ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

教会というもの

2019-12-15 | わたしの思い

 quortemaster.org

ガレージに立つことが、あなたを車にしないこと以上に、

教会に行くことは、あなたをキリスト教徒にする

ことではありません。

 

 

 

 

あなたは、街の教会堂を通りすぎては一体その内部では何が行われているのだろうかと、ふと思うことが度々おありかもしれない。けれども、あなたの足はそのままそこを通りすぎるだけが大抵の場合だろう。何故なら、「面倒なことになりたくない」し、宗教は苦手だし、キリスト教会堂で結婚式したけれど、それ以前にも関心がなかったから、今更教会へ行ってどうなる、そしてキリスト教文化は、十分親しみ、楽しむが、福音部分が苦手なので、などなど実に多くの「関わりたくない」理由が山ほどあることだろう。


日本では全人口のたった1%がクリスチャンで、つまり99%はキリスト教を信じていないし、福音についても学ぶびたい、とは思いも寄らない。その少ない1%のうちプロテスタントが6割、カトリックが4割だと言う。日本の皇室子女さえ、幼稚園からキリスト教系の学び舎を選ぶ。


これは、キリスト教が1549年に日本に伝来した時から、ごくごく一部を除き、日本人は宗教よりも西洋の学問、知識、技術を得たいと強く願ったことが、そのはじめだろうか。日本ではほぼ5世紀も前にキリスト教が伝来したが、信仰に目覚め、キリスト教徒に改宗するということは、未だにたびたび起こることではない。その頃の宣教師が日本古来の神道や仏教などを邪教とし、禁じたりしたこともおそらく知能の高い日本人を躊躇させたのかもしれない。


私はクリスチャンだが、福音を分け与えてみたいと希望しても、だからと言って強いて人々を改宗させたくはない。改宗は自らの回心(悔い改めともいう)がなければ、決して信仰へとつながらない。もし無理強いのように改宗「させられても」それは不幸なことである。人には自由意志というものが天与されているのだ。つまり、「あなた」が御自分で回心し、御自分でその教会が正しいか祈らなければならない。決して強制されるべきではない。


だから、教会を訪ねたことによってそこから帰宅する時、すでにクリスチャンになっている、ということは、無きにしも非ずではないが、まずそう簡単には起こらない。最終的にあなたが御自分でお決めになることである。人々を家族から引き離したり、洗脳的に扱かったりする宗教団体もある中、そうした悲劇的結末を迎えないために、信仰は究極あなたの意志で、そして真摯に祈ることでお決めになることである。


聖書は、ただの宗教書だけではなく、世界一のトップロングセラーで、歴史書としても非常に面白いものだが、その聖書を読みつくして勉強するのも一考かもしれない。500年前の日本人が概ね願ったように、その文化、知識、知恵、道徳を学びたい気持ちで読まれても役立つことだろう。でも聖書を読み終えても、そこになにも証詞も、信仰も湧かないならば、それは只の知恵を積んだだけのことである。

 

 

Photo: St. George News



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今日12月15日のクリスマス・キャンペイン・チャレンジ: 次の日曜日、クリスマスの礼拝行事に出席するか、中を覗いてみよう。

 

 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」-マタイ伝第11章28節から。


「行く場」がある、ということをどうぞお忘れのなきように。


Photo: San Antonio Express News


 

コメント (2)
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