Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2009年12月号 カクマの治安、悪化

2010年04月22日 | 最新ニュース
【漫画】 泥棒から武器を取り上げて追いかける難民 (訳者注)

UNHCRは、カクマの難民を武装集団の攻撃から「保護」するためとして、ダダーブキャンプに移転させる提案をしている。最近の一連の攻撃は、それぞれ、コンゴ、多国籍、ブルンジ、第一ゾーンのコミュニティーを脅威に晒している。

ある難民が武装男の銃を奪った。その後2009年10月と11月に、キャンプ内のいくつかの地域が攻撃を受けた。数十人の難民が自分のコミュニティーにいることに恐怖を抱き移転した。

〈コンゴ・コミュニティーへの攻撃〉 

10月18日夜、武装した男たちがコンゴの難民コミュニティーを攻撃した。だが武装グループは目的を果たせなかった。コンゴ・コミュニティーの1人が、銃をもった氏名不詳の男から銃(AK-47カラシニコフだったと報告されている)を奪い取ったからだ。武装男は銃を奪い返そうと争った際(銃は奪い返せなかった)、流れ弾が2発発射された。

グループ61地区の住民は事件後1週間ほど、怖くて家に帰れなかった。

10月19日、KANEREの記者がキャンプの病院を訪ねたとき、武装男から銃を奪ったU.Mは、「あの男と闘って勝ったということしかわかりません。神がその力を与えてくださったのです」と話した。U.M.は額に傷を負い、治療を受けていた。

コミュニティーの複数のメンバーの報告によると、警察とGSU(ケニア警察一般サービス隊)は、攻撃のあった夜、グループ61地区を訪れた。しかしそのときは、武装男から奪い取った銃は警察に渡されなかった。結局、翌朝になって、キャンプ・マネージャー、UNHCR、LWFの治安職員と難民たちの立会いのもと、ケニア警察に渡された。

〈最近の一連の攻撃〉

10月24日夜、また別の事件がカクマ第3地区の多国籍コミュニティーで起きた。武装した3人が空に向けて銃を放った。難民たちにとり囲まれそうになっていることに気づいたからだ。カクマ第3地区のある住民はKANEREに対し、この発砲事件を振り返り、「最初に銃の音を聴いたのは10時半ころだった。発砲はトゥルカナ村近くだったと思う」と話した。

この秋の初め、第1地区にいる難民たちが、近くで伝統的な武器をもった男たちに行く手を阻まれ襲われた、と報告した。A氏はその攻撃で3500ケニア・シリングを奪われた。彼は助けを求めて叫んだが、武装集団の方が勝り、逃走した。

ブルンジの責任者とルワンダのコミュニティー・メンバーもまた次の報告をしている。9月26日土曜日、キャンプ内のタラチ季節川近くで武装攻撃があった。コミュニティーの責任者によると、「50人の男の集団が我々を30分間人質にした。彼らのうち5人が銃で武装していた。我々の多くが、お金と市場で買った食糧を奪われた。ケニア警察が第3地区からかけつけて来たが、武装集団は空に向けて発砲して逃げ、誰も捕まらなかった」という。

〈コミュニティーは保護を求めている〉

グループ61地区が襲われて以降、コンゴ・コミュニティーのメンバーたちは再び脅威に晒されるのを恐れ、隣人たちの家に移った。彼らはUNHCRのプロテクション・ユニットによる事前の保護を求めた。プロテクション・ユニットは難民たちに、東ケニアのダダーブキャンプへの移動申請書を提出することも可能だと言った。

コミュニティーの関係メンバーたちは、よりよい保護を求めてナイロビに行きたいと願ったが、この解決策は却下された。ナイロビに行くのはかまわないが、UNHCRによる支援は一切受けられないということだった。

〈UNHCRから保護の解決策は提示されず〉 

発砲事件がたびたび発生し、キャンプの難民は負傷したり殺害されたりしているが、犠牲者は、キャンプを運営している人道支援団体から継続的な保護という適切な解決策を与えられていない。コンゴ・コミュニティーの聖職者が2008年6月に銃撃され死亡した。この事件で被害を受けたコミュニティー責任者はナイロビに送られたが、UNHCRの支援もないまま、未だにナイロビの街中を放浪している。

多くの難民がナイロビの都市部でのより安全な生活を求め、UNHCRからの何らかの支援を期待している。しかし彼らの願いは却下され、犠牲者たちは町の中で未だに路頭に迷っている。助けを求めてNGOに行く人たちもいる。NGOの支援を求めようとする人たちは、UNHCRから保護委託書をもらってくるように求められる。このような要請は、UNHCRが人道支援団体の活動家に影響力を行使するもので、難民にキャンプの外で生きるのをあきらめさせようとする手段の一つだと思っている難民もいる。

「私はプロテクション関係の職員に面会の予約を取り付けました。紆余曲折の後、UNHCRの保護委託書があれば面接してくれるということになったのです。しかし、私が彼らに見せることができたのは、カクマ・サブオフィスからもらった複数の書類だけでした。私は、私を撃った男がナイロビの街中で私をまた見つけるのではないかと恐いのです」とM.M.はカネレの記者に電話で語った。彼は、ダルフールの難民である。

銃弾で負傷した大勢の難民が、キャンプの中に何年も閉じ込められている。彼らはナイロビに自主的に移住する手段をもっていない。キャンプのいくつかのコミュニティーでは、住民が適切な保護契約書を持っているにもかかわらずUNHCRから守られないことがある、と言う難民もいる。

N.Wはルワンダの難民で、2002年に銃撃を受けた。彼はこの攻撃以来何度か、UNHCR移住局の継続的な保護を要請しているが、キャンプに張り付いたままである。彼もコミュニティーのメンバーも、継続的な保護としての移住に関して、差別されている、と言う。

あるルワンダの若い難民は次のように話している。「UNHCRは、ルワンダ人を人種的にプロファイリング(移住ユニットが日常的に行っているスクリーニング)しているわけではないと言う。でも我々はまぎれもないアフリカ大湖地域コミュニティーの難民なのだ。UNHCRの傘の下にいて、なおその管轄下の難民の恩恵(と思われること)を受けられないのは悲しいことだ。 これは公然たる差別だ」

UNHCRのプロテクション・ユニットは、難民の保護を進める為に存在する。 治安を脅かす事件が増えているのに、犯罪者が野放しにされ、被害者は有効な保護策がないまま放置されるとなると、難民はこの保護契約書はいったい何なのか疑ってしまう。難民は、こんなに多くの犯罪事件が起き、攻撃された被害者が繰り返し傷ついているというのに、なぜきちんと対応もせずに無視されるのか、理解できない。


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