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ホットチョコレートにマシュマロいくつか入れて夜長の読書
夜長に読んでいた本に次の言葉を見つけた。 非常に現実的で、崇高で、そして妙に考えさせられる、 特にそれがヴィンセント・ヴァン・ゴッホの言葉だから。
「人はただ幸せになるためにこの世にいるのではない。 人は人類のために偉大なことを実現し、気高さを獲得し、人間が存在する下品さを克服するためにそこにいる。」
-ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
Historical Society of Michigan
この写真の男性は、ウィリアム・ビールが埋めたボトルの 1 つを持っている。 これは、おそらく 1920 年か 1930 年に撮影されたもの。
1879 年にウィリアム・ビールを見た人は、おそらく彼の頭はいかれているに違いないと思ったことだろう。 そう思った人々は、ビール植物学教授が20 本の瓶に少量の砂と共にさまざまな種を入れ、密閉して、それらを深い土中に埋めているのを見たのだった。 彼らが知らなかったのは、ビール教授が何世紀にもわたる種子の生存可能性実験を行っていたということであった。 20 年ごとに瓶を掘り起こして種を植え、どの種が発芽するかを確認していた。
去年2021年、ビール教授の属したミシガン州立大学で、そんな瓶の一本が掘り出された。 瓶の中の種子は大学研究者によって植えられ、142 年以上生き残ったいくつかの種子は発芽したのだった。
日本では、大賀一郎理学博士を中心としたグループが1951年に千葉県千葉市検見川の落合遺跡周辺の泥炭地で、発見された古代ハスの実(種)を2000年(年代鑑定により)の時を経て発芽させた話がある。 この両エピソードは、類似している。
現代に発芽し、開花した大賀ハス
キリストは種を蒔くことについて多くのことを話し、しばしば種を蒔くことを「言葉」が広まることに例えた(マルコ による福音書第4章15節)。 サタンに奪われた種もあれば、土台がなく根付かない種もあるし、周囲の環境に妨げられて窒息してしまう種もあると教えられた(同15-19節)。 朗報(福音とも言う)を広めるとき、どの種が生き残るかは私たち次第ではない。 私たちのやることは単に福音の種を蒔くこと、つまりキリストについて人々に伝えることである。 神が私たちを通して働き、私たちが自分の信仰を他の人々と分かち合うとき、私たちが分かち合う言葉が根付くかどうか、いつ根付くかはわかってはいない。
興味深いことは、この大賀博士は内村鑑三の影響を受け、無教会主義ではあったが、キリスト教に帰依していたことだ。ウィリアム・ビールはクェーカー教徒の両親の許生まれていて、これは私自身の「空想」に過ぎないが、両者は、おそらく上記の聖句が脳裏を掠めたことだろうと想像する。
つまり、朗報の種蒔きは、何年も経った後でも、かの教授が土中に埋めた瓶の中の種子のように、あるいは別の国の別の教授の古代ハスの種のように、「それを受け入れて実を結ぶ」人に受け入れられるのかもしれない(4:20)。
ミシガン州立大学 / ミシガン大学アーカイブから。
若い頃の植物学者ウィリアム・ビール。
彼の始めた研究は、今日でも続けられている長期の検証が必要なものである。
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昔話、たとえ話、寓話は非常に少ない言葉で多くのことを伝える。 その伝えることは、聞き手や読み手の心と思いに届き、真実の光を放つものだ。
そんな話の 1 つは、年老いた農夫の話である。 彼は自分の農場、健康、家族の安全について常に心配していて、そのためイライラし、恐れ、怒り、動揺したりした。 そのせいで、しばしば彼は家族にそうした不安から来る苛立ちをぶつけた。
ある日、裏の畑を耕していた彼の鋤が、なにやら固い物に当たり、掘り出してみると、箱があるようで、彼は掘り起こしてみた。 するとその箱にはぎっしり金貨が詰まっていた。 この幸運に驚き、ショックを受けた農夫は、この新しい富で何をするか、何を買うかを考えた。 だが結局、彼は宝物を再び埋めて保存することにした。 それは、苦難の時の彼の安全保障となると考えた。
何年にもわたって、彼は金貨の入った箱を掘り起こすことも、コインの一つも使うことさえ、なかった。 しかしながら、必要な時に助けとなる裏の畑に埋められている金貨の箱を知っていることが、彼に精神的な変化をもたらした。 農夫にはもはや心配も恐れもなかった。 代わりに、彼は平和で幸せに余生を過ごすことができた。 彼は息子たちに優しく、妻には愛情を持ち続けた。彼は慈善団体に寄付し、隣人を助けた。 農夫の生涯はまるで愛の贈り物のようになった。 コミュニティ全体が彼の変化に驚いていた。
最後に死の床で、彼は息子たちを集めて、もう何年も自分自身で守ってきた秘密を彼らに話した。 老農夫が安らかに亡くなった後、息子たちは金貨の箱を掘り起こすために裏の畑に出かけた。しかし、彼らが埋まった箱を見つけたとき、それは空だった。 ずっと前にどこかの誰かがそれを発見し、金貨を盗んでいた。
この人生で私たち全員が見なければならないことは、私たちの真の安心や安全は裏庭に埋もれているのではなく、私たちの心と魂の奥深くに埋もれているということである。 金貨や宝物やお金は一時的なものだ。 神は永遠であり、誰もそれを盗めない。 神を知ることは、大金をはたいて真の価値が不確かな壺を買って得るものでは決してない。 彼は私たち全員をとても愛しており、「ここ」で私たちをサポートし、私たちの人生全体を共に歩むため「ここ」に存在するからである。
何故心を乱し、人生の大部分を心配に専念するのだろうか? 代わりに、あなたの愛の宝物を掘り起こし、それをみんなと分かち合うほうがどれだけ楽なことだろうか。 自身が心豊かになるだけでなく、家族や周りの人々をも幸せに人生を過ごせるようになるのではないだろうか。 そしてあなたが残す本当の遺産は永遠に続いていくのである。
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」
ーヤコブの手紙第1章5節
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