goo blog サービス終了のお知らせ 

Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2009年3-4月号 難民認定:申請却下に直面して

2009年08月16日 | 人権
庇護希望者は、カクマの難民認定(RSD)手続きで公平性という基本基準が守られていないと感じていて、申請却下という結果が出るのではないかとを恐れている。

【漫画】
警備員1:なんてうるさいヤツなんだ? いいか? まだ午前10時だぞ。職員はまだリクリエーションタイムだ。帰れ!!」
難民:UNHCRはどうしてそんなに分からず屋なんです?」
警備員2:「シー、シー、シィーーー、黙れ」
かげの声:「何を期待しているの? 帰るしかないわ。警備員の言う通りなんだから・・・キー、キー、キィーーー」

何年もカクマ難民キャンプで生活している庇護希望者は、難民申請がUNHCRによって却下された場合、どうなるのだろうか。何人かは他の国に逃げ、何人かは都市周辺に消える。そして、何人かはカクマに留まるが、食料配給もサービスも受けられない。彼らはUNHCRが認定却下の立場を変えるのを待っていると言う。 しかし希望はわずかしかない。

KANEREは、難民認定を却下されたものの現在カクマに住んでいる10人の庇護希望者への綿密なインタビューと、別の場所に移住していった10人の追跡調査を行った。彼らは一様に、証拠がはっきりとしないという理由で申請を却下されたという。彼らは一様に、カクマにいるUNHCRの有資格弁護士は、認定手続きで公平性という基本基準を守っていないと感じている。

〈めったに来ない二度目のチャンス〉

ティラフン*はエチオピア出身の難民で、当初は、カクマにあるUNHCRの資格審査事務所で申請却下された。彼はエチオピアで迫害を受けたあと、2005年にキャンプにたどり着いた。エチオピア南部の軍事キャンプに投獄されている間は、脅迫され拷問を受けていた。

刑務所に入っているとき、アディスアベバの赤十字代表団の訪問を受けた。「それで命が救われた」のだという。最終的には刑務所から逃れることができ、カクマ難民キャンプにたどり着いたのだが、そこで予想外の困難に直面した。

エチオピアのモヤレ警察署での悲惨な経験を証明するICRC(赤十字国際委員会)からの文書を提出したにもかかわらず、ティラフンはUNHCRによって申請却下された。彼への手紙に書かれていた申請却下の理由は信憑性についてだった。

「問題は私にあるのでなく、資格審査事務所にあると考えている」とティラフンは言う。「私はエチオピアで死にそこなった。書類も持っていた。それなのに却下された理由が示されていない」(その後の手続きでUNHCRは、なぜ彼の証言が信用できないと判断したの、明確な理由を示さなかった)

却下後、ティラフンは落ち込んだ。「生きている」と感じられるような自由がなく、人生に意味がないと思ってしまうという。「キャンプで生き抜くのは容易ではない。なぜ私が生きているのかもわからない。なぜ、なぜ、と独り言を言うばかりだ」

結局、ティラフンのケースは地元のケニア政府関係者の知るところとなり、キャンプ・マネージャーに上告することができた。「私はキャンプ・マネージャーの支援で配給カードをもらうことができた。現在は食糧配給を受け、UNHCRの人口調査も受けている」

ティラフンが幸運だったのは、UNHCRから最終的に申請却下されたにもかかわらず配給カードをもらえるよう支援してもらったことだ。申請却下された大多数の庇護希望者は、ケニアの地で人道支援を求める機会は二度と与えられない。しかしティラフンにしても依然として難民としては認識されていない。「残念ながら、キャンプ・マネージャーは私のケースを推奨してくれただけで、難民認定をするよう推薦してくれたわけではない」とティラフンは説明する。

UNHCRの申請却下はティラフンに深い影響を及ぼした。「私の資格面接は公平でも平等でも正義でもなかった! 2007年から2008年後半まで、私は食料も住まいも保護も拒否されていた。私の生活は悲惨そのもので、すっかり落ち込んでしまった」

〈生きることを認められない〉

UNHCRから申請最終却下の手紙をもらった人は、突然、社会的に不安定きわまりない状態に突き落とされる。ケニアでの庇護を却下されたわけで、ケニアでは不法移民の仲間に入る。それでも故郷に帰ることを恐れて、そのまま居続ける人も多い。

申請却下の手紙で、庇護希望者は30日以内にキャンプを離れるように通告される。それ以降、彼らの配給カードは無効になる。「したがって、あなたはUNHCRとは関わりがなくなったので、あなたのファイルを閉じます。あなたを支援することはできません」。申請却下の手紙にはこう書いてある。

申請却下された庇護希望者の中には、別の国に行けば難民として認めてもらえるかもしれないという希望を抱いて出て行く者もいる。KANEREは、生活レベルを上げようとスーダン南部に向かった4人の庇護希望者のケースを追跡調査した。彼らは、UNHCRやケニア政府が難民認定却下の立場を変えたかどうか確かめるために、キャンプを頻繁に訪問するという。

2人はウガンダに行ったと報告されているので、KANEREは彼らからコメントをもらおうとしたが、連絡が取れなかった。認定却下された別のグループ5人はナイロビに行ったが、安全面からも経済面からも不安定で、多くの困難に直面しているという。

難民認定を却下された庇護希望者にとって、UNHCRに認められないままケニアで暮らすのは、多くのリスクを伴う。孤立し、難民コミュニティーと自由な交流を持てなくなる者が大勢いる。KANEREは認定却下された後もカクマに残っている庇護希望者10人と話をした。

難民認定を却下された庇護希望者はしばしば混乱し、ケニアでの生活に怯える。カクマに留まることに決めた場合は、たちまち困難に直面する。エチオピア出身の難民の中には、教育を受けている者もいて、NGOの仕事に就く道も開けるかもしれない。しかし教育を受けていなければ、 UNHCRによる認定却下後は配給カードが停止され、経済的にも心理的にも苦しむことになる。

申請却下された庇護希望者は、不平不満をKANEREに話した。素性を証明するものがなく、食糧を手にすることを拒否され、ケニアのキャンプではだれも彼らの人権保護に責任を持ってくれない。

〈難民認定手続きと「信憑性」の確立〉

難民認定面接の間、資格審査官は面接を受けている者の回答や行動、ふるまいについて詳細な記録を作る。資格審査の面接は通常は約2時間、ときにはもっとかかる。申請者は通訳を付ける選択もできる。このため、カクマのUNHCR事務所では認定難民を通訳として雇っている。

UNHCRのガイドラインでは、庇護希望者には面接の前に、難民認定手続きの目的と範囲、休憩を取る権利について、話すよう命じている。また庇護希望者には、真実を語り、自分達の難民認定請求について可能な限り情報開示をする義務があることを知らせなければならない。

庇護希望者は、難民認定面接に法定代理人を同行しても良いことになっているが、カクマでは法的援助をする人材がいないため、同行する人はほとんどいない。

UNHCRのガイドラインでは、面接を終えた後、資格審査官は面接記録の中で請求決定に特に関連がある部分の要点を復唱しなければならないとしている。また面接の中で明確でない、あるいは解釈がむずかしいと思われる部分も、復唱することを求めている。「申請者が矛盾を説明したリ、通常なら信じがたい証拠を説明したりする機会が持てなかった場合は、資格審査官は難民認定請求に不可欠な事実に対して難民認定の査定に否定的な評価をしてはならない」(4‐10)

原則として、難民認定の決定は審査後1ヶ月以内になされるべきで、2カ月以上かけてはならない。虐待や不正行為を報告する手続きも庇護希望者に広く知らせておく必要がある。UNHCRの事務所は通訳に対する意見や苦情を言える制度も設定すべきだ。制度には受けた苦情のフォローアップも含まれる。

UNHCRカクマ支所での申請却下の大半は、難民認定請求が難民の地位の法的基準を満たしていないからではなく、「信憑性」の問題である。

UNHCRプロテクション・ユニットの職員の1人は次のように述べている。「難民の地位は、その人が真実の情報を伝え、なぜ彼が故国を離れ、そしてなぜそこに戻れないか正確かつ十分な理由を述べて初めて最終決定される。だから請求者はそこをはっきりと証明し、真実の説明で証拠を示さなければならないが、ほとんどの難民はそれを証明できず、難民として受入れられない」

KANEREは、カクマでの難民認定請求の受入率の統計を開示してもらうために、UNHCRプロテクション・ユニットに連絡を取ろうとしたが、情報を入手することは出来なかった。

最初の審理で申請却下された後、独立機関を通して控訴するルートはない。庇護希望者は、以前申請却下の決定を下したUNHCR事務所に、再び上告しなくてはならない。申請却下の理由は、UNHCRによる第一回目、第二回目の審理のいずれでも明らかにされない。UNHCRの難民認定手続きをモニターする独立機関はないので、カクマで申請却下された庇護希望者にとって法的援助や支援に頼る道は乏しい。

〈手続きの公平性は保たれているか?〉

KANEREが面接し、申請却下された庇護希望者たちは、手続きの間UNHCRの手続き基準に従って公平に扱われなかったと、主張している。

UNHCRのガイドラインにもかかわらず、カクマの資格審査官との面接のあと、記録の一部が復唱されることはほとんどなかったと報告する。ティラフンの場合も、面接終了後の復唱はなかったし、面接記録も見せられなかったと言っている。

庇護希望者たちは、難民認定面接の手続きの前に、自分たちの権利や義務の通知は受けていないと言う。彼らの多くは、面接がどういう意味を持つのか全く知らないまま面接を受けた。KANEREに話した数人の庇護希望者は難民の法的な定義さえ知らなかった。

「私は自分の権利について少しは知っているが、難民認定面接の間の権利については何も知らされていなかったし、法定代理人のことも難民の定義も知らされていなかった」と言うのは、2007年にUNHCRによって申請却下されたエチオピアの庇護希望者モハメド*だ。もし自分の権利について知識があったなら、「私は既にこの戦いに勝っていたと思う」とも言っている

面接を受けた大多数は、資格審査官や通訳に苦情を申し立てたが、その苦情が聞き届けられたり検討されたりしたことはないと言っている。面接の中で感じた間違いを明らかにする手立てがないため、多くの者は事実関係の不正確な資料によって却下されたと感じている。

モハメドは、「2回目の難民認定面接で、私は自分の資料の様々な点を明確にしたり訂正したりした。例えば私の出生地はナゲレであってリストに載っているワレガではないなど。しかし、それらの間違いについて何の変更もされないまま、私は却下された」と言っている。

別の庇護希望者、アベラ*は、2003年10月にキャンプに到着し、2006年12月にUNHCRによって申請却下された。「私の場合は、面接の実施方法がきわめて悪く、それが却下につながった。意思の疎通に問題があり、資格審査弁護士の前で通訳と口論になった」と、彼は言う。やがて口論がエスカレートし、通訳から「あなたが非協力的ならもう我々はあなたを助けられない」と言われてしまった。通訳や資格審査官に、時間がないから、さっさと先に進めと言われたのだと言う。「そういう言い草は公正ではないと思うが、誰に苦情を申し立てればよいのだろうか」と聞いてきた。

「通訳が私のファイルを間違えたのだと思う。資格審査弁護士が次々に厳しい命令を下していた」と、UNHCRに2回申請却下されたエチオピアの女性は言う。面接の間、彼女は自分の通訳が非常に奇妙な態度をとるのに気付いていた。頻繁に面接を中断するのだ。「頭のおかしい人のような行動だった。現在、その通訳は気が狂って、エチオピア・コミュニティーで狂人として暮らしている」そうだ。

彼女は自分の事実関係が正確に記録されていないのではないかと心配になった。面接が終わるときには、資格審査官も同じ懸念を抱いていた。しかし彼女には誤った情報を修正する機会が与えられなかった。「事務所からは私のケースに結論を出すために連絡すると言われたが、最終的に却下される前に意見を聞かれることはなかった」と彼女は言う。

却下された庇護希望者の多くは、自分の資料を見直したり、見直したいという苦情を提出したりする機会が欲しいと言う。

アトゥネフ*は難民認定手続き全体にわたって自分の力不足と情報の無さを感じている。「いいように決められてしまった。なぜ面接の直前と直後に難民認定申し込み用紙に署名するよう命じられたのだろう。こういうのが公平な決定なのだろうか」と彼は疑問を投げかける。

〈通訳と誤った伝達〉   

庇護希望者は難民認定手続きで自ら弁明する際、自分たちの要求をはっきり伝達する難しさに直面し、その結果、しばしば難民認定を却下された。申請却下されてKANEREのインタビューを受けた庇護希望者によれば、通訳者は、法的な事例での詳細な通訳というきめ細かい仕事の訓練を十分に受けていない。

「私は自分の話を間違って通訳する通訳者に大いに困らされた。私が接した2人の通訳は全く訓練を受けていないようで、まともな英語の能力もない」と、申請却下された庇護希望者、マムッシュ*は言う。

アトゥネフ*はエチオピア南部のメガでEPRDF(エチオピア民主党)の治安部隊に迫害を受け、エチオピアから逃げた。ボル・ルボマの軍事キャンプ147に拘留され、そこで捕虜収容所のリーダーを2年間務めた。「2年と数ヶ月後の夜、私は多くの捕虜と一緒にやっとの思いで逃げ、2004年にケニア国境を越えることができた」のだという。

アトゥネフは、彼にはなじみのない方言を話す通訳を使うことになるとは知らされていなかったという。面接の前に、用紙に署名するよう要求されたが、用紙の内容は説明されなかった。面接が終わると、何の説明もないまま、別の用紙に再度署名するよう求められた。
2007年になって、UNHCRから申請却下された。今、アトゥネフはカクマ3とレセプションセンターの間を行ったり来たりしながら、無視された状態で生きている。

ザイトゥン*は2007年にUNHCRによって申請却下されたエチオピアの庇護希望者だ。エチオピアのモヤレ地区ツカ区で多くの人を殺害した反乱軍の戦闘に関連した廉で夫が逮捕された後、彼女はエチオピアを去った。夫が逮捕された後、彼女は自分が標的にされているように感じ祖国から逃げ出したのだ。

ザイトゥンは通訳が自分の事例をうまく通訳しなかったと思っているが、彼女は英語で読み書きが出来ないので問題を提起する力がないと思っている。「私は、食糧、医療、そして夫とともに自分も命の保護まで拒否されました。これがUNHCRの公正な仕事なのでしょうか?」 彼女はUNHCRの難民認定政策に同意出来ないと付け加える。彼女は現在カクマ3に1人で暮らしている。

別の庇護希望者、イエン*もまた、別の方言を話す彼の通訳に不快感を示している。ティラフンもまた、難民認定第1回、第2回の両面接での間違った伝達で自分の事例が誤って却下されたと考えている。

〈UNHCRから応答なし〉

KANEREは、UNHCRのプロテクション・オフィスの職員と連絡を取ろうと試みたが、別々の時に3度ともUNHCRの構内に入る正門で阻止された。3度目の訪問で記者は、電話でプロテクション・オフィスの職員と連絡が取れ、面会に呼ばれるまで待つように言われたが、いつまでたっても呼ばれなかった。

KANEREはまたキャンプ・マネージャーにも連絡を取ろうとしたが、彼は記者が連絡を取ろうとした2009年3月10日から12日まで、 職務に就いていなかった。

〈結論〉

申請却下された庇護希望者は、UNHCRに却下された後、自分たちの事例を再考する責任は一体誰にあるのかと尋ねる。彼らは、難民認定手続きが非民主的であると感じている。「カクマ・キャンプに4年以上もいるというのに、我々の事例資料に対するケニア政府の姿勢はいったいどうなっているのだろう?」とエチオピアの庇護希望者は言う。

難民認定手続きの結果次第で人生が変わることを考えると、難民認定審査の間の苦情の訴えに対し、独立機関による見直しができる仕組みを作るべきだと難民は考えている。

UNHCRの資格審査官による不当な扱いや不当な難民認定基準での手続きを体験した申請却下の庇護希望者は、幻滅を感じている。「誰もが権利や人権について話しているが、カクマでは権利というものを持ったことがない」と言うのは、UNHCRによって2006年に申請却下され、現在はナイロビに住んでいる庇護希望者、フィタだ。

「これが難民認定での公正な決定手段なのか? 庇護希望者のためのこれらの政策は、UNHCRジュネーブ本部から直接来ているのだろうか?」と、エチオピアのオロモ出身の庇護希望者は疑問を呈している。

*印は 実名ではない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。