ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

清廉な瞳の星空

2024-09-24 | 私の好きなこと


結婚して何年経っても、金曜日の夜は、「デートナイト」を長年続けていたので、子供達夫婦も両親を見習っている。たいしたことをするわけではなく、少しの時間に、夫婦で散歩したり、映画と食事、ウィンドウショッピング、コンサート、あるいは親しい友人夫婦とのダブルデートでボードゲーム、などごく気軽に、簡単にできることを楽しむ。ほんの少し時間を取れば済み、初心を忘れずに会話を楽しみ、忙しい週日へのちいさなご褒美と思えれば、それで良い。

もちろん信頼できるベイビーシッターのリストは作ってあったので、ほんの2,3時間でも必ず子供たちは緊急時に必要な対処ができる人々に守られていた。やがて子供達が成長し、学校へ、社会へ、そして自分たちの新しい家族へと飛び立ってからも、両親はデートを続けてきた。

去年、病床に伏し始めた夫でも、病院ベッドを置いた自宅階下の部屋に座り心地のよい椅子を私のために息子たちが持ってきてくれて、私は彼のベッドのとなりに座りながら、二人で昔の名画を鑑賞したり、読書をしたり、昔話をして楽しんだ。旅立ちがまもないことを知っていても、悲壮感に包まれることなく、実に様々なことについて語り、微笑み合い、楽しかった。

先週の金曜の晩は末娘夫婦が、そんなデートをするので私は孫二人のお守りをした。7時には寝かせて、との指示だったので、散々それまで二人と遊び、上の子はパジャマに着替え、歯磨きをし、就寝前の祈りをしてから、ベッドに入り、そのまま眠りについた。

下の子は一旦はクリブで横になっても、モニターを見ると、クリブの柵につかまって立っている。「眠れないのね、それじゃ、ララバイでも聞く?」と私は携帯電話にあるブラームスのララバイを聴かせ始めた。横抱きにして揺り椅子に腰掛けて優しく背中をなでていると、この子の言葉で一生懸命話始めた。「まあ、本当に?それじゃあ赤ちゃんでいるのも大変だわね。」と相槌を打っていると、薄暗さの中で携帯のララバイの静かな光が、この子の大きく開かれた瞳に反射して、まるで清廉な星空のように見えた。

「そのお目目で、おじいちゃん、見えている?おじいちゃんはとてもとても子供達もそのまた子供達も大好きで、今だってきっとあなたや私のそばにいると思うわ。」と私はこの子を抱きしめて言った。答えない代わりにこの子は腕を伸ばして私の頬にそっと触れた。その時、夫がそばにいる気配を感じ、大きな安堵感のような暖かさを覚えた。

この子は夫が発病してから4ヶ月目に生まれ、その2ヶ月後に夫は逝ってしまったが、この子の祝福式(Baby Blessing)には病床にありながらも参加でき喜んでいたのだった。娘とは、「お父さんはまるで、ご自分でハンドピックしたようにこの子を慈しんできたのではないかしらね。たとえ私達の目には見えねども。」などとよく話してきていた。その子の美しい宇宙のような瞳を見ていると、不意に落涙が頬を伝わるのを感じた。

「ああ、やっぱり。貴方は今ここにいらっしゃるでしょう?金曜日の晩ですものね。。。私は大丈夫よ。この子も、そろそろおネムみたいよ。訪問してくれてどうもありがとう。」と心の中で問うた私は、腕の中に目を落とすと、幼な子は、ほぼ寝落ちしていた。

クリブにゆっくりと子供を戻すと、すやすやと静かに息をしながら、眠っている。それを確認して、その部屋を後にした。あの瞳の清廉さと、そこに見えた宇宙の神秘さと、暖かさについて思いを寄せていると、心はとても豊かになっていた。旅立った今でも金曜の晩のお約束ごと、二人のデート、忘れていなかったのね。ありがとう。







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遠い夏の宵のこと

2024-09-09 | 私の好きなこと



19歳の夏、父と私は、アメリカ東部州に住んでいた上から2番目の姉家族を訪問した。乾いた西部州からレッドアイと呼ばれる夜間フライトでほぼ6時間の距離を飛んだ。しかも途中テキサス州ダラスに寄港するというもので、寝ぼけ眼で窓外の煌々と照らされた空港をぼんやり眺めていると、隣に座っていた父親が、「まだまだだから、なるたけ眠っていた方が良いよ。」と囁いた。

次に目を開けると、目的地の空港で、眩しい朝日の中、降機するや否やロビーで姉が手を振っていた。わたしが13歳だった春、姉は結婚して渡米したのだから、6年は会っていなかったわけだ。姉は得意のイタリア料理で父と私の滞在中もてなしてくれ、また古い街並みを案内してくれた。


姉の街は独立戦争で戦場となったところに近く、かなり古く、築200年は超えているだろう民家が多くあり、そうした歴史ある家々のフロントには1780年だの1800年だのと書かれた小さなプラクが付けられていている。アメリカの誇る詩人ウォルト・ウィットマンがかつて短期間住んだ家もあり、由緒のある風景だが、同時に、姉はポルターガイスト活動の頻繁な家だの、「出る」と言われている家だのもついでに教えてくれた。「息子のクラスメイトの何人かは、そんないわれのある家に住んでいて、しょっちゅう話しているのよ。」と姉は言っていた。

私たち父娘は、そこにただ1週間滞在しただけだが、街のはずれにある姉の家は林と畑地に隣り合い、翌朝早くに目覚めた私は、二階の寝室の窓を開け放した時、広大なトマト畑と果樹園をうっすらと朝霧が覆っているのを目にして、思わず大きな深呼吸をし、それだけで幸せな気持ちになったものだ。

かつての日本のように、夏はこの地方では午後、さっと激しい夕立があり、すさまじく轟く雷音は、カミナリ、というよりも、いかづち、と言う方がふさわしい。 しかし雨はすぐ止み、その後に湿った大地に吹く涼風は、ここちよかった。そんなある日、早めの夕食後、姉は、庭にローンチェアを並べ、「今夕は、外のほうが気持ちいいから、皆ここでお話しでもしましょうよ。」と、作ったばかりのレモネードのグラスを運びながら、家族や私たちを誘った。

話ははずみ、夕闇に包まれんとする頃、何かちいさな光る物が浮遊しているのを私は目の端にとらえた。首を回してその光の行方を探ると、二つも三つもそして何十もの小さな光が庭中溢れてきていた。蛍。日本では一度も見たことはなく、その時19歳の生涯で生まれて初めて蛍を見たのだった。

すると姉は、私の白いワンピースの胸ポケットを指差し、「あ、光っているわよ。」と言った。いそいでポケットを見ると、なるほど蛍がひとつ忍び込んでいる。ポケットの空き口をそっと指で広げると、その蛍はふよふよと飛び出していった。その小さな光を目で追うと、いつのまにか大勢の仲間に紛れてしまった。その数週間後に二十歳になる私を、生まれて初めて出会った蛍のひとつが、訪問してくれたのだと思えて、嬉しかったし、光栄にさえ思えた。私は何十年も経った今でも、そのことははっきりと覚えている。

その夜二階の寝室の明かりを消して、窓外に目をやると、多くの蛍は未だ闇の庭で飛び交っていた。それを飽くことなく眺めていると、私たち一人ひとりも、実は自分の中に「光」を持っているのではないかという想いが湧いてきた。その光は、しばしば灯っても、不安定がちで、輝くほど明るいわけでもないけれど、私たちがその光を放つたびに、私たちは少しずつ、だんだんもっと明るくなるのではないだろうか。そして、その光を分かち合うたびに、私たちは他の人の光も目覚めさせ、同じように輝かせられるのではないだろうか。

この世界でお互いの愛を分かち合うために最善を尽くせたら。たとえそれがちらつきにすぎないと思っても、持っているだろう光を輝かせるために一人一人が、最善を尽くせたとしたら。。。そうしたら、あなたはあなたが思っているよりもずっと明るいのではないだろうか。そして、あなたや私がより多くの光を放ち、より多くの愛を分かち合えば分かち合うほど、神はより多くの光と愛をあなたや私に与えて分かち合ってくださるのではないだろうか。そしてそれは終わりのない光であり、愛であろう。その時の思いは未だ変わってはいない。

素晴らしい夏を一緒に過ごした東部の姉もその夫も、姉夫婦の長女も、父も、今は亡く、あの時そう思った19歳の私は、化石化に急いでいても、未だにその思いを抱き続けている。







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