SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

真田行3 高野山・九度山編

真田昌幸・幸村父子が高野山へ配流されたのは1600年12月。
関ヶ原の戦いで西軍が敗戦、上田城で徳川秀忠軍を苦しめた2人は当然死罪になるところだったが、信幸の必死の嘆願で助命された。

高野山へは南海高野線で向いました。到着してすぐ奥の院で大名家の墓所群を見ます(2007年11月20日からの記事参照ください)。その後少々お腹が空いたので、お店に入ってぜんざいを食べました。疲れていたので甘いものが食べたくなったのですが、口直しの塩昆布を私は食べません。ひと休みできたのでお土産をさがしてお店を見て廻りながら、宿泊する宿坊まで移動します。

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「蓮華定院」
昌幸・幸村父子が高野山へ配流後、最初に滞在したのがこの寺院だそうです。寺院の至るところに六連銭が見うけられる。まさに真田縁の寺といった感じだが。真田氏だけでなく信濃の武将が数多く宿坊契約を交わしていたとの事。

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門を入り、丁度掃除をされていた方に案内を乞う。宿泊する部屋まで連れて行ってもらったのだが、なんと広い部屋だこと、予約したのは私自身なのだがこんなに広いとは思わなかった(汗)その後はお勤めがあり瞑想&住職のお話・・・ですが全部英語!!!そりゃ外国人が多かったんだけど日本語でもお願いします。なんか有難みに欠けるような。先ほども書きましたがとにかく外国人が多かったです。ここだけでは無く帰りの電車、乗った車両をふと見廻すと私以外全員外国の方でした。さてようやくお勤めも終わり夕食、精進料理です。風呂・トイレは共同ですが、部屋にはテレビ、コタツなどあって不自由しませんでした。

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「上(々)段の間」

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「真田信之・信政の墓」

翌朝、お勤めの時間まで寝ていた私(汗)。朝食の時間との事で急いで上段の間へ行きました。
高野山を後にし九度山へ。
真田昌幸・幸村父子は高野山の蓮華定院に暫らく滞在した後、九度山へ移住します。

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「善名称院(真田庵)」
昌幸は1611年6月4日この地で亡くなった。

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「真田昌幸の墓」
昌幸・幸村のこの地での生活は辛く厳しかったようで、昌幸はグチが多くなり赦免される事を願う日々だったそう。

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「雷封じの井戸」
幸村が屋敷に落ちた雷を取り押さえ、この井戸に封じ込めたそう。立花道雪の雷切並みの伝説です。

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「宝物資料館」

1614年幸村はこの地を抜け出し大坂城を目指す。自由への脱出なのか?死への旅立ちなのか?それとも伝説の始まりなのか。

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