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キリスト教講座①【教会の信仰】

2006-10-01 20:16:56 | キリスト教講座
■はじめに
 キリスト教会にはいくつかの信条、信仰告白というものがあります。これは誰かが書いて、いつの間にか浸透して、広く使われるようになったものではありません。教会が公の会議などにおいて定めたものです。その最古のものの一つにニケア・コンスタンチノープル信条というものがあります。このようなものです。
  
■ニケア・コスタンチノープル信条(381年第一回コンスタンティノーポリス公会議)

我は信ず、唯一の神、全能の父、天と地、見ゆるもの、見えざるものすべての創り主を。
我は信ず、唯一の主、神の御一人子イエス・キリストを。主は、よろず世の先に、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。 つくられずして生まれ、父と一体なり。すべては主によりて創られたり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために天よりくだり、聖霊によりて、おとめマリアより御からだを受け、人となり給えり。ポンテオ・ピラトのもとにて、 我らのために十字架につけられ  苦しみを受け、葬られ給えり。聖書にありしごとく、三日目によみがえり、天に昇りて、父の右に座し給う。主は栄光のうちに再び来たり、生ける人と死せる人とを裁き給う。主の国は終わることなし。

我は信ず、主なる聖霊 生命の与え主を、聖霊は父と子よりいで、父と子と共に拝みあがめられ、また預言者によりて語り給えり。われは、一・聖・公・使徒継承の教会を信じ、 罪の赦しのためなる 唯一の洗礼を認め、 死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。アーメン。


ここで最後の聖霊の項目の中で、「教会を信じ・・・」とあるように、教会いうことに対する信仰告白が出てきます。教会はそれだけ重要なものとして理解されてきました。

 キリスト教会の信仰、キリスト者の信仰というものは多様なものですけれども、キリスト者は何を信じているかといいますと、「私はこう思う」「わたしはこの時こう感動した。」このような私の感動、私の経験に起因した信仰ではありません。
 
 教会の信仰というのは、教会の持つ信仰告白を正しく信じるということが出来るか出来ないかということで、私の思う所のキリストを信じるということは、民間信仰と変わらない、私のキリスト教、私の礼拝というものを作ってしまうわけです。キリスト教は私のキリスト教ではなくて、教会の信仰というものを継承してきたのです。洗礼式の時に、皆さんは誓約をなさいました。その誓約はこのようなものでした。「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか。」そこで皆さんは「はい。告白します。」と仰った訳です。私はこういう信仰の出会いがあった。この言葉に、この出来事に感動してキリストを信じることにした。というきっかけは尊いものですけれど、それによって出来上がった自分のイメージのキリストを信じているのではありません。信じていれば何でもいいというのではなくて、教会の信仰告白に言い表された信仰を告白し、そのキリストを信じるというのが教会の信仰です。この信仰告白で語られているのは、人に対して神が関与したもうことについてであって、その逆ではないのです。徹底的に人間主体ではないのです。

言い換えますと、私たちが、何を信じているのかという事が「信仰告白」に書いてあるのです。つまり、「わたしの信仰はこういう信仰です」という事が、この信仰告白の内容なのです。



(日本基督教団聖ヶ丘教会・壮年会例会でのキリスト教講話 2006.10.1.sun)


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