中間玲子のブログ

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卒業論文のこと

2010-06-18 12:18:12 | 研究日記
私がひどい自己嫌悪に苛まれていたことは
昨日書いたとおりですが、
どれだけひどく悩んでいたかというと
「大学生の自己嫌悪感に関する一研究」という卒業論文を
書かずにはいられないくらいでした。

もちろん、卒業論文自体には、そういう自己語りは出てきませんが、
とにかく、考えても考えてもそのテーマしか浮かばないのです。

当時を振り返ったコラムがありますので、転載します。

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2003年7月 日本青年心理学会ニューズレター第31号, pp.2-3.(日本青年心理学会)

【研究テーマと「私」との関係】

 心理学の論文を最初に書くのはいつだろう。私は,大学生時代であった。おそらく多くの先生方もそうであったと思う。進路の問題も深刻さを増す3回生から4回生にかけての春休み,それまでのほほんとしてほとんど勉強していなかった大学生でも,否応なしに勉強しなければならない時期がやってくる。卒業論文作成である。そしてそれが,生まれて初めての論文作成となることが多い。
 その中で,最初に求められるのがテーマ設定である。心理学における研究テーマを決める場合,その個人のあり方が反映されることが多いということはよく言われることである。たとえば,記憶研究者は記憶力が悪いというふうに。不登校やいじめ,発達障害など,個人がライフヒストリー的に抱えてきた問題に取り組んでいる場合もある。もちろん,偶然出会った面白い論文を始点と定め,そこから純粋に学問的興味で取り組む人もいるだろう。だが,そこにもやはり,個人の中にテーマとの接点というのが存在する。
 では,青年心理学的なテーマを選択する者はどうだろう。卒論を書く者の多くは,一般に青年期後期といわれる時期を過ごしている。それ故,数ある青年期的トピックの中で研究テーマとして選ばれたトピックというのは,その時にリアルタイムで自分が抱えている問題とつながっていることが多いのではないだろうか。実際,“自己嫌悪感”をテーマに定めた私は,そうだったのである。
 テーマに自分の問題が反映される場合,執筆者は,論じる対象である“青年としての自分”と,“執筆者としての自分”との二重性を強く体験する。自分自身の抱える問題は,直視しないことによって乗り越えられる側面もあるが,テーマとしておいてしまった場合,とことん向き合わねばならない。しかしながら,自分自身に関連する事象に対する認知のあり方は,他の事象に対する認知のあり方とは明らかに異なっており,独特の歪みが伴う。それが否定的な側面に関連する場合は,その事象に対する認知システムはさらに複雑になる。加えて,その問題が自分自身の核に根ざしたものである場合,その問題に向き合えば向き合うほど変な力動が自分の内面で働き,問題意識をさらに肥大させてしまう。それはいつしか冷静な視点を凌駕する“魂の叫び”となってしまう。
 問題意識を模索する段階でも,調査に向かう段階でも,データを読み解く段階でも,考察を進める段階でも,とにかく,あらゆる思考のプロセスの中で,自分の内面からの魂の叫びと,冷静に客観的に論じるべき責務との闘いが繰り広げられる。初めての論文であるのに,これはかなりハードルの高いサブミッションである。なぜそんなテーマを選んだのか,後悔してテーマを変えようと思っても,どうしてもその周辺領域にとどまってしまう。
 テーマとのこのような確執は,それを論じる者が乗り越えていくべき問題であると私は思う。当たり前のことだが,論文は作文ではない。自分のあり方も相対的に位置づけ,全体的な布置をとらえることが必要になる。自らのもつ価値観やこだわりから100%解放されて論文が書けるかというとそれは一概には言えない。特に,人間性や生き方に深く関わるテーマであれば,考察の際に,問題展開の際に,その人の価値観やこだわりが見え隠れすることは少なくない。むしろ,それがあるからこそ新たな論が生まれることもあろう。しかしながら,それが自身の“魂の叫び”に支えられたものであれば,危険である。それは,自らの問題に深く関わっており,それが意識を占めると,柔軟な視点を欠くことにつながるからである。無理が通れば道理がひっこむのである。
 それでもやはり,心理学のテーマというのは,その人に根ざしたものである方が,魅力的であると思う。論文を読むとき,発表を聞いたとき,研究の背景にあるその人の問題意識が垣間見えたとき,その人の研究の意味が寸時に理解できることがある。もちろん,そこには,その人個人の世界における魅力を超えた学問的意義が伴わねぱならないことは言うまでもない。だが,そこに+αの面白さが伴うか否かは,その人がどれだけそのテーマにコミットしているかによるのではないだろうか。そのコミットの仕方に,上手い・下手や,人それぞれのスタンスがあるのだと思う。
 最近,ようやく自分のテーマに対しても冷静に向き合うことができるようになってきている。ある意味,人間的に冷めたのかもしれないし,私の青年期が終わったということなのかもしれない。卒業論文で書いたような内容はもう書けないな,としんみり思う時,二つの気持ちが生じる。研究者としての私は,あんな恥ずかしい論文,よく書いたなあと自分に呆れる。だが,一個人としての私は,その時にしか書けない論文を書いたなと,戻らぬ自分のあり方を,赤面しつつも愛おしく思うのである。        

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・・・このコラムを読み返し、
研究者としての私は、こんな恥ずかしいコラム、よく書いたなあと自分に呆れる。
だが、一個人としての私は、その時にしか書けないコラムを書いたなあと、
戻らぬ自分のあり方を、赤面しつつも愛おしく思うのである。

そうやって人は日々変化していくんですね。

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