幸せについての考察 【桐棺三寸】

桐鳳柳雨が贈る、幸せについての考察。
Googleディレクトリ公認サイトです。

「傍観するのは“共犯”」か?

2008-01-20 | 日記 Ⅰ
1月18日付「東京新聞」社説より。

『凶悪な犯行で犯人が罪に問われるのは当然だ。だが現場に居合わせた人々も見て見ぬふりをしていたら、良心に恥じることはないのか。警察と防犯カメラ頼みでは、犯罪はなくせない。』

『さらに恐ろしいのは、事件が起きている間、同じ車両に乗り合わせた約四十人の他の乗客が、被告を制止はおろか、乗務員への通報もせず、見て見ぬふりをしたことだ。』

『被害者は恐怖で助けを求められなくても、女性の泣く姿など異常に気づきながら他の乗客はなぜ傍観したのか。犯人に立ち向かわなくても、乗務員にこっそり知らせたり、非常ボタンを押したりすることはできる。携帯電話もこんな時こそ役立てるべきだろう。』

全くもって、そのとおりである。
何の反論の余地もない。

しかし、である。
ここで、私の恥ずべき過去を告白させていただく。

24時間営業のセルフサービスのガソリンスタンドで洗車していた時のこと。
時間は早朝4時頃だろうか。
自分は一人。
スタンドの反対側の隅では、大型車が何台か給油していたと思う。
かなり広いスタンドである。

洗車をし終え車を拭いていると、ものすごい勢いで1台の車がスタンド内に進入してきた。
直後、この車から2人組の男が降りてきて、慣れた様子で両替機をこじあけ始めたのだ。

一瞬、わけがわからなかった。
全く想定外の出来事が突然目の前で起こると、瞬間的に思考回路が停止するようだ。

そうしているうちに、次の両替機をこじあけだした。

そしてここでやっと、これが強盗だということを認識した。

賢明な読者の方々なら、「すぐに従業員に知らせなければ」などと、いくつか選択肢が考えだされることだろう。

しかしなぜかその時、私にはそれが思い浮かばなかった。
「自分が何をすればよいのか」ということしか思い浮かばなかった。

「携帯で警察に知らせよう…しかし、何て言えば…そうしていることがヤツらに見つかって襲いかかってきたら…、自分の車のナンバーも見られてしまうかも…この場はなんとかなっても、後日報復されやしないか…。それも、家族が狙われたら…。ここからヤツらまでの距離は数十メートル…。向こうのナンバーは確認できない。通報したとして、何と言えばいいのだろう…。犯人の特徴は…、白っぽい服をきた男と、グレーの服を着た男…、頭にはニット帽…、2人組…、年は20代?いや、30代か? そもそも通報したところで、警察が来る前にヤツらは立ち去ってしまうだろう…。オレが止めに行くか…? ヤツらの手には、バールのようなもの…。凶器も持っているかも…。勝てるか…?いや、そこまでする義務はないか…? いっそのこと車を運転してヤツらにつっこむか…?…」

全く恥ずかしい話だが、こんなことが頭の中をグルグル駆け巡った。
そして、そうしているうちに犯人は事を済ませ、立ち去ってしまった。

これが、突然自分が襲いかかられたとか、家族が襲われたとかいうことであるなら、どのような結果に終わるかはわからないが、必死になって何とかしようとしただろう。

しかし、進んで関わりさえしなければ、自分には全く影響が及ばないことなのである。

臆病、或いは卑怯だと言われるだろうが、真っ先に思いついたのは、「まず、自分や家族の身が安全であること。そしてその上で、この件に自分がどう対処すれば…」ということだった。

私にはほんの僅かだが、多少の心得がある。
普通の方より日頃から、「もし、この状況でこんな事態が発生したら」などということについて、考えているという自負もある。

にもかかわらず、この体たらくである。
読者の方々の失笑が、目に浮かぶようだ。

今後、もしこのような場面に遭遇したならば、迷わずスタンドの従業員に知らせるだろう。

しかしそれは、こうしたことを経験したからこそ、そして、事後の冷静な頭脳でもって初めて言えることだ。

閑話休題。
特急内での暴行について。

私が乗客だったなら。
恥を承知で言わせてもらえば、傍観していたかもしれない。
進んでこの事態を食い止めようとしたであろう自信はない。

きっと、スタンドの時と同じように、頭の中を無意味な思考がグルグルと駆け巡ってしまうことだろう。

もちろん、今なら言える。
携帯電話で通報するか、乗務員に知らせるか、或いは非常ボタンを押すか。
更には、不意をついて、犯人を後ろから凶器で殴打するということもするかもしれない。

それでも、現実的に考えれば、
「どこに携帯電話で通報するのか? むろん、鉄道関係者への連絡先などわからない。警察か? しかし連絡したところで女性を救うことはできないだろう。非常ボタン? どこにあるんだ? 第一、電話をしたり、乗務員に知らせたり、非常ボタンを押しに行ったりしているところを暴行犯に見つかったら…」
などと、頭が混乱するかもしれないが。

更には、「約40人の乗客」ということも、結果的にそうだったということではないだろうか。
実際に暴行犯を目の当たりにした乗客には、他にそれだけの人がいたなどということは解らなかったことだろう。

私が遭遇した、スタンドの事件にしてもそうだ。
あのスタンドにはあの時、私以外にも何人かの客がいたはずだ。
しかし私には、自分以外の人がそこにいるという認識はできなかった。

私が何らかのアクションを起こしたとして、他の客もそれに同調してくれるなどという保証はどこにもない。
というよりも、そもそもどのくらいの客がそこにいるのかということさえ認識できていないのだ。

また、それもこれも、こうした事例を知ったからこそ、客観視できるからこそ、言えることだと思う。
私が今になって、或いは冷静な状況で、「スタンドの従業員に知らせれば」と言うようのと同じように。

事件当日、列車内には約40人の乗客がいたそうだが、その乗客は全て、私のような臆病かつ卑怯な人間だったのだろうか。

私は、そうは思わない。
40余人の乗客は、私たちみんなを体現した姿…私たちみんなのサンプルであるような気がしてならない。

『英国には、犯罪の被害者や目撃者が叫び声を上げると、居合わせた市民が犯人の制圧などに協力する「ヒュー・アンド・クライ」という伝統がある。わが国でも、暴力団追放など住民が協力した例はある。』
と、社説にある。

しかしそれは、緊急時に突発的にそう判断し、そうなったということではないだろう。
様々な不幸な経験や事件を積み重ね、その結果出来た伝統であり、また事例なのだと思う。

社説というもの、模範的な回答を載せなければならないものだということは充分解っているつもりだ。

しかし世の中全ての人が、社説を書く方のような立派な人間ばかりではない。

「何でこうしなかったんだ!?」と、結果のみから意見するような姿勢は、あまり好きになれない。

ちなみにこうした場合、どうしたらよいのだろう。
スタンドの件にしても、列車内の事件にしても、誰かに知らせるという過程において、自分に被害が及んでしまうのではないかという危惧があるものと思う。

個人的には、防犯ブザーのようなものが効果的だと考えるが、いかがだろうか。

そうしたものを携帯している人が、こっそりブザーを鳴らす。
すぐには、どこで誰が鳴らしているのか、判断がつかないだろう。

当然そのあたりに、周囲の注目が集まる。
そうした中で犯人が、わざわざその所在を確かめにまわるだろうか。

危険を冒して誰かに知らせにゆくよりも、よいのではないかと考える。


「もくじ」へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大型スクーターに乗るヤツは... | トップ | 朝日新聞に、パクられた? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記 Ⅰ」カテゴリの最新記事