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KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

伸びていく植物の蔓に聞きながら…(つぶやき再録あり)

2014-10-27 | KOFUKU日記



《秋の味覚。栗に始めて出会ったニャンコ達》




つまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました

あやまちや失敗をくり返したおかげで
少しずつだが
人のやることを 暖かい眼で
見られるようになりました

何回も追いつめられたおかげで
人間としての 自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました

だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました
そして・・・・・・
身近な人の死に逢うたびに
人のいのちのはかなさと
いま ここに
生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました

人のいのちの尊さを
骨身にしみて 味わったおかげで
人のいのちを ほんとうに大切にする
ほんものの人間に裸で逢うことができました

一人の ほんものの人間に
めぐり逢えたおかげで
それが 縁となり
次々に 沢山のよい人たちに
めぐり逢うことができました

だから わたしの まわりにいる人たちは
みんな よい人ばかりなんです

(相田みつお)





母が亡くなってひと月、ふた月があっという間に過ぎ、そしてまた日々が過ぎていく。
いつかの日の繰り返しだなと心の中で思う。
人の心のなんと儚いことかと感じる。
なんど繰り返しても、愛する人の死には慣れない。
その憂いのなかで驚く程の速さの流れをただ外から見つめている。
そういう時は大体なにもできないままだ。

グリーフ(死別を超える時の流れ)の中では、子の死は未来、伴侶の死は現在、
そして親の死とは「過去」を失うことと言われる。
私は実体験から、いずれの死も過去現在未来の3つを失うこと
(見失う、とも言える)、時を失うことだと感じている。
だから身近な死を経験する度にこの3つの時間を深く振り返る事が多くなる気がする

もちろん現在を見て、未来を考えることにもなる。
つまり、自分という人間の本質を振り返り、現在を問い、
未来の目標やそれに向かう力となる信念などを思い返す経験をする。
その期間や経過は個人の経験や精神の状態により多様で
少なくとも伴侶たちの2回の死はそういうモノを伴っていて
私の場合だが、それは今も続いている。

今回母を見送ってみて、ああ、やっぱり過去を振り返るものだなぁと実感してる。
自分のつぶやきのコメントを見ても思うけど、今はどんな話題の中にも母がいる。
過去を思い返えしてしまうのは、そこに母がいるからなんだと思う。
生き様の中に母が生きている。

たぶん、それを確認することで自分の中で死なないことを確かめたり
未来に共に生き続けることを無意識に確認しているんだろうと思う。
そしてそのことが生きる力につながっていくんだろう。

きっとたぶん、引き継いでいく、繋がっていくってそういう事なんじゃないかなぁと感じる。
たぶん、これは死別だけじゃなくて、いろんな別れにおいて同じ経過をたどる気がする。
その深さは違うだろうけど似たような経緯をたどるのではないかなって。
例えば大事なものを失くすと言うような日々の出来事でも、恋人との別れでも。

その向き合い方はそれぞれの自然とその魂に響くような形で行われる気がする。
私の場合、書くことだ。呟きとかブログとか脚本とか。
人によっては芝居に通うとか、遊びに行くとかいろいろだと思う。

こういったことは他人様から観れば、精神病んでるていうか、ちょっと危ない感じに映るのだと思うし、
近隣の方にご迷惑かけることもあるし、何か言われることもあるのかもしれないけど、
それでも無視したらいけない気がする。
それを出来る時間を大事にしていくことってものすごく大切だと経験してきて思う。

だってそれは作り上げてきたものを壊され、それをすべて拾って、
一から組み立てなおして、明日に向かって自分で動かす為に魂が自然とやっていることだと思うから。
じっくりと向き合って行きたいと思っている。

しかし「最愛」という人の死を10年ほどで3度も繰り返せば、それなりの対応力はつくものか。
今回は変に無理をすることも、悲しみに落ち込みすぎることもなく、ジタバタせずにいられている。
他人様からどう映るかはわからないけれど。
それは諦めたのでもなく、何もしないのでもなく、ただただちゃんとこの流れを受け止めようと思って過ごしている。
ある意味、いまこそ確かに私は動いているのだという実感みたいなものもある。
だから魂も肉体も決して死んではいない。
それが分かっているから、自分では大丈夫だと思っている。

動けずにはいるが、その分、確かな思いも気持ちもちゃんと胸の奥底にある。
ただ時は一瞬も私の中でとどまってはくれないだけでね。
否、自分があるところから動けずにいるだけなんだろうな。
それもちゃんとわかってる。
けれども、それがどうしようもない時というのも間違いなく存在することも私は身をもって知っている。

実際に人というのはそんなに単純ではないのよ。私はそう思う。
いま「おかれた場所で咲きなさい」という本でちょっとしたブームになっている
シスター渡辺和子さんは昔は自分にも人にも厳しい方だったけれど、
50歳代でうつ病にかかられて死と向き合われた。
復帰された時、「私は人間は気持ちがあればやれるもので、
できないのは努力が足りないからだ、と思っていたが、病を得て、
人間には自分の意思でどうにもならない時や事柄があるのだと知りました。
私は感謝だの人間関係だの語ってきたけれど、自分のエゴばかりで世の中を判断していて、
実は何もわかっていなかった。なんと傲慢で思いやりと優しさのない人間だったことだろう」
と書かれていたことを思い出す。

かくいう私もそうだった。
何もないところから気力と努力と根性だけで身を立ててきた私には特にそれしか方法が見えなかった。
でも今は違う。
3度の愛する人の死はそう言った間違いを経験を通し人割と深く教えてくれた。
今は私もシスター渡辺と同じことを強く感じる。

人は自分が頑張っていて、それができているとき、特にそう思ってしまうんだろう。
「できないのはその人に本気の思いがないからです。やりたい人はどんな状況だってやるんですよ。」と。
これはよく目にし、耳にする言葉。確かにそれは間違ってはいない。
確かにその言葉が当てはまる人はいる。できるのにやらない人はそうだろう。
それに、何よりもそうできれば何よりいいし、そうありたいものだ。
けれどやっぱりそれは、そうできる状況と気持ちがあってこそなんだと思う。

自分の過去から判断していえば、そう人に言える人というのは、
その時は多分「本気」の正体を実際はあんまり分かっていない。
シンプルで、それでいて複雑な人の心を「本気」では理解できていないし、知らないから言えるんだろうなと思う。
結局、そちら側の環境しか知らないままモノを言ってしまっているのだ。
自分のなかの正義と信念をもって誠実に。だから悪いともいえない。
ただそれは、多分、本気のどん底と言うのも知らないし、
本気のこの世の地獄も、そこにいる人の本気の悲しみにも寄り添えていないということだと思う。

確かにそれらをこなす本気というのもあるが、物事には反面が必ずある。
それらをさせない本気もあるということを知らない、つまり解らないから言ってしまえるのだ。
「本気が足りない」なんて。
まあ、仕方ない、何度も言うが、それが若さというもの(笑)
(たぶん魂が)若いうちは希望に向かってしか未来が見えないモノなんだろうなー、って思う、
自分を振り返ってみても。
後ろ向きの経験に、未来の種や答えが入っていることを気づけるまでには、
きっとそれなりの時間と経験がいるんだと思う。

事実、ほとんどの人はイノチをかけるような経験なんてのは、なかなかしないし出会うもんじゃないし。
そういう条件が揃うのもまた珍しいのだから、理解できないなんて至極当たり前なんだろう
私のような死と隣り合わせみたいな環境が極く希なわけでね。
そんな自分ですら、なかなか理解できなかった。そんなもんだから仕方ない。
なんてねー、偉そうなことを思ってみたりね(^◇^;)
でも、本当にそうだと思う今日この頃。

でもそれでいいとおもう。それはそれで必要な考えなのだから。
この世になくてはならないし、大事なものなのよ。
それを経験しないとわからないこともあるから。
いまの私にはもう必要ないだけで。って、最近本当にそう感じている。




《日向ぼっこが気持ちいい季節ですね》




さて、亡くなった母は身も心も美しい人だった。
亡くなってからこっち、知らず知らずにずっと母を思っている。
母の胎内から出でて、彼女の乳をもらい、彼女の生き方を幼い日々の世界のすべてとしてきた私は、
間違いなく彼女の一部であり、彼女は私の一部であって、聖域だった。
大人になって、社会に出て、外から母を見た時、何よりその美しさを知った。
それはこの世ではできて当たり前ではなかった。
博愛の人だった母は、常に弱きものに寄り添い、涙し、共に笑い、すべてを分かち合える人だった。
母は敬愛する、最愛の家族だった。

そんな母の生き方を想うとき、私は自分のこれからを知らず内に考える。
一人、二人と最愛の人が遠く旅立つ度に自分はどうあるべきか考えたけれど今回も静かに深く考えている。
私は比較的、やりたいことや目的や好きなこと、自分の才能といったものが昔からある程度はっきりしている。
それに添うようにして生きてきたと言ってもよいと思う。

どの願いも私の環境ではまず叶わないような事ばかりだったから、
如何にそれを叶えて実行できるかを考えてやってきた。
自分の才能と相談しながら努力をし、常に周りの人に感謝をし、
ただの思い付きで突っ走らないように、とにかく考えて動くことを考えてきた。
なぜなら、私は自分も当然ながら幸せになりたかったが、それと同じか
それ以上に周りの人に幸せになってもらいたい、とずっと思い、今もそう思っているから。

それは母の生きざまの影響がほんとに大きい。
それまでに羨むほどの心の持ち主だったからだ。
いま人生の半分に手が届きそうなところまで来て、愛する人々、母を見送り、なお思う。
私は母のごとく生きたいのだな、と。
真似をしたい、というのではなく、結局自分の選び望む生き方のなかに母がある、ということだ。
だが残念ながら私は母のようには出来ていない。
ただただエゴの強い、至らない人間だ。
母が生きていれば、そんなことないがね、と言ってくれるだろうけども。

でも母を見送って本当に思った。今こそ光の道を継ぐときなんだ、と。
今まで、いろんな人や物事をプロデュースする立場にあったけれど、
いまこそ私は私を創っていきたいと思っている。
めぐまれて文章を書く機会をいただいているのだけど、
今ほんとに自分の生きる道に沿うもの、
私が美しいと思う世界をまっすぐを書いていきたいと思う。


私はできる限り、弱きもの小さき者の心に寄り添っていきたい。
何気ない毎日の中の、人間が生きる日々の、ふとした瞬間を描きたい。
生まれた人すべてが持っている普遍的な世界を描きたい。
0歳から向こうに行くまでのどんな人をもが理解できるようなシンプルなものを書きたい。
ただただ人が抱く愛の姿をかきたい。

昔、私が主演を務めた児童向けの作品を観に来てくださった、あるおば様がこう言ってくださったことがある。

「福ちゃん、あたしは今まで息子が出た作品をたくさん観たけど、いつもよくわからなかったの。
でも今日のお芝居は本当によくわかって、とっても面白かったがよ」

実はこの一言こそが私の後押しをしてくれた大きな言葉だったのですよね。
これを輝く瞳で私の手を握り締め、笑顔で興奮して言うのを聞いたとき、
私は赤ちゃんでもおばあちゃんでもどこか一箇所でいい理解できて
泣いたり笑ったりできる作品を作りたい、と心に決めたのでした。
この一言があったから頑張れた。だから死ぬまで大事にしたいなって。
小難しかったり、アートっぽかったり、そういうのはやってくれる人がいっぱいいるから。
私は死ぬまでそれをやっていきたいなって思っています。

たとえ、誰に見せなくとも、公演を打っていなくてもいいんですよ。
けれど、誰かに必要な時に、それが私一人があれば、
即座に無償で「芝居」の力を差し出せるように在りたいのです。
これが、いま自分がなりたいと思う俳優の形なんです。


井上ひさし先生の言葉ではありませんが
「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく
おもしろいことをまじめに まじめなことをゆかいに ゆかいなことをいっそうゆかいに」
書いていきたいなって思うのです。

そのためにも母のような真の捧げる人生を選び喜べる人間でありたい、と。
本当の意味で自然と人と共鳴して生きていきたい。

とはいえ、今の私は誰とも接していないし、実際接したいと思っていないから、きっと不思議に思われるかもしれないけど。
そのこと、この3年かけて、よく考えたんです。で、わかったんです。
私はただ人とかかわりあいたくない、というのではないんですよ。決してそうではないんです。
事実、相方さんたちがいなくなって、友人も近くにいなくなって、
仕事からも遠く離れて、そのうえ病持ちで、犬や猫がいて、
如何に男手なしで、人の手助けなしで生活していくことが大変か痛感してます。

でも、一人になってつくづく思ったんですが、どうしてもこれ以上に
人やその気持ちを自分の寂しさや大変さに利用するのは嫌なんです。
そんな風に考えなくても友達じゃないの、と周りは言ってくれるのでしょうけど。
嫌というほど、これからの人生を考えろとか、新しい出会いとか言われるんですけど。
私はそんな簡単に次に行ける程、軽く人を愛してこなかったから、そうはいかないんですよ。
どうしても嫌なんですね。自分の状態とか考えるにつけ、そう思うんです。
今の状態で人に関われば、どうしても手を借りてしまうことになっちゃうなぁ、って思うし。
それはもう、最小限にとどめておきたいんです。
だったらできる限り、一人で孤独と向き合いたいというか、そこから生まれる広い愛を育てていきたいというかね。
エゴだとは分かっているのですが。今はどうしてもそうしたいと思っているんです。

そうしているもう一つの理由は、自分の気持ちいいところに収まりたくないということもあります。
別に変に我慢の修行みたいなのを自分に課したいとかでなくてね。
自分はこれまで多くの人とかかわる仕事をしてきて、共に何かを作り上げるのがお仕事でした。
その為には仲良くやるっていうのは本当に重要で、実際に人と交わることは得意な方だと思う。
だから、人と関われば関わるだけ嘘つけちゃうと思うんですよ、私は。
嘘というか、相手に合わせてしまえるから。それをしたくないというか。
いつも魂を捧げる人でありたい。カッコ良く言えば。
そんな思いが強くあるんです。

ながくなっちゃいました。(いつもか^^;)



映画にもなったのでご存知の方もいるかもしれませんが、太宰治の「パンドラの匣」という作品があります。
先日、母を想い、過去を思い返し、先を見つめながら、この作品を思い返していました。
この作品の一番最後の部分が、今の自分の気持ちにとても共鳴していたからです。
その部分とは次のように描かれています。


*********************************

献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。
大違いである。
献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。
人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。
しかし献身には、何の身支度も要らない。
今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧ささげたてまつるべきである。
鍬くわとる者は、鍬とった野良姿のらすがたのままで、献身すべきだ。
自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。
人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。
いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、
と力強く、諄々じゅんじゅんと説いている。
聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。
献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。
新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。
全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。
あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。
この道は、どこへつづいているのか。
それは、伸びて行く植物の蔓つるに聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。

「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」

(太宰治「パンドラの匣」より抜粋)

*********************************



ここからは母のごとく「人間の刻々が献身」となる様な生き方をしようと決めている。
私は太宰も作品の中で言っているが見事であるべきことに費やす猶予はないという言葉に深く共鳴するから。
心配はない。人生の指針も目標も使命も学びも全部、これまで日々とその生き方の中に或る。
新たな学びもそこに続く毎日のなかにこそあるのだ。
それをまっすぐ生きることで光に導かれていく、と今はちゃんとわかっている。
だから伸びていく植物の蔓のようにいよう。
向かった場所に必ず答えはあるのだから。

(9月に書いた記事)

月命日

2014-09-02 | KOFUKU日記

   





秋風に 母の声がある
   秋のひざしの中に 母の目がある
   秋に雨に 母のつぶやきがある   
   秋の窓に 母の影がある

   わたしは
   秋の中に 母の姿を描く
   (サトウ・ハチロー)







〈この子らのおかげで安らぎがあります〉

九月になりましたね。秋のはじまりです。
今日は母が亡くなってはじめての月命日。
朝おきてロウソクを灯し、お香をあげて、お茶を入れました。
庭に咲く紫色の一日草を自然から分けてもらって生けました。


母が亡くなった時、うまく言えませんが、家族もいたせいなのか、
やる事がいっぱいあったせいなのか、別れの時間があったからなのか、
それは全くわからないけれど、私に涙はありませんでした。
母の体がもう苦しくないだろうということがホッとしたのと
ああ、やっぱり母も逝ってしまったんだなぁ、ただただ思ったのでした。

母と私は、母と私にしかわからない絆というものがあったと思うのです。
私の中で母は私が心繋がった人としか持てなかった大事なものを
最初から全部兼ね備えていて、それを与えてくれた人でした。
そして、その「大事なモノ」を持っている、この世に生きている最後の人でした。

一日、二日と経って行き、私はほとんど気がついていなかったけれど、
母の穏やかな死はそれと同じように緩やかに私の中にたしかに存在して
いつしか私を少しずつ削っているような、なんというかそんな感じです。+
生きる希望がなくなったとか、何もしたくなくなったとかではなくて、
気持ちは本当にあるのですが、ただ気持ちと裏腹に動かせないのです。
気づいたらなんだか体調が悪くなっていて、フラフラと倒れ込んでしまったり、
寝込んでしまったり、視力もびっくりするほど落ちてしまって、
気力も上げることがなかなか難しく、何もできない日々でした。

とても早い時期にお世話になった人々への贈り物も用意したりしたのに、
まだひとつも送れていない、そんな風な調子です。
未だにそんな調子なので、まだ全然なのですが、
この月命日を一つの区切りにして、少しずつお送りできたらなぁと思っています。
お届けものをさせていただきたいとお知らせした皆様にはお待たせして申し訳ございません。
どうかどうか、失礼をお許し頂き、気長にお待ち頂けたら嬉しく存じます<(_ _)> 





今はまだ母という存在の大きさに胸奪われ、しみじみと感謝を想う日々です。
ただ不思議なことに、母が身罷ってからというもの、
まるで母が宿ってくれたかのように、以前にもまして
小さい家族たち(動物たち)や自然を愛おしく思ったり
母の好きなものを食べたくなったり、着物を着たくなったり、
無性に手仕事したくなったりしてしまうのですよ。
私の魂はいま、母へのオマージュのようにそれをすることを求めているのかな、と。
そういう思いが湧いた時にはそれが供養になると思って、その感情に身を任せています。






私は死に対して時間がかかるのです。
ひとりひとりに対して、そんなに簡単に向き合っていないから。
自分の身を削られたからには、肉が盛り上がるまでにとても時間がかかるのです。
今度はどのくらいかかるのだろうな。この新しい出来事が肉になるまでに。
いや、いまだ前のものがかさぶたになりかけているところだから、これはこれからだしまだまだかな。
でも出来ることはただ一つ。それを生きるしかないから、それだけかな。
特に今は出来ることを、したいことを、できるだけして。
そしてその気力を持ってやることを一つずつやっていくしかない。
そうおもっています。

何にしても、はやく皆さんと連絡取れるように元気になりたいです。
そして、この生命の巡りを大切に生きてゆきたい。





〈家族がいるって、家があるって、いいよね〉





子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入り代わつてふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つてー 。

子供たちよ
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前達に譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー 。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造つてゐます。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑ってゐる間に
気が附いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度譲り葉の木の下に立って
譲り葉を見るときが来るでせう。

La Vie en Rose ~母の旅立ち

2014-08-11 | KOFUKU日記


〈父の選んだ母の遺影 写真もリボンも家族の手作りによるものです〉



8月2日、午後3時56分、最愛の母が昇天致しました。

生前よりご心配くださった皆様、本当にありがとうございました。

また亡き母へのあたたかなお言葉の花束、美しく香り高いお花たち、
過分なお心遣いを御送りくださった皆様、本当にありがとうございました。

皆様のお気持ちに支えられ、おかげ様で5日に葬儀
8日に初七日を滞りなく済ませることができました。

本来なら拝眉の上、御礼申し上げるのが本意でございますが
この場をお借りしまして深く深く御礼申し上げます。
本当にありがとうございました<(_ _)> 

明日より、お心寄せてくださいました皆様
お一人お一人にお便り差し上げる予定でおります。
葬儀後から体調を崩していて、思うように心と体がリンクせずにおります。
そのためお礼が遅くなってしまいますが、
お許し頂き、お待ちいただけましたらとてもありがたいです。


さて母の葬儀は家族のみで静かに穏やかに見送らせていただきました。

もとより経済の本当に苦しい我が家のことですから、
最低限の小さなお葬式しか出してあげられませんでしたが、
葬儀まで数日感がありましたので、遺影の写真をはじめ、
母に持って行ってもらう身の回りのものやお花飾りなど
家族全員で夜なべして手作りして用意しました。

遺影の額にかける黒リボンまで、何もかも手作りの
小さいけれど、あたたかな愛に満ちた葬儀だったと思います。

2007年の秋に脳梗塞で倒れ、そのまま半身不随となり、
それからすぐに脳障害によって意思の疎通ができなくなった母。

寝たきりのまま、話すこともできず、母の闘病は7年にも及びました。
何度も危篤状態となりましたが、医師も驚く程の長い時を生きてくれました。

ついぞ七夕の日に人工呼吸器のお世話になることになり
体も顔も驚く程にむくんで晴れ上がり、呼吸も常に苦しい状態でしたが
そこからも医師が驚くほどの回復力を見せてくれて、
そこから一ヶ月を私たちの傍で力強く生きてくれました。
そのおかげで病院に泊り込んだりして、多くの時間を母と過ごすことができました。

ずっと苦しい息の中での日々でしたが、最後は穏やかな息遣いになり、
微笑むような明るいお顔で向こうの世界へと旅立って行きました。

まるで光り輝くようにお顔が美しくて、お医者様や看護師さんが
「観音様みたい」「マリア様見たい」「なんて綺麗なんだろう」
「きっといいところにいったんですねぇ」と口々に言ってくださいました。

あまりにお顔が幸せそうだったので、おかげで旅路のこと
向こうでのことなどを何の心配もせずに済みました。

昇天してから数時間後、母は初めて今の実家の敷居をまたぎました。

家に到着してからは葬儀屋さんが用意してくれたお布団でなく
いつも自分たちが眠っているお布団に眠ってもらいました。
布団に横たわる母は、本当に顔色も良くて、ぐっすりと眠っているようでした。

葬儀屋さんが帰ると、待ち構えていたように、
犬たちや猫たちが母のそばにやってきました。
いつも知らない人がいれば、本当に狂ったかのように吠えるチビたちが、
吠えることもせず、すりすりと母の頬にすりより、
足元で胸元で顔のそばで犬も猫も母に寄り添って眠ってくれました。
動物たちが大好きで深く愛した母。何よりも喜んでいたと思います。


葬儀までの数日、家族それぞれが思う母の好きなものを集めました。
母の枕辺や柩の中はあっという間に
沢山の可愛いものや美しいものでいっぱいになりました。

妹が沢山の写真をコピーしてくれました。
犬たちも猫たちも家族も全員の写真と髪を収めました。

ヘルニアで療養中の甥っ子は、体調がいいとせっせと母の似顔絵を書いたり、
母のそばに座り込み、ギターやウクレレなどを弾き、
ライアー(小型のハープ)で天上の音楽のような曲を即興で奏で、
フルートやブルースハープを吹いたりして、母のために静かに演奏を続けてくれました。
その合間にロウソクの番をしてくれて、ずっとお香を焚いてくれました。
「俺がばぁばにできるのはこれくらいだから」と言いながら。

母の胸にはカンナちゃんが作ってくれた花束がおかれました。
明るい色合いの手作りの花束を抱いた母はとても綺麗でした。

葬儀の当日、朝にお花をたくさん買って、家族全員で花を摘んで
母の柩のなかに入れました。まるで花畑の中で笑っているようでした。

家族だけの参列で、豪華な祭壇もお花もな~んにもなかったけれど、
とても温かみのある葬儀になり母も喜んだのではないかと思っています。

何よりも亡くなる前からの、驚く程の美しさと神々しさに打たれました。
幸せのオーラ、波動と言うのを母からダイレクトに感じたのです。

周りからすれば苦労ばかりの人生でしたのに、
本人はその苦労のどれ一つ、何一つ厭わずに、
心から喜んで人のために尽くしきった人だったので
きっときっと誰よりも満たされた幸せな一生送ったのだと思います。
La Vie en Rose~まさにバラ色の人生。

やはり人の一生は富や権力などではないんだなぁと深く感じました。
エゴとは無縁のものなんだなぁ、とも感じました。

どんなに悟ったように素晴らしいことを言っていたとしても
やはり人というものは多くの人がエゴが強いものです。
どんなに「誰かの為に」と言っていたとしても、
「(私がそうなりたくないと思ったから)こうしよう」
と言う様に大体の人が自分を気持ち優先でモノを考え、語っているものです。
しかも、そのことがエゴであることにすら気づいていません。

けれど本当に人のことを思い、愛に生きている人って言うのはそれがありません。
最初にあるのは、相手の気持ち、です。そのためにどうしたらいいかと考えます。
そして、自分については謙虚です。自分は人様に対して間違ってはいないか?
ちゃんとお役にたてているか?などと常に自分を問う謙虚な姿勢があります。
母はまさにそういう人でした。

そんな風に嘘偽りなく人の幸せを願い、それを行動に移して生きた人は
人から見て、どんなに辛くしんどい人生を送ってきたとしても
本人はそれをしんどいとも辛いとも思うこともなく
ただただ幸せだと思って生きられるんだなぁ。
死の瞬間ががこんなにも幸せに満たされているものなんだなぁと
母のこの世での最後の時を過ごし、一層強く思いました。

葬儀は終わりましたが、その後も我が家では
まだまだ母が中心の時間を過ごしています。
やはり母の存在は大きかったなぁと感謝と共に感じています。

母の死は生命を奪われるように、突然向こうに逝ってしまった
相方さんたちの時とはまた違う気持ちです。
ただ我が身の一部がいなくなった感はやはり自分が思っているより深いようです。
生きながらにして、その一部をもぎ取られるわけだから、痛くないはずもなく…。
でも、その気持ちに逆らうことはせず、感じ尽くそうと思っています。
感情は前の2回のお別れの時よりも、もっともっと深く静かな流れです。
今は流れる川のように、その流れにそっていこうと思うのです。


そうそう不思議なことがありました。
葬儀前のことです。
長野の心友からメールが来ました。

長野の心友は私と同じくスピリチュアルな仕事や活動はしていませんが
そう言うモノを日常的に感じたり、見ることができる人です。

その親友のメールには、お母様がいらっしゃいました、とありました。
今の状況と気持ちを伝えてください、と言ってきたそうです。
はっきり私の母の名前を名乗ったわけじゃないけれど
多分間違いなく福ちゃんのお母様だったと思う、と。
こんな時に、こんなメールどうかと思ったけど福ちゃんだからと知らせてくれました。

そのメールを見て、ああ、本当に母だなとわかりました。
なぜなら私と家族にしかわからないことがそこに書いてあったからです。
私は兄弟にそのことを知らせました。
母はやはり幸せで安心できる状態にある様子です。

我が家はもともと祖母やおじが(本気の)霊能者の家系なので
そういう不思議は昔からいくらでもあるのです。
葬儀のあとも家に帰ってきたとたんに、祭壇に飾った花が
風も何もないのに家族の目の前で一本だけくるりと大きく動きました。
ああ、お母さんがいるのね、とみんなで声をかけました。

そうなんですが、唯一、父だけがそういうのを嫌います(多分嫌う理由は恐れ)。
神も仏もあるもんか、死んだら終わりというタイプの人です。
私や家族に目の前で何かが起きても信じません(笑)
なので、何か言われても嫌ですし、敢えてその話は一切しませんでした。

すると、今朝、父が言うのです。このところ母の夢を見るのだ、と。
父が言うには母が
「今、18号線のところにいるんだけど車がないから迎えに来てね。
18号線のところで待ってるからね」
と言うのだそうです。

「18号線って一体どこから出てきた?」と思った父は私たちにその話をしたのです。
それがとても気になった妹が18号線を調べると、それは長野に走っている国道でした。
メールをくれた心友が長野にいると知っていた妹は偶然にしては…と思って連絡してきました。
それを聞いて、私ももしやと思い調べてみると、
やはり心友の家の横を通っているのが18号線だったのです。

多分、母は父に自分がいま大丈夫なこと、
そしてタマシイが今も生きていること、
向こうの世界がちゃんとあることを伝えたかったのでしょう。
そして、その世界を父がリアルに感じることで、
この世でのこれからの生き方を支えたいと思ったのでしょう。
怖がりの父が安心して向こうの世界に移れるように。
死してもなお、母の父への深い愛を感じました。

どうやら母のこの行いは父に影響をもたらした様子です。
死してなおタマシイがそこにあることを感じたのでしょう。
それが良い方に働くといいなと思います。

四十九日まであと40日ほど。
それまでは母の御霊と静かに過ごしたいと思っております。

夏のご挨拶もできませんでしたが、
皆様どうかご自愛くださいませね。

取り急ぎ、ご報告でした。
それではまた<(_ _)> 




母を案じてくださった皆様へ

2014-08-02 | KOFUKU日記



療養中の母を案じてくださった皆様へ

本日、母が亡くなりました。
午後三時五十六分八十一歳でした。
眠るような静かな、静かな穏やかな昇天でした。

生前はひとかたならぬご厚誼を賜り、
かつ病中はたびたびのお見舞いをいただきまして、
まことにありがとうございました。 
謹んでここに御礼とお知らせを申し上げます。

お顔が本当に美しくて、観音様や聖母マリア様のようで、
お世話くださった看護師様たちも
「こんなにむくみが出ていたのに、
こんな美しいお顔のご遺体は見たことがない」
と言ってくださった程です。

きっと善き場所に向かったことと思います。
このあと、家族のみで静かに見送るつもりです。

しばらく家を空けるためPCを使えなくなることが多いです。
個人アドレスをご存知の方は何かありましたら、そちらの方にご連絡下さいませ。
よろしくお願い申し上げます。

支えてくださった皆様、重ねまして御礼申し上げます。
ありがとうございました。


   

"Time Tested Beauty Tips"

2014-07-12 | KOFUKU日記



『時間がつくる美しさ』
"Time Tested Beauty Tips" ―Sam Leveson

魅力的な唇をつくるには、美しい言葉をつかうこと。
For attractive lips, speak words of kindness.

愛らしい瞳であるためには、他人の美点を探すこと。
For lovely eyes, seek out the good in people.

スタイルよくいるためには、お腹のすいた人々と食べ物を分かち合うのです。
For a slim figure, share your food with the hungry.

つややかな髪でいるためには、一日に一度、子どもたちの指で髪をとかしてもらうこと。
For beautiful hair, let a child run his fingers through it once a day.

美しい身のこなしを身につけるには、あなたが決して独りで歩いているわけではないことを知ることです。
For poise, walk with the knowledge you'll never walk alone ...

壊れたものは元に戻せないけれど、人は転んでもたちあがれます。
失敗すればやり直せるし、挫折してももう一度始められるし、間違えれば直せるのです。
People, even more than things, have to be restored, renewed, revived,

何度も何度もがんばることができるのです。
reclaimed and redeemed and redeemed ...

決して人を見捨てるようなことをしてはなりません。
Never throw out anybody.

どうか忘れないで、人生に迷い、助けが必要なとき、差し伸べられている手があることを。
Remember, if you ever need a helping hand,
you'll find one at the end of your arm.

年をとると、人は自分の手にはふたつの使い道があることに気づきます。
As you grow older you will discover that you have two hands.

ひとつは、自分自身を助けるため、
もうひとつの手は他者を助けるためにあるのです。
One for helping yourself, the other for helping others.

女性の美しさというものは着ている服が決めるものでも、
The beauty of a woman is not in the clothes she wears,

その容姿でもなく、髪を梳くしぐさのようなものでもありません。
the figure that she carries, or the way she combs her hair.

女性の美しさは、その瞳の奥に見つけることができます。
The beauty of a woman must be seen from in her eyes,

そこは愛にあふれた彼女の心へ繋がる場所。
because that is the doorway to her heart,

女性の美しさは、顔のほくろや造りなどには左右されません。
The beauty of a woman is not in a facial mole,

本当の美しさは その人の魂に映し出されるものなのです。
but true beauty in a woman is reflected in her soul.

それは心のこもった思いやりや時として情熱となったりしてあらわれます。
It is the caring that she lovingly gives, the passion that she shows,

そして女性の美しさというものは、年を追うごとに磨かれ輝いていくものなのです。
and the beauty of a woman with passing years only grows!

(訳詩・夢街福)



ご心配おかけしております<(_ _)> 
母は今週の月曜日、再度危篤の状態に陥り、人工呼吸器になりました。
一度は諦めるような状態でしたが、奇跡的に挿管が間に合い、一命を取り留めた状態です。
その後、あまり芳しくない状態ながらも、小康状態で頑張ってくれています。
また、母の様子はお知らせさせていただきます。


今日ご紹介した詩はオードリー・ヘプバーンがまくなる直前に息子たちに遺言として残した詩です。
戦時下を貧しい少女として生きた彼女は、女優として成功し
24歳からユニセフに関わり、一生を奉仕とともに捧げたのでした。
そんな彼女の美しさを作り上げた理由がこの詩です。

私の母はずっとオードリー・ヘプバーンや美智子皇后さまに似ている、と言われていました。
実際姿かたちもよく似ています。とても美しい人でした。
でも何より美しかったのは、その心です。
上品で、美しく、明るく、やさしい。
多分、彼女たちの持つノーブルさと、この詩にある精神が似ているのだと思います。
母もこの詩と同じことを言う人で、そう生きた人だったからです。

呼吸器につながれている母を見ながら、この詩を思い出しました。
そして、やはり母は美しいと思いました。

いま私はパニックするほど、大変な状況の中にあるけれど、
困難の中にある今こそ、母に教えられたこの精神を心に生きたいと思うのです。