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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

やんなっちゃう!Part 2

2024-10-14 | 私の好きなこと

新しいブーツが嬉しいハスキーのような方。



今記事は、2年前の「やんなっちゃう!」の続編です。(下にリンクあり。)




夏も終わったばかりでも、
次のヴァケイションの準備万端、この笑顔。


飼い主が毎朝一番に見るのはこのお顔


毎朝洗面所へ行けば、このタオルが。
引っ掻かれ保証付きタオル。


ユニークなデザインのお方。


パピヨンの隙を伺う輩


ゾーイ・パラマウントさんのXから。パリの1日、
26枚のスナップ中19枚がこの被写体。


え?!
二度見は必須なこの一枚。
(大丈夫、頭だけ一段上に置いている。)


セルフ・パーキング。


飼主との”養子縁組”成立のビフォーアンドアフター:
たった2時間の差=満面笑顔。


イースター・ラムの3Dケーキ型で作った
ケーキのデコレーション:あくまでもイースター用であって、ハロウィーン用ではない。


5パウンズのマタタビの袋を破って遊んでいたのを
帰宅した飼い主が発見。
「ワタシの潔白をこの目を見て信じて!」と
みつめられても。。。


「人間は楽しいかもしれないが」と
ご本人は今まさにどう仕返ししようかと思案中の目々。


飼い主留守中に小麦粉と遊んで、おじさん顔になってしまった。


あ〜あ。。。
英語:Don't cry over spilt(spilled)milk.
日本語:覆水盆に返らず


せっかく焼いてもどうしてもこの一枚のクッキー
食べられない。悲しすぎ。


3年前の記事「思わず」に挙げるべき一枚。
ぱっつんポニー。「マコト」と呼びたくなる。





清廉な瞳の星空

2024-09-24 | 私の好きなこと


結婚して何年経っても、金曜日の夜は、「デートナイト」を長年続けていたので、子供達夫婦も両親を見習っている。たいしたことをするわけではなく、少しの時間に、夫婦で散歩したり、映画と食事、ウィンドウショッピング、コンサート、あるいは親しい友人夫婦とのダブルデートでボードゲーム、などごく気軽に、簡単にできることを楽しむ。ほんの少し時間を取れば済み、初心を忘れずに会話を楽しみ、忙しい週日へのちいさなご褒美と思えれば、それで良い。

もちろん信頼できるベイビーシッターのリストは作ってあったので、ほんの2,3時間でも必ず子供たちは緊急時に必要な対処ができる人々に守られていた。やがて子供達が成長し、学校へ、社会へ、そして自分たちの新しい家族へと飛び立ってからも、両親はデートを続けてきた。

去年、病床に伏し始めた夫でも、病院ベッドを置いた自宅階下の部屋に座り心地のよい椅子を私のために息子たちが持ってきてくれて、私は彼のベッドのとなりに座りながら、二人で昔の名画を鑑賞したり、読書をしたり、昔話をして楽しんだ。旅立ちがまもないことを知っていても、悲壮感に包まれることなく、実に様々なことについて語り、微笑み合い、楽しかった。

先週の金曜の晩は末娘夫婦が、そんなデートをするので私は孫二人のお守りをした。7時には寝かせて、との指示だったので、散々それまで二人と遊び、上の子はパジャマに着替え、歯磨きをし、就寝前の祈りをしてから、ベッドに入り、そのまま眠りについた。

下の子は一旦はクリブで横になっても、モニターを見ると、クリブの柵につかまって立っている。「眠れないのね、それじゃ、ララバイでも聞く?」と私は携帯電話にあるブラームスのララバイを聴かせ始めた。横抱きにして揺り椅子に腰掛けて優しく背中をなでていると、この子の言葉で一生懸命話始めた。「まあ、本当に?それじゃあ赤ちゃんでいるのも大変だわね。」と相槌を打っていると、薄暗さの中で携帯のララバイの静かな光が、この子の大きく開かれた瞳に反射して、まるで清廉な星空のように見えた。

「そのお目目で、おじいちゃん、見えている?おじいちゃんはとてもとても子供達もそのまた子供達も大好きで、今だってきっとあなたや私のそばにいると思うわ。」と私はこの子を抱きしめて言った。答えない代わりにこの子は腕を伸ばして私の頬にそっと触れた。その時、夫がそばにいる気配を感じ、大きな安堵感のような暖かさを覚えた。

この子は夫が発病してから4ヶ月目に生まれ、その2ヶ月後に夫は逝ってしまったが、この子の祝福式(Baby Blessing)には病床にありながらも参加でき喜んでいたのだった。娘とは、「お父さんはまるで、ご自分でハンドピックしたようにこの子を慈しんできたのではないかしらね。たとえ私達の目には見えねども。」などとよく話してきていた。その子の美しい宇宙のような瞳を見ていると、不意に落涙が頬を伝わるのを感じた。

「ああ、やっぱり。貴方は今ここにいらっしゃるでしょう?金曜日の晩ですものね。。。私は大丈夫よ。この子も、そろそろおネムみたいよ。訪問してくれてどうもありがとう。」と心の中で問うた私は、腕の中に目を落とすと、幼な子は、ほぼ寝落ちしていた。

クリブにゆっくりと子供を戻すと、すやすやと静かに息をしながら、眠っている。それを確認して、その部屋を後にした。あの瞳の清廉さと、そこに見えた宇宙の神秘さと、暖かさについて思いを寄せていると、心はとても豊かになっていた。旅立った今でも金曜の晩のお約束ごと、二人のデート、忘れていなかったのね。ありがとう。








遠い夏の宵のこと

2024-09-09 | 私の好きなこと



19歳の夏、父と私は、アメリカ東部州に住んでいた上から2番目の姉家族を訪問した。乾いた西部州からレッドアイと呼ばれる夜間フライトでほぼ6時間の距離を飛んだ。しかも途中テキサス州ダラスに寄港するというもので、寝ぼけ眼で窓外の煌々と照らされた空港をぼんやり眺めていると、隣に座っていた父親が、「まだまだだから、なるたけ眠っていた方が良いよ。」と囁いた。

次に目を開けると、目的地の空港で、眩しい朝日の中、降機するや否やロビーで姉が手を振っていた。わたしが13歳だった春、姉は結婚して渡米したのだから、6年は会っていなかったわけだ。姉は得意のイタリア料理で父と私の滞在中もてなしてくれ、また古い街並みを案内してくれた。


姉の街は独立戦争で戦場となったところに近く、かなり古く、築200年は超えているだろう民家が多くあり、そうした歴史ある家々のフロントには1780年だの1800年だのと書かれた小さなプラクが付けられていている。アメリカの誇る詩人ウォルト・ウィットマンがかつて短期間住んだ家もあり、由緒のある風景だが、同時に、姉はポルターガイスト活動の頻繁な家だの、「出る」と言われている家だのもついでに教えてくれた。「息子のクラスメイトの何人かは、そんないわれのある家に住んでいて、しょっちゅう話しているのよ。」と姉は言っていた。

私たち父娘は、そこにただ1週間滞在しただけだが、街のはずれにある姉の家は林と畑地に隣り合い、翌朝早くに目覚めた私は、二階の寝室の窓を開け放した時、広大なトマト畑と果樹園をうっすらと朝霧が覆っているのを目にして、思わず大きな深呼吸をし、それだけで幸せな気持ちになったものだ。

かつての日本のように、夏はこの地方では午後、さっと激しい夕立があり、すさまじく轟く雷音は、カミナリ、というよりも、いかづち、と言う方がふさわしい。 しかし雨はすぐ止み、その後に湿った大地に吹く涼風は、ここちよかった。そんなある日、早めの夕食後、姉は、庭にローンチェアを並べ、「今夕は、外のほうが気持ちいいから、皆ここでお話しでもしましょうよ。」と、作ったばかりのレモネードのグラスを運びながら、家族や私たちを誘った。

話ははずみ、夕闇に包まれんとする頃、何かちいさな光る物が浮遊しているのを私は目の端にとらえた。首を回してその光の行方を探ると、二つも三つもそして何十もの小さな光が庭中溢れてきていた。蛍。日本では一度も見たことはなく、その時19歳の生涯で生まれて初めて蛍を見たのだった。

すると姉は、私の白いワンピースの胸ポケットを指差し、「あ、光っているわよ。」と言った。いそいでポケットを見ると、なるほど蛍がひとつ忍び込んでいる。ポケットの空き口をそっと指で広げると、その蛍はふよふよと飛び出していった。その小さな光を目で追うと、いつのまにか大勢の仲間に紛れてしまった。その数週間後に二十歳になる私を、生まれて初めて出会った蛍のひとつが、訪問してくれたのだと思えて、嬉しかったし、光栄にさえ思えた。私は何十年も経った今でも、そのことははっきりと覚えている。

その夜二階の寝室の明かりを消して、窓外に目をやると、多くの蛍は未だ闇の庭で飛び交っていた。それを飽くことなく眺めていると、私たち一人ひとりも、実は自分の中に「光」を持っているのではないかという想いが湧いてきた。その光は、しばしば灯っても、不安定がちで、輝くほど明るいわけでもないけれど、私たちがその光を放つたびに、私たちは少しずつ、だんだんもっと明るくなるのではないだろうか。そして、その光を分かち合うたびに、私たちは他の人の光も目覚めさせ、同じように輝かせられるのではないだろうか。

この世界でお互いの愛を分かち合うために最善を尽くせたら。たとえそれがちらつきにすぎないと思っても、持っているだろう光を輝かせるために一人一人が、最善を尽くせたとしたら。。。そうしたら、あなたはあなたが思っているよりもずっと明るいのではないだろうか。そして、あなたや私がより多くの光を放ち、より多くの愛を分かち合えば分かち合うほど、神はより多くの光と愛をあなたや私に与えて分かち合ってくださるのではないだろうか。そしてそれは終わりのない光であり、愛であろう。その時の思いは未だ変わってはいない。

素晴らしい夏を一緒に過ごした東部の姉もその夫も、姉夫婦の長女も、父も、今は亡く、あの時そう思った19歳の私は、化石化に急いでいても、未だにその思いを抱き続けている。








お気に入り

2024-05-17 | 私の好きなこと


今週の乳癌専門癌科医検診で、マモグラムとソノグラム、血液検査、触診のクリーンな結果から鑑みて、晴てキャンサーフリーと判断された。結果が逆であっても、それも人生と思っているし、夫が迎えにくる、という希望さえ抱いただろう私だが、「晴て」の言葉どおり、今悪い細胞がない、とは、ひと時でも「くびき」*の軽さを感じられることだ。
*28 Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest.
29 Take my yoke upon you, and learn of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls.
30 For my yoke is easy, and my burden is light.

*28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
ーマタイ伝11:28-30

それで、浮かれて今日は私の最近気に入っている物について、考えてみることにした。いいえ、大したことのないことばかりだが、この一年、不思議に励まされ、心を和まされ、微笑みさえ浮かべさせてくれた。「晴れ」の日に、ご紹介。


これは、長女が10歳の時、小石にペイントして父親にプレゼントしたもので、この二つを夫は、大事にして書斎のデスクにきちんと置いていた。いわば形見のように、私は受け継いだ。そうだ、この二つは夫の墓碑銘の上に置いておこう。

 

先月スゥエーデンの六歳の孫娘のポケモン絵画がコンテストで優勝し、雑誌に掲載された喜びの写真とその絵。この子の表情が好きで、またこの可愛らしい絵も見ていると、元気が出てくる。



この孫#10とその兄孫#7、その両親との生活も半年目に入り、つつがなく忙しい中にも楽しい日々である。孫が訪問することも楽しいが、実際に毎日朝夕生活を共にしていくのは、疲れよりも明日への活力を生み出していく。こんな小さな子でもそんな力がある。



ほぼ毎週末訪問してくれる孫#3。矯正用メガネを新調して、もう立派な小学生。孫娘は3人しかいないのに、あと二人は東海岸と大西洋を超えたスゥエーデンで、一年一回ほどしか会えず、この子は孫娘の醍醐味を一手に引き受けてくれている。普段近くに住む4人従兄弟の中で紅一点だが、年下には優しく、平和的で面倒見のよい彼女には、安寧を感じることが多い。


最近になってこうして餃子を焼いてくるりとお皿にひっくり返してのせることができるようになった。できなかったことができるようになるのは、何歳になっても嬉しい。呆れるほど遅い習得で写真を載せるほどの腕前ではないのは百も承知だが。。。子供たちや孫たちが目を見張るほど感嘆するのが、素直に愉快。


ある日某所のドライブスルーで、前にいた車がテスラの2024Cybertruk AWD Crew Cab(2024年型の電気サイバートトラック、全輪駆動でキャブ付き)である。トラックと名にあるように、後部の屋根を外せば、かなりの荷台になり、2500パウンズの積載量、11000パウンズの牽引力もある。どの惑星でも使用可能と言う謳い文句のトラックとして、荒地や砂地、岩場もこなせる。車体は、ペイントなし、故にチップなしで、超硬質ステンレス鋼の外骨格は、へこみ、損傷、長期的な腐食を軽減すると言う。そのガラス窓も、強く、アコースティック・グラスと言われる強いガラスで、閉めれば車外の騒音を遮断する。と、まるでセールスパーソンの口調だが、実際に目にすると、割りと大きめで、まずそのデザインのシャープさに感嘆した。触ると指が切れそうなくらいのシャープな車体である。私が20代だったら、きっと欲しいと思うが、最大馬力クラスになると、9万6千ドル以上で、20代でも、何十代でも、これは夢の世界の話である。(参照:https://www.tesla.com/cybertruck)
目の保養。


この車は先週街中で私の右隣の車線で見かけた。2024年型のマゼラティ(マセラティ)社のGranTurismoグラントゥーリズモと言うイタリア車のEV(電気自動車)。ラグジョリー車だから、もちろん相当なお値段で遠い世界の遠いお金持ちのため。下々の私などの、ほんの一瞬の目の保養。欲しいとは思わないが、プラスティックの玩具の車であれば、楽しめることだろう。高級車を目にして、つい孫の玩具であれば、面白そう、と独言て、思わず笑みが浮かんだ。


この冊子は先月去年お世話になったホスピスから一年経って送られてきた。これで3冊目で、悔やみの付き合い方や、明るく希望を持って遺族が前向きになる素晴らしい言葉がたくさん書かれている。喪に服すのは誰でも同じなわけではなく、半年、一年経ったから、終わりでもないし、悲しみが薄くなるわけでもなく、残された者が旅立って先に行った愛する人と再会するまで、続く。それでも日々生きていくために参考になる言葉や考え方は、信仰のある者とて人生の道をゆくための杖のようなものである。ほんの数ペイジの冊子だが、クリスチャンの私には馴染みのある聖句も連ねられ、暗闇の灯りでもある。ホスピスという事業自体を、中には忌み嫌う方がいらっしゃると聞いたが、私には感謝しかない。時折お世話にいらしてくださった看護師の方々の明るい笑顔を思い出して、見えない夫に、本当にありがたかったことね、と話している。



そしてこれ。なんと一昨日8年前に夫がくれた母の日のカードをクレデンザの引き出しに見つけたのだ。それも封さえ切っていなくて、なんということ!! 良妻という言葉に程遠い私。すまなかったと後悔しきりでも、開封して読んだ言葉は、まるですぐそばに夫がいて、一緒にカードを覗き込んでいる気配さえ感じた。これが今の私にはかけがえのないお気に入りのもの。

カードにはこんな文章があり、その後に夫の「芸術的」な手書きが書いてある。
あなたの愛...
それは私の心を満たし、
それは私たちの家を満たし、
それはあなたのすべてのすることの一部です---
あなたと分かち合うこの人生の宝物の一部です

とてもたくさんの愛と幸せ
我が家へもたらしてくれてありがとう。
本当に感謝しています。


幸せな母の日を

(以下は夫の言葉)

2016 年 5 月 8 日
毎日、毎週、毎年、あなたが私のためにしてくれているすべてのことに対して、
あなたへの私の愛は年毎に強くなります。
最高のものはまだ来ていない---

愛、XXX(夫の名前)


家族は永遠。

アーマの切実なアドバイス

2024-05-11 | 私の好きなこと
Erma Bonbeck
writersdigest.com



備考:この記事は、2019年4月5日に初投稿したものだが、5年経った今再び投稿することにした。我が身に癌を得て、未だキャンサーフリーというスタンプが押されていないこともあり、彼女のこのエッセイは切実さを私に抱かせる。5年前の投稿文に、多少書き直しあり。


Erma Bombeckアーマ・ボンベックというアメリカのユーモア作家をご存知だろうか。彼女は1960年代半ばから1990年代後半にかけて、ごく一般的な郊外の家庭生活を描くことで定評があり、それは新聞コラムで大きな人気を博した。15冊の著書があり、ほとんど全書がベストセラーともなった。ボンベックは中西部郊外の主婦の日常生活を記録していたが、そこには、ユーモアがあり、4000を超える新聞のコラムニストとして活躍したものだ。アメリカだけに限らず、カナダの900の新聞にも掲載され、人気があった。

アーマ・ボンベックは1927年オハイオ州ベルブルックに生まれ、1996年4月22日持病の腎臓病が悪化し、移植手術を受けたが、カリフォルニア州サンフランシスコにてその69歳の生涯を閉じた。下記は、彼女が不治の癌と診断をされた直後にペンを執ったものである。


もし人生をもう一度生きるならば

アーマ・ボンベック、不治の癌を診断されて。


私はもっと少なく話し、もっと耳を傾けていただろう。カーペットにシミがついて汚れていても、ソファが色褪せていても、友人を夕食にもっと招待しただろう。

私は 見栄えのするリビングルームでポップコーンを食べていただろうし、誰かが暖炉で火を焚きたいと思ったならば、煤などの汚れについて、今までよりもはるかに少なく心配していただろう。

祖父がぼそぼそと話す幼い頃の話を私はもっと時間を割いてじっくり聞いていただろう。

逆毛を立てて、しっかりスプレーされた私の髪を、風で乱したくないと、夏の日に車窓を閉めて、と主張することはなかっただろう。

ピンクのバラのように彫られている蝋燭を、特別な機会に、と取っておいて保存していた場所で、結局溶ける前に、それを灯しただろう。

衣服に草の染みがつくことを心配せずに、私は我が子たちと芝生の上に座っていただろう。

私は、テレビを見てはもっと泣いたり笑ったりするよりも、人生を見てはもっと泣き、笑っただろう。

私がその日その場所にいなかったら地球がストップするだろうというふりをせずに、病気ならば床についただろう。

それが実用的で、一生汚れもせず持続する、という理由だけで私は物を買ったりすることはなかっただろう。

妊娠に9ヶ月を長いと感ずるよりも、私の中に芽生えている驚嘆と不思議が、神の奇跡をお手伝いする唯一のチャンスとして悟り、すべての瞬間を大切にしていただろう。

我が子たちが私にせっかちなほどにキスをしたとき、「夕食後の片付けをしてちょうだいね。」と私は決して言わなかっただろう。

もっと 「私はあなたを愛しているわ」を言い、 もっと 「ごめんなさい」を言っていただろう...けれどもう一度人生を持つチャンスがあったならば、私は毎分だってそれを掴み、その時間を生き、決してそれを離さない。


postbulletin.com

備考2:やっといただいたコメントへのお返事をしたためました。しばらく書かずにおりましたことをお詫びいたし、またコメントをとても感謝しております。