ました。

あのとき、彼は、私の背には乗りませんでした。

私は、鞍を付けて、彼を乗せて行くのだとばかり思っていましたが、

手作りの鞍も、初めて優勝したときに職人が作った鞍も、

どちらの鞍も、馬小屋の壁に吊るされたままでした。



彼と私は、一緒に山道を歩いたのです。

山道は、私の知らない道でした。

歩きながら私は思いました。

山の樹木や草や石ころや、小さな虫や、私たちの周囲のものすべてが、

年をとって、時間が急に早足で進んでしまったような気がしたのです。

空や雲や風も。

みんな、年をとってしまったような気がしたのです。

そして、それは、ほんとうだったのかもしれません。



私は、とても不安でした。

彼の後ろ姿は、とても悲しそうでした。

山道は、急に、険しい道になりました。

傾斜がきつくなってくると、小柄な彼の体は前のめりに丸まって、

顔が地面に付きそうでした。

その体はとても重そうでした。

一歩登るたびに、彼はとても苦しそうに何度か息を吸って、

途切れ途切れに吐いていました。

彼の首筋には汗が流れていました。

彼はときおり私を振り向いてくれました。

「大丈夫かい?無理をさせてすまないね」

そう言った彼の額には汗がいっぱい光っていました。

その雫は、頬をつたって、ぽたぽた落ちました。

まるで彼は泣いているように見えました。


私も、一生懸命に踏ん張って登りましたが、一足登るのがとても大変でした。

私は疲れている彼を背に乗せて、山道を登ってあげたいと思いましたが、

とうてい、できることではありませんでした。

私は初めて、自分の体が、鉛のように重くなっていることを知ったのです。

もしかしたら、私は、彼よりもずっと年をとっていたのかもしれません。


時間は、追いかけることも、追い抜くこともできません。

ただただ、一緒に、行くのです。

私たちは、一緒に登っていきました。


彼はときどき私の後ろにまわって、私のお尻をとんとんと優しくたたき、

ぐいと押してくれました。

「ほうれ、もう少しがんばっておくれ。お前なら、登れるさ。」

だから私は、がんばって、山を登りました。

そして、頂上に着きました。

ここです。

なんとまぁ、美しいところでしょう。

疲れが、すぅっと消えていくようでした。


「よしよし、おまえは良い馬だ。よくがんばったね。」

そう言って、彼は私をねぎらってくれました。

私をあの小さな池まで連れていき、私に水を飲ませてくれました。」


そこまで話すと彼女は、少し離れたところにある、小さな池を懐かしそうに見つめました。

あの白い蝶が、池のほとりを飛んでいます。


「あの水は、冷たくて美味しい水ですよ。

私が水を飲み終わると、彼も水を飲みました。

ごくごくと彼は美味しそうに水を飲んでいましたよ。

そして、空を見上げて、それから両腕をいっぱいに伸ばしました。

子供みたいに、手の平をひろげて、背伸びをしていましたよ。

ここは、空が間近に迫っていて、まるで空の天井に手が届きそうなところでしょ。

彼は、空の天井に触ってみたかったのかもしれません。

星たちや月や、風や、みんなに触れてみたかったのかもしれません。


そんなふうに思うことって、ありますものねぇ・・・。

でも、

近いようでも遠いものです。

遠いですものねぇ・・・。」

彼女はそう言って、私に微笑みかけました。


「そうそう、彼は、しばらくのあいだ、あの岩に腰を掛けてじっと遠くを見ていましたよ。」


池のすぐ近くには、形の良い、小さな岩がひとつありました。

彼女の飼い主は、あの岩に腰かけていたのでしょう。

私には、年おいた彼が体を丸めて、その岩に腰掛ける姿が見えるような気がしました。



彼女は、ちょっと浅い深呼吸をすると、また話を続けました。


「彼は、その岩に座って、しばらく黙っていましたよ。

その横顔には、深い皺が何本もみえました。

彼がそれほど年をとっていたなんて、私はなぜ気づかなかったのでしょう・・・。」


彼女は、ともて悲しそうに少し下を向いて、そして目をとじました。

目を閉じた彼女の横顔は、白い石像のように ひんやりとして動きませんでした。



彼女の飼い主がその岩に座っている間、彼女はどんな気持ちだったのでしょう。

私は、彼女の深い悲しみを思うと、何も言葉をかけることができませんでした。


そして彼女は、再び目を開きました。

あの青い瞳が見えました。



「私は、彼の横顔をじっと見つめていました。

どのくらいそうしていたでしょう。

どれほど時間が流れたでしょう。

今まで過ごしてきた私と彼との時間・・・

それよりもずっと長い時間、私は彼を見つめていたように思います。


そして、とうとう彼は立ち上がりました。

彼の細い腰が、ゆっくりと岩の上から離れました。

そして、私のほうへ歩いてきました。

私のたてがみを撫でて、鼻を軽くたたいて、それから私の首を抱きしめてくれました。

あのときの彼の匂いを、私は今もおぼえています。

干し草の匂い、陽だまりの匂いです。

「おまえは良い馬だ。ありがとう。私はお前と一緒に暮らした日々を忘れないよ。

お前のおかげで、私は幸せな日々だった。

ありがとう。

大丈夫だよ。大丈夫だよ。ここなら大丈夫だ。

お前だけは、このまま、ずっとこのままでいておくれ。

なにも変わりはしない。ここは、大丈夫だから。」

そう言うと、彼はくるりと背を向け、私から離れていきました。

彼が私から離れていきました。


すでに私には、わかっていました。

そうなのだと思いました。

突然、彼との別れのときがやって来てしまったのです。

彼は、二度と振り返りませんでした。

私も、彼を追うことはしませんでした。

あのときの彼の後ろ姿を見送りながら、私は思ったものです。

「なんとまぁ、寂しい哀しい後ろ姿をしているのだろう。

こんな後ろ姿を私は知らない」と。

私のために、世界中でたった一人、私のために哀しんでいる後ろ姿でした。



そして、彼の後ろ姿は、

夕陽が落ちるように、ぽとりと消えていきました。

まるで、彼は、別の世界へ溶けていってしまったようでした・・・・。


あのとき、

あのときは、夜だったのでしょうか?

それとも朝だったのでしょうか・・・。

私は何度も思い出そうとしたのですが、なぜか、思い出せないのです。

あの日の彼の髪のがどんなふうに輝いていたのか

最後の後ろ姿の彼の髪の色を

私は思い出せないのです。


あの日から、ずいぶん時間が経ちました。

そして今、私はここに、いるのです。」

彼女はここまで話をして、ずいぶん疲れた様子でした

彼女はふたたび遠くを見る目をしました。


白い蝶が、その視線のほうへ飛んでいきます。

彼女の見る遠くには、きっとあのとき、彼女から去っていく飼い主の後ろ姿が、

見えているのでしょう。


そうして、あの青い瞳で再び、私を見上げました。

包まれるような、優しい視線です。

そして、静かにこう言いました。

「私と彼が過ごした日々は、ほんとうに夢のような日々でした。

どこから夢が始まって、どこから夢が終わっていたのか、私にはわかりません。

今も、夢の中なのかもしれません。」




私は彼女になにかを言おうとしましたが、結局、言葉にはなりませんでした。

私は、黙りました。

彼女も黙っています。

私たちは、お互いに、ただ黙ったまま、

少しのあいだ、一緒に時を過ごしました。




気が付くと、彼女の姿が少しずつ、小さくなって、小さくなっていきます。

私は、彼女から遠ざかっているのです。

彼女は私を見上げています。

真っ白い世界で、海のような青い瞳が私を見上げています。


彼女が私になにかを言いかけました。

「あぁ、私、私・・・

思い出しました。

あのときの彼の髪の色を・・・あのとき・・・」

「何色だったのですか? 何色だったのですか・・・」

私は問いかけました。


透明な草の上を白い蝶が飛んでいます。

色とりどりに輝くシャボンの輪が、彼女の周りをまわっています。

白い山の頂上が、どんどん小さく遠ざかっていきます。

涙の一粒が頬から落下していきます。

小さく小さくなって、それを見送るように

彼らが小さな点になっていきます。


あぁ、あんなに小さくなっても、まだ、彼女は、私を見上げているのです。

白い刷毛が、白い絵の具で、私と彼らを塗りこめていきます。

私は、どうすることもできません。

どんどん高く、私は彼女から遠ざかっていきます。 離れていきます。

そして、彼女がこの世界の素粒子ほどに小さくなって、とうとう見えなくなってしまったとき、

私は思いました。


小さくなって、どんどん小さくなって、消えてしまったように 無くなってしまったように見えなくなっても、

それは小さく遠くなっただけで、無くなってはいないのだと。



彼女は今もあの山にいます。

友達の白い蝶といっしょに。

いつかまた、彼女は私を見上げ、そして私に彼との思い出を語ってくれることがあるかもしれません。

私はそう思うのです。

今も見上げている。

そう信じるだけで、私は幸せに包まれました。

彼女は言っていました。

「幸せというものは、誰かと一緒に感じるからこそ、幸せなのかもしれません。」と。

私の心の中に彼女がいます。



果てしなく終わりのないこの世界で、小さな命と小さな命が出会って、心を通わせ、

同じ時間を過ごし、共に生きる瞬間があります。

たぶん、この世界のあらゆる時間の大きな流れの中で、それは、とても僅かな瞬間でしょう。

それが、奇跡なのです。

ほんの僅かな時であったとしても、奇跡は、そんなふうに私たちのまわりに、どこにでも、いつでも存在しているのです。

あの光のシャボン玉のように。


風がふぅっと吹いて、すぅっと行ってしまいました。

「大丈夫。大丈夫。あなたはきっと大丈夫」

そう言いながら、どこかへ消えていきました。



一歩、一歩、一生懸命に歩んで

でも、あっという間でした。


このあいだまで若者だったのに・・・

そう・・・ついこのあいだまで。


でも、あっという間だったのです。

長くて長くて

長いけれど、でも

あっという間なのです。


「なんとまぁ、なんとまぁまぁ・・・」

ポニーの声が聞こえてきます。


あのとき、ポニーが見上げていたのは、誰だったのでしょうか。

誰を見つめていたのでしょう。


「なんとまぁまぁ・・・なんとまぁ」

ポニーの青い瞳が、見上げています。


朝になりました。




おおきな森がありました

2020-01-05 14:26:28 | 短編や物語



その森に生えている樹々には、命がみなぎっていました。

深い大地の底から深呼吸をする音が聞こえてきます。

低い音が聞こえてきます。

コントラバスで奏でるドミソの和音のようです。

太い根っこと太い幹と長い枝と、そしてたくさんの葉っぱには、命が大河のように流れています。

そうして、森の樹々は、みんなで力を合わせて、森に丸天井を作っていました。

緑の屋根です。

樹々たちは、あちこちでぶつかっては離れ、ごしゃごしゃに、ぐるぐるに、びゅんんびゅんに伸びています。


空の上から見下ろすと、この森は、命がくるくる踊る万華鏡の世界です。


小鳥たちが一緒になってくるくる飛んでいます。

この森で暮らす生きものたちの家が、この森なのです。


木々の葉は、一枚一枚が妖精たちが鱗粉を塗って念入りに磨き上げました。

花たちは、思い思いにおしゃべりをしています。

蕾は、ハミングしながら揺れています。


土の中では、小さな虫たちが、誰にも気付いてもらえなくても、一生懸命生きています。

そして、のしのし歩く大きな熊は、のしのし強そうに生きていました。

この森では、あらゆる命が、走り、遊び、眠り、戦い、生み、育て、生きるために生きる命をぜんぶ使って生きているのです。

この大きな宇宙が一回転すると、この森の命もまた、大観覧車のようにぐるりと巡っているのでした。



お日さまの光が、折り重なる木々の隙間から、細いストローのようになって、何本の何本も差し込んでいます。

ピアノのトリルを奏でるように、小刻みにちらちらと輝いています。


ディガディディガ、ディディンガ、ディガラン

神様の睫毛のように柔らかな金色で、なんだか、甘いミルクの香りがする音がしています。


けれど、森の奥深くでは、その心地よい音は一音も聞こえなくなります。

沢山の樹々が幾重にも折り重なって、お日様の光をさえぎってしまうからでした。

暗く、どんどん暗くなって、少し怖いくらいです。

暗い灰緑色の空気が、じっと動かないまま、森の地面に敷き詰められていました。

ここでは、時間がとまっているかのようでした。

それは、この森が生まれたときの最初の空気が、じっとそのまま、ここに残っているからなのでした。


地面に耳をあてると、かすかに森の心臓の音が聞こえてきます。

深い深い、遠い遠いところから聞こえてくる音です。

ふわぁふわぁっと、近づいたり遠のいたりしていきます。

その音は、森の体温の音、そういう音なのです。


おやおや、子猿たちが、その音を聞きに遊びにやってきましたよ。

みんなで腹ばいになって地面に耳をあてています。

両腕を広げて、眼を閉じました。

森の心臓の音は地面の奥底からやってくるのです。

その音を聴くと、とても気持ちが安らいで、いつもならキャッキャッとはしゃいでい子猿たちが、とても静かになってしまいます。

この森の大地を抱っこしているのです。



今度は、くるりと寝返りをうって、仰向けになりました。

上を見ると、地面とお空がぐるりんとでんぐり返しをしてくれます。

子猿たちのお腹の上には、森と空とそして、その上の上のもっと上の世界が何層にも重なってのっかっているのです。

きっと、この瞬間、星や、お月様や、もっともっと遠くの誰かも、この子猿たちの小さなお腹の上に乗っかっているのです。


小猿たちはそのことが面白くてしかたありません。

みんなでお腹をさすりながらクスクスわらってしまうのです。

とても楽しそうです。

友達が笑っている顔を見合わせて、そしてみんなで笑っています。



よおく見ると、空と森の境い目あたりの高いところには、ちょうど、クリスマスツリーの飾り玉のような、

水銀色の空気の玉がいくつも浮いているのをみつけます。

ほらほら、あれとか、あれです。

小さいのや、大きいのや、いろいろです。

葉の影に隠れているものもあります。


玉の表面は鏡のようにすべすべで、凸レンズのようになって、森の景色を写しながら、ちゅるちゅる小刻みに振動しています。

これらの玉は、樹が吐いた息が、まあるく玉になったものです。


そうして、樹の吐く息は、長い時間をかけて、少しずつ空に上り、空の天井に届きます。

空の天井に到着すると、だんだんと小さくなって、水の粒に変わります。

そして、雨となって戻ってきます。


さわさわと

さわさわと、

降り注ぎます。



みんな、新しく生まれる命となるためです。



雨の香りが、樹の香りと似ているのは、雨粒が樹々の根っこに吸い上げられて樹々の体を通り抜けていくからなのです。


雨粒は、いつかまたお空へ上り、そして雨粒となってふたたび降り落ちるのです。

雨粒の小さな命たちは、全部の命とつながります。

みんなそれぞれ、たった一回きりの一生を生きていきます。

そうして、また、たくさんの命につながっていくのです。



あなたたちも、やってきて、

あなたも、

あなたも、

まわる観覧車の一度きりの乗客なのです。



もう、ずっと、ずっと繰り返されて、繰り返されて・・・・。


これからも、ずっとずっと、続きますように・・・。






思い出の繭玉

2019-11-15 14:01:02 | 短編や物語


夏も終わり、秋も深まったある日の夜のことです。
その夜は、月も星もありませんでした。
夜空は、長いトンネルのようにどこまでも真っ暗です。

なにやら夜空の途中に、白い帯のようなものが、たなびいて見えます。
白い帯は、波のように高くなったり低くなったりしながらこちらへ近づいてきます。

よおくみると、帯のように見えていたものは、一つ一つが小さな白い玉のようです。
たくさんの玉が寄り添い合って、帯をつくり夜空を移動しているのでした。

その玉は、小さな子供がたどたどしい手つきで、くるくると巻いた糸玉ように、ふわふわの糸が何十にも巻き付いているようにみえます。
そうして、その中心がほんのり透けてみえるのです。

その玉の中で、なにかが動いているのでした。

玉がくるりと回転すると、万華鏡のように中身が変化しているようなのです。
桜の花びらのように、薄紅色をしている玉もあります。
金平糖が入っているような、淡い色がいっぱい見える玉もあります。
白黒の写真のように、色の無い玉もあります。

ときどき、その中心から透明なガラスをはじいたときのような、キーンとした高い音が聞こえてきます。
おしゃべりをしているような、眠っているような、笑っているような、泣いているような声も聞こえてきます。

どの玉の内側も、とても温かそうでした。
そして、どこか寂しげです。

そうなのです。
夜空を移動しているのは、だれかの思い出の繭玉なのでした。

思い出の繭玉は、みんなが寝静まる真夜中に、夜空の途中あたりに、ふぅっと吐いた息が凍ったように白く浮いて現れます。

誰にでも、大切な思い出があるでしょう。

繭玉のひとつひとつが、昔、誰かの大切な思い出だったのです。
誰かの心の中で生まれ、大切にされていたものです
誰にも思い出されることがなくなってしまった思い出が、繭玉の中にしまわれて、あてどなく、さまよっているのです。


これほどたくさんの思い出が、もう誰にも思い出されることがないのです。


繭玉たちはゆっくりと通り過ぎて行きました。

どこへ行くのでしょう。
繭玉たちは、いつか、どこかへたどり着くのでしょうか・・・。

繭玉たちは、だんだん、小さく遠くなっていきました。

一匹のカエルが、池のほとりで夜空を見上げています。
カエルは、もうすぐ、冬ごもりのために土のなかで眠ります。
カエルは、遠ざかる繭玉を見送りながら、藍色の夜空を、その大きな瞳で見つめていました。

「おいらが、思い出すよ。思い出の繭玉さんたちのことを、今夜のことを、おいらはきっと思い出すよ。」

カエルは、心の中で思いました。


思い出すことが、思い出を心の中に留めるのです。

そして今夜のカエルの、この思い出も、いつか、繭玉となって夜空に昇るのでしょう。