ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

祖先の助け

2022-09-27 | 系図のこと

 

 

 

 

 

通常の系図探求は、文字通り、先祖の人々を探し、その名前、誕生、結婚、死亡の月日年を探し、それが真実であるかを生涯で発生する政府、自治体、教会記録などの公的証明書・記録で、その真偽を検証し、木が枝を形成していくように記録していく。 それを二面体な系図だとすると、それはいわば、骨格で、そこへその先祖にまつわるエピソードや病歴などの「肉」を付けて、三面体的に作成していくのが、「家族の歴史」であり、英語で言うFamily Tree, 「家族の木」である。

私は、さまざまな方々の家系調査を続けてきたが、系図探求及び事実に基づいた系図を制作する作業の結果が、時には人の命を救う可能性があるのを知っている。

義兄(長姉の夫)の家系調査(つまり平面的な系図)をある程度終え、ひとりひとりについてのエピソードをまとめ始めていくうち、その一族のある遺伝病を記録した。 それはタラシミア(セラシミア)、あるいはクーリー(苦力。中国の下層の人夫、労働者)の貧血症と言われる病気である。 

何故それを発見できたのかと言うと、義兄が持っていたかなり歳の離れた5人の姉たちからの古い手紙だった。 特に彼の長姉は、母親とも言えそうな年齢で、ある日唐突に弟へ、彼女の知っている限りの先祖の名前や生まれた場所などを連ねた手紙を送ってきて、その最後の1ページに、遺伝性のある貧血症について書いていたのだった。 

この貧血症は一般的な単一遺伝子遺伝性ヘモグロビン障害の 1 つで、ヘモグロビン産生経路にベータグロビン鎖が存在しないことに起因する。 かつては、地中海沿岸に多く見られ、地中海性貧血とも呼ばれたが、17世紀頃から地中海沿岸国(フランスやイタリアなど)の人々は数多く、北アメリカに移り、現在は、特に地中海沿岸特有とは言えない。 長姉の夫は、先祖に18世紀にフランスからアメリカに渡った男性がいて、アメリカで英国系移民と結婚していることから、おそらくその人がその遺伝性を持っていたと思われる。 

数年前に義兄が体調を崩し始めた時、長姉に例の遺伝性貧血について調べては、と提案すると、早速医師は検査をしたところ、彼には、その遺伝子がなく(5人の姉たちにはその因子があった)、結局心臓そのものに不具合が見つかったのだった。 義兄の場合、家系探求による知識が延命に結びつきはしなかったが、先日家族の歴史関係の書物を読んでいてこんな記事があった。 幸いなことに、これは義兄とは正反対の結果を生んだ。

これはデュピュイ夫人の話である。

「数ヶ月前、私の 8 歳の息子は、リンパ節に一連の硬い結節が現れた為、生検を受けることになった。 その手術の数日前、心配事から少しでも気を紛らわせようと、Eメールの着信メッセージをチェックすることにした。 私が登録している系図メイルグループから、カナダのオンタリオ州に住むフラン・ラ・チャンスさんという方からのメイルが目に付いた。 彼は、デュピュイという苗字を持つ一族間で悪性高熱症が頻繁に起こるのだが、わたしの家族で、それを聞いたことがあるかどうかと尋ねていた。 彼は、その症状について医学研究がカナダで行われ、実際にカナダではデュピュイ症候群と呼ばれていると説明していた。

私はすぐに彼にどのような症状なのか尋ねるメイルを書くと、早速彼が手元に持っていた追加情報を送ってくれた。 その後、私は医学書を調べたり、オンラインでこのトピックについて調べ始め、多くの情報を集めた。 悪性高熱症とは、全身麻酔下の患者が明らかな理由もなく突然高熱を出す状態であるとわかった。 この症状には効果的な薬がただ一つあると言う。 この病歴のある家族が頻繁な患者ではない限り、通常、手術室に保管さえされず、在庫を持たない病院がいくつもあるらしい。 この突発性高熱により、命を失うことが多くあり、誰が危険にさらされているかを特定する検査もない。

私の家族は比較的健康で手術もほとんど誰も受けてはいなかったので、私には息子がこの症状を併発するかは確信が持てなかった。 ただわかっていたことは、息子から 4 世代遡った親戚が 、デュプイ 症候群にかかったという証拠があった。この親戚祖先の死亡診断書には、「麻酔による死亡」という恐ろしい原因が含まれていた。 

是非これを麻酔医に話さねばならないと、息子の手術前に息子を担当する麻酔科医を探し、家族の歴史からのヒントについて彼に話したのだった。 すると案の定、麻酔科医は、その情報が私の息子の命を救う光明だと言った。 彼はそれがどんなに昔のことであっても、万が一に備えて特効薬を手元に置くために、医師にとって大変重要だ、と言った。 

適切なタイミングで重要な情報を共有してくれたラ・チャンス氏に、私たちは永遠に感謝している。 息子の手術は無事に終わり、家系図とともに一族家の病歴にたいして、その十分な手がかりを、思慮深く先祖が子孫のために残してくれたことに、感謝してもしきれない。 息子が今生きているのは先祖のお陰である。 今、私には家族の歴史を研究し続けなければならない非常に有意義で大切な、そして子孫の命を救うためにするべきだという説得力のある理由がある。」

家族や祖先の病歴を系図に付加するか、あるいは別個に病歴系図を作るなどして、残しておくことは、以前ブログに書いたことがあるが、とても大切である。 この話は実際に役立った良い例であり、まるで遠い昔の先祖が今いる子孫を思いやってくれているような気がしてならないとデュピュイ夫人も、お感じになったことだろう。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜のどこかで

2022-09-23 | わたしの思い

Pampers

 

 

 

 

何が嫌かと言ったら、疲れてやっと就寝したのに、夜中にふと覚醒してしまうことである。 それは大抵夜明けには程遠い。 明日は大事な予定や、旅に出る、などがあるから、しっかり睡眠をとっておきたいのに、と再び寝入ろうとすると、ますます目が冴えてしまう。 

そんな話を同僚たちと話していると、皆あるある、その体験。 「家族の中で夫も子供たちもすでにすっかり寝入っているのに、私だけ夜中にひとり取り残されて、仲間はずれな気分がしないでもないわよ。」とある同僚は言った。 

昔バリー・マニロウがSomewhere In the Nightという歌を作り、ヒットさせたが、そのメロディが脳裏を駆け巡る。 でも「夜のどこかで」ぱっちりと目をあけてしまうことは、ちっともロマンティックではないのだ。

すると、ある55歳の同僚が話し始めた。 

「僕は11歳になるまで、母、父、兄二人、祖母と一緒に、築70年の壊れそうな木造の家に住んでいたんだ。 ところがある運命の夜、火事で家もなにもかもを焼失してしまってね。 僕たちは皆、命からがら逃げ出せたが、所有していたものすべてを失ってしまって。 ありがたいことに、愛情と思いやりのあるコミュニティが助けてくれて、すぐに父は小ぶりの家を手に入れることができたんだ。 でも、祖母だけは、数マイル離れた所に小さな 二つ寝室のついたトレイラー・ホームを購入してね。 それまで毎日祖母と暮らしてきて、その時から毎日会えなくなって僕はかなり寂しい思いをしたんだ。 でも、祖母の新しい家を訪れては、彼女が作ってくれたおいしい食事を楽しみ、さらに、そこには僕が今まで見たことのないケーブル・テレビという贅沢があったんだよね。

祖母のトレイラーハウスで初めて一泊したときのことをよく覚えているよ。 僕は祖母が寝てからもずっとテレビを観ていたのさ。 そしてとうとう夜も更けたから、テレビの電源を切ったとき、しーんとした家の中で、奇妙な感覚になったんだ。 両親や祖母さえも先に寝てしまうほど夜更かししたのは、僕には、これが初めてだと気がついたんだ。 すると突然、世界は暗く、怖く、孤独な場所に思えちゃってね。 僕は起こさないように静かに祖母の部屋に行き、かすかに寝息をたてているのを静かに見ていたんだ。 自分は安全だと思ったのさ。

あれから44年経った今でも、夜中に目が覚めると、時々あの時のような感覚がするんだよ。 僕は自分の家族の中で今や最年長の世代であることにまだ慣れていないかのように。 両親や祖母が恋しいほど懐かしくなるんだ。 そしてふと、この世界はいまだ冷たく、暗く、孤独で、恐ろしい場所なのかもしれないとさえ思っちゃうのさ。」

実際、私たちは何歳になっても、その心の一部はまだ子供で、どこかまだ親の愛を必要としているような気がする。 心の一部は、祖父母や両親に抱きしめられ、慰められる必要がまだあるような気がする。 セピア色になった古い家族写真を見る時、そこに写っている幼い自分は、今と比べるとなんと自由だったのだろう、としばし思うこともある。 その時は、電気不足だの、ガソリンの高騰だの、そんな世間の喧騒など憂うことなく、明日の宿題をすれば、逆上がりが格好良くできれば、世の中は暮れて明けていたのだった。 夜、突然暗闇のなかで目が覚めて、ああでもないこうでもないと下降するような気持ちにもならなかった。 

そんな中途半端に覚醒した夜、不安な気持ちを優しく背中を撫で、時には抱きしめてくれる父母、祖父母はとっくのとうに、亡い。 隣の夫をたたき起こすのも無慈悲だから、寝かせておく。 その代わり、私は天父に心のなかで小さな祈りを捧げる。 それは何かを求めるのではなく、平安と愛と光が心にあることを確かめるためである。 そしてそれはいつもあるのだ。 それは温めたミルクよりもずっと効果がある。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農家の廃屋

2022-09-18 | アメリカ事情 人間性

Picture: SALLY DENG 

 

 

 

 

 

つい先週まで3桁の気温で一時は華氏120度(摂氏48.89度)まで 上昇したのに、週末にはアリゾナ、ネヴァダ、そしてカリフォルニアにかかっていたメキシコからのモンスーンが、降雨をもたらし、今週は初秋の気配が漂い始めている。 そうした大気のあまりの逆変に、やっと、本が落ち着いて読める、とワクワクさえして、手に取ったのは、Dear Country Agent GuyというJerry Nelsonジェリー・ネルソン氏の著書だ。 その中の一文にしんみりとして、ますます初秋を感じた私である。 下にその箇所を訳してみた。 私の好む秋をお感じあれ。 この本は、アマゾンで入手できる。 (和訳があるかは不明)

 

 

古い農家屋は放棄され、バラバラになりつつあった。 しかし、だからと言ってその廃屋を解体することは、作者の過去を破壊するに等しいことである。

1963年、65歳のとき、作者の祖父、アーウィンは愚かとも言えるプロジェクトに取り組むことにした。 彼は新しい家を建てたかったので、それまで使用していたその古い家をどうするか迷っていた。 それを取り壊すのはもったいなく思えたが、かと言ってその家屋の立つ場所に新しい家は建てられるはずだった。 どうしたら良いか、はっきりとしたことは考え付かなかった。 倹約・節約を頭に考えあぐねた結果、インスピレーションを受けたかのように、瞬間に、祖父はブルドーザー作業員を雇って古い家を遠くの木立に押し込むことにした。 そうして、あの古い農家屋は今もそこにある。

祖父アーウィンと祖母エリダが亡くなり、私は彼らの地所から農場を購入した。 妻と私はこの場所で息子たちを育て、30年以上ここに住んでいる。 私たちが当初引っ越してきたとき、妻は例の木立に遺棄された廃屋を一目見て、危険だと宣言した。 私は同意し、巨大な焚き火を計画した。 しかし、価値のあるものが置き忘れられた場合に備えて、まず最初にその廃屋をチェックするのが賢明だと思った。

2人の幼い息子が付き添い、廃屋があった牧草地の背の高い草の中を歩いて行ったが、たどり着くまで、かなり時間がかかった。 たどり着くとフロント・ポーチ自体が崩壊し、ほとんどの窓がなくなり、外壁が落ちていた。 開いた窓から中に入ると、まるでスカンクが床板の下に住んでいたような匂いがした。

タイムカプセルの過去の時空に迷い込んだような気分だった。 ここには、祖父母の生活のさまざまな残骸が横たわっている。壊れた椅子。 麻袋に入った古着。 穀物エレベーター(サイロ)の温度計。しかし、私の目を引いたのは、書類が詰まった段ボール箱だった。私はその内容物を調べようと、箱のなかを掘り起こし、即座に時間を遡っていた。  1957年からの納税申告書があった。 1962年6月からの使用された小切手類。 古い友人や親類からのグリーティング・ カード、今では差出人はすべて亡くなっている。 叔父の小学3年生時の綴り方の本。

私はその箱を掘り起こしながら、多くの楽しい時間を費やした。 その間ずっと、息子たちは、この廃屋に関する一連の質問をし続けていたので、それらに答えなければならなかった。 息子たちは、かつて 総勢9人の家族が、水も電気も通っていなかったこの小さな家に住んでいたことに驚いていた。 作者は、寒い冬の朝、台所のコンロのすぐ隣に置いてあったバケツ一杯の水が氷で覆われていたことなどを話した。 そして、当時はそのコンロが唯一の熱源だったと話すと、息子たちは震えた。

タイムカプセルのような、この古い家は、故に焚き火の末路を免れたのだった。

年月が経ち、廃屋への訪問は稀になっていった。 古い家は再び牧草地で一人孤独を楽しんでいたようだった。 作者や家族たちが人生を急足で歩んでいると、時折あの木々の間から廃屋を垣間見ることができるので、人はなんだろうかと不思議に思うかもしれない。 今は荒屋(あばらや)になったあの家が、どのようにして砂嵐や洪水、吹雪、大恐慌を生き延びられたのだろうか?  そこに住んでいた家族の人々は、私たちよりも堅固な逞しいものでできていたに違いなかった。 子供の頃、牧草地の背の高い草を分け入り、先を歩く父の足跡をたどるのに苦労したことを思い出した。 それでも、父と同じように、農業ほど崇高な生業は作者には想像できなかった。

そして、4月のある朝突然、作者の父が68歳で大規模な心臓発作で事切れた。 作者を含めて家族全員が彼の死にショックを受けた。

作者の父の葬儀が終わった直後に、何故作者があの廃屋に出かけたのかは、作者の理解を超えていた。 まるで彼を呼んでいるかのようだった。 木々でさえ、いらっしゃい、訪問なさい、しばらくそこへいなさい、というような招待を囁いているようだった。

再びあの古いリノリウムの床に立ったとき、彼の目は床に散らばった書類に引き寄せられた。 経年で黄ばんだ封筒が古い書類の上に置かれていた。 封筒には「海軍検閲官通過」と青いインクのスタンプが押されていた。 どうしてこの由緒ありげな遺物を見逃せようか?  作者の父は第二次世界大戦中、USSワシントンに乗艦していて、できる限り家に手紙を書いていたと聞いている。 作者の祖母はそんな息子の手紙をすべて保存していた。

作者はその封筒から一通の手紙を慎重に取り出した。 それは 1944年9月の日付だった。 彼の父は当時18歳で南太平洋のどこかにいたはずで、作者にはなじみの筆記を目にして、読んだ。 まだ18歳だった父は、燕麦(オーツ)の収穫がどうだったのか、作者のやはり歳若かった叔父の新しい農耕馬がうまく働いているのか、などと尋ねている。 作者の父は彼の一番下の弟が、小学1年生になろうとしていると仮定し、頼りになる役立つ若い少年になりつつあると想像もしているようだった。 作者の父は母親に、みんなによろしく伝えてほしいと頼み、自分がどれだけみんなが恋しいことかと書いていた。

行間を読むのは難しくなかった。 この手紙には、それまでの全生涯を両親の農場の草原のこの草の海に住んでいた、まだうら若いホームシックの若者、本当にはまだ子供だった子が、その手紙をしたためたとき、全く別の種類の海にいたのだった。 戦争中の世界の雷と稲妻によって荒らされていた海であった。 手紙の一番下に、下線が引かれた活字で、作者の父は最後のメッセージを伝えていた。 父が慎重に強調した次の言葉を読んだとき、作者の目に涙があふれた。 "心配しないでください僕は元気です。"

その日、古い家を出るとき、作者は肩越しにその廃屋を最後にもう一度見返した。 誰がどう思おうと、彼は決めた。 その廃屋は、自ら朽ち果てて、土に還るまでそこにとどまると。

 

 

ここでお知らせです:コメントをいただいて、今日お返事を書きました。大変遅れてしまい、誠に申し訳ございません。一つ一つのコメントに深く感謝致しております。ありがとうございます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フォーチュン クッキーの話

2022-09-16 | アメリカ事情

 

 

 

住む街に、まともな中華料理店がある。 中華料理店は、どんな田舎町でもいくつかあるアメリカだが、信頼のおける材料と調理で、本格的な中華料理を提供するレストランはなかなかない。 レストラン内のインテリアも、調度品も良く、私は、一つ一つのテーブルにきちんと洗濯され、糊付けされ、アイロンをしっかりとかけられた白いテーブルクロスやナプキンのいつ行ってもきちんとしているのが気に入っている。 そのレストランに先日夫とふたり、デートで出かけ、横浜の中華街の吉兆にも劣らないコースの食事を楽しんだ。 そしてそこでも例のフォーチュン・クッキーが出された。

フォーチュン・クッキーは、合衆国とカナダの中華料理店ではお定まりで、北メキシコの中華料理店でも、出されたことがある。 本場中国では、このクッキーの習慣はなく、その名前さえ知らない。 何故なら、そのルーツは、日本の江戸時代に誕生し、世間で流行ったおみくじの入った菓子、辻占煎餅などがその始まりと言われているからだ。 そのアイデアをアメリカに持ってきたのは、日本人移民だそうである。(詳細はWikipediaで。)

 

tefutefusanpo.netから。

石川県や富山県などで昔から知られている辻占お菓子の一例。

 

その日、私たちが貰ったフォーチュンクッキーが、下の写真である。 

 

最近の「フォーチュン」(御神籤、運、幸運)は、当たる、当たらないではなく、よりよい人生へのちょっとしたヒントのようなものが多く、案の定私の御神籤には、「静かに心を落ち着けなさい。 平安は美徳です。」とある。 それでも御神籤的な文言はいまだ多く、それが驚くほど正確である場合もあれば、非常に有益な場合もあると言う。 次のようなエピソードが現実にあるのだ。

  • 2017 年 12 月 9 日、大学生のジョーダン・リチャーズは地元の中華料理店で「今日から 3 か月後、何か良いことが起こる」と書かれたフォーチュン クッキーを開いた。リチャーズはそれを真剣に受け止め、カレンダーに「フォーチュン・クッキー・ デー」と記したほどだった。 3ヶ月後、彼は就職活動で、願っていた仕事の申し出を受け取った。
  • 「いつも子供時代楽しかったという思いを持っていると、年を取ることはありません。」というフォーチュン・クッキーが必要な女性もいた。 ブロガーのジリアン・ボーバーグがそれを読んだとき、彼女はまだ50歳だった父親との関係悪化による心的外傷後ストレス障害と闘っていた。
  • 「あなたの陳腐なフォーチュン・クッキーはあなたを一生の至福へ導きます。」というフォーチュンを得たブロガーのニッキー・D。「彼女は空港で中華料理を食べていたとき、そこで向かいあって座って食べているチャーミングな男性に気がついた。 「運命のように、私たち2人は少し離れて向かい合って座っていました。 私はチャーハンを半分くらい食べて、ノートパソコンを取り出して仕事もし始めました。 するとその時、あのハンサムな男性が私のところに来ました…私は彼に名刺を渡しました(かなりぎこちなく)、そして空港を出る前に彼は私にテキストメッセージを送り始めました。」 彼女と彼は婚約し、近々結婚する。

時にはロマンティックでもあるフォーチュン。 オフィスのデスクの引き出しに素敵と思ったフォーチュンを入れておく同僚もいて、私もそれをやっていたが、ただ別のゴミを作っているだけであることに気付き、やめた。 私には、生きている毎日がフォーチュンである。

 

過去の関連記事:

フォーチュン・クッキー - ままちゃんのアメリカ

フォーチュン・クッキー - ままちゃんのアメリカ

http://img.picturequotes.com/2/670/669721/fortune-cookie-quote-11-picture-quote-1.jpgアメリカやカナダの中華レストランで出されるフォーチュン・クッキー(おみくじク...

goo blog

 

 



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国の薔薇

2022-09-14 | 人間性

Blooming Haus/David Austin:在位70周年記念の”新エリザベスの薔薇”

 

 

 

エリザベスは個人的な人物だったので、彼女が自分の信仰についてあまり公に話さなかったのは当然のことであろう。 しかし、毎年恒例の女王のクリスマス・メッセージのように、彼女の信条への誠実さが光る時があった。 クリスマスのメッセージは、ラジオ放送として始まり、その後テレビに、インターネットにも移行し、世界中の何百万人もの人々は頻繁に耳を傾けてきた。 2000 年のメッセージの中で、エリザベスは次のように述べていた。 「私にとって、キリストの教えと神の前での私自身の責任は、私が人生を歩もうとする枠組みを提供してくれます。多くの皆さんと同じように、困難な時期にキリストの言葉と模範から大きな慰めを得てきました。」

君主としての役割で、エリザベスは英国国教会の名誉ある首長を70年の間務めた。  英国法令第39条の接頭辞(1682年に国王によって追加された)が述べているように、君主は称号によって「これらの私たちの領土内での信仰の擁護者および教会の最高知事」である。 今日、エリザベスは教会委員会によって選ばれた名前を検討する首相の助言に基づいて大司教と司教を任命する任務を負っていたが、その地位はほとんど象徴的である。 大司教、司教と学部長、助祭と教区司祭はすべて、忠誠の誓いを立て、主権者に敬意を表する。

エリザベスは英国国教会でのようにスコットランド国教会の最高総督ではなかったが、彼女は「プロテスタント宗教と長老派教会政府を維持する」ことを誓った。 彼女とスコットランド国教会との関係は、戴冠式の 3 週間後の 1953 年 6 月 24 日にエディンバラのセント・ジャイルズ大聖堂で行われた奉献式によって象徴された。 スコットランド国教会は長老派教会であり、イエス・キリストのみを「王であり教会の頭」と認めている。

エリザベスは、800 以上の異なる慈善団体の後援者で、近代史で最も慈善的な君主の 1 人と考えられており、彼女が支援する組織のために 生涯で20 億ドル近くを集めた。 「私たちは、世界の問題が大きすぎて(多過ぎて)、私たちができることはほとんどないと考えることがあります」と彼女は 2016 年に語っている。 「私たちだけでは、戦争を終結させ、不当な仕打ちを拭い去ることはできませんが、何千もの小さな行いが集まれば、想像するよりも大きな良いことができます。 . . .私には、キリストの模範は、小さなことを大きな愛をもって行うことの価値を理解するのに役立ちます。」

エリザベスは生涯で 5 億ドル以上の個人資産を獲得した。しかし、彼女が現金を持ち歩いたのは日曜日だけだった。彼女は教会に献金をすることができるように、日曜日には財布にいくらかの現金を入れていた。 彼女の通常の寄付は 5 ポンド (5.75 ドル) だったが、10 ポンド (11.50 ドル) を寄付することもあった。 知り合いだったエリカ・ゴンザレスによると、「彼女は、献金に人々の注意を引かないように気をつけており、報告によると執事にお札を四角形にアイロンがけをしてもらい、献金箱にそのお札を慎重に追加できるようにしていました。」

 

私の生涯を通じて、キリストのメッセージと教えは私の指針であり、私はそれらの中に希望を見いだしてきました。

エリザベス女王 2 世
2022 年 8 月 3 日

 

 

追記:

今朝、生中継されたエリザベス2世女王葬儀を見た。 短く、荘厳で、シンプルな美しいセッションであった。  それはまるで彼女の最後の願いのようであった

Picture by Eleanor Tomlinson

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする