ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
・・・クリスマス説教はカテゴリからどうぞ・・・

キリスト教講座③【信仰生活と教会】

2006-10-01 20:20:09 | キリスト教講座
■信仰生活の致命線 ~教会~
キリスト者の生活において、どうして教会(教会生活)が重要なのでしょうか? 自分で自由にイエス様を信じていれば、それでもイエス様を信じているに違いないのだから、それでいいのではないでしょうか? いいえ。聖霊の働き、それはキリストのからだであり、聖霊の神殿である教会において実現されるのです。ですから、信じているけれど教会に行かないというようなことは正しい信仰としては何とも位置づけられない少しおかしなことになってしまいます。

ここまで信じ方の話をしてきました。キリスト教は自分でイメージを作り上げて信じるタイプの宗教ではないという話しです。日本の宗教はそうではありません。例えば村の祠の神様は、なんだかよくわからないけれどありがたい。檀家のお寺のご本尊は名前もご利益も知らないけれどありがたい。そのような信じ方ですから、信じてさえいればお寺に毎週行ってお線香をあげなくても、村の祠のお祭りは年に一回、それ以外は誰もお参りしなくても問題ないわけです。
少し余談ですが、このような日本独特の宗教観から、「無教会」と呼ばれる教会を持たないキリスト教が生まれてきたと言っても良いでしょう。この無教会というのは名前の通り教会を持たないキリスト教だと言っています。イエス様のお話しを聞いて、聖書を勉強して、それぞれ信じているのだからそれでいいというものです。
しかし、それではいけないわけで、キリスト教というのは、教会を通して存在するわけで、自分の信じ方で教会を建てたのではないのです。

重ねて申し上げますが、自分の作り上げたものではなくて、神が定めたものであるということが重要なのです。個人の才能や大衆の本能とか感激が教会を建設したのではありませんでした。誰にも、弟子達にすら教会を建てる力はなかったのです。誰もがそれを着手するに相応しくなかったのです。
上からのもの。つまり、教会はイエス・キリストの教会であり、他の誰にも、つまり教皇にも、牧師にも、民族にも、役員会にも、民族にも属していない。キリストのからだ以外の何ものでもない。神がイエス・キリストにおいて定めたものであるということが決定的に重要なのです。
ですから牧師であっても、信徒であっても、教会を自分のものとすることは出来ませんし、自分の意図のままに作り上げることも、組織することも出来ないのです。そもそも教会について「こういうもの」と人間の側から(下から)定義することは出来ません。

(日本基督教団聖ヶ丘教会・壮年会例会でのキリスト教講話 2006.10.1.sun)

最新の画像もっと見る