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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

1906 根津美術館 はじめての古美術鑑賞

2019-08-28 | 探訪

東京は青山
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根津美術館
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はじめての古美術鑑賞
期間:5月25日(土)~7月7日(日)
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八角尾垂釜
桃山時代に芦屋で制作されたやや大型の八角釜。肩には鬼面の鐶付が付く。
八面に中国の瀟湘八景図を繊細な箆使いで表している。

同時開催のテーマ展示から
共筒茶杓 銘 時鳥 片桐石州作
白竹、上節には朽葉色の筋が流れ、節下には胡麻が散る見所の多い茶杓。
筒には「時鳥 石」と墨書きされている。北条出羽守氏重宛の石州書状が附属する。
共筒茶杓 銘 五月雨 小堀遠州作
節下の下部に虫喰い穴があり、これに因んで「五月雨 星ひとつ見つけたる夜のうれしさは 月にもまさるさみたれのそら」の古歌を銀粉字形で筒書している。
雲州蔵帳所載で、松平不昧が「五月雨 宗甫」と箱書きしている。


1906 センチュリーミュージアム 中世の文化圏

2019-08-24 | 探訪

東京は早稲田
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センチュリーミュージアム
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中世の文化圏
期間:4月8日(月)~6月29日(土)

紹巴切(『後撰集』)藤原定家筆
定家自筆の『後撰和歌集』第二十巻頭の断簡。紹巴切の名は連歌師・里村紹巴が所持していた事にちなむ。
紹巴添状によれば近衛稙家・三条西公枝の極が附属していたといい、越後の樋口実頼に譲与すると記されている。樋口(大国)実頼は直江兼続の弟で、里村紹巴の連歌会に度々同席しており、その関係でこの断簡を譲られたのだろう。

宗祇書状
十一月九日付、進藤長泰宛。内容は前関白・近衛尚通より古今和歌集の奥義を聴聞すべく訪問をうながしたが、宗祇は忙しくまた腰痛のため行けないと詫びている。
進藤長泰は近衛家の諸大夫(家司)を務めていた人物。
三社託宣 山崎宗鑑筆
くねるような筆跡に特徴のある宗鑑流の書で、石清水八幡宮・伊勢神宮・春日大社の神託を書いたもので、礼拝用に床の間に掛けられた。
山崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧師。九代将軍・足利義尚に仕えていたが、その死後出家した。

その他にも一休宗純自画賛に雪舟山水画、短冊では連歌師宗長、足利義満・義教・義政など豊富でした。


1906 東京国立博物館②

2019-08-19 | 探訪

前回からの続き
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千利休書状
十六日付、古田織部宛。内容は焼茶碗を娘婿の紹二に持たせ織部に贈る際に添えた手紙。
「焼茶碗」はおそらく利休が長次郎に作らせた樂茶碗の事だろう。
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津田宗及書状
極月七日付、中坊法印宛。秀吉、足利義昭との茶の湯の交流に関する内容。
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本阿弥光悦書状
正十四日付、加藤明成宛。制作した茶碗を明成の父・嘉明に進上すると述べている。
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古田織部書状
二月廿九日付。宰相様宛。「宰相様」よりの手紙の返信。宰相様」は織部の茶の湯の弟子である毛利秀元であろう。文中には「安国寺」の名もあり恵瓊、「中納言様」も出てくるがこちらは毛利輝元か。
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金森宗和書状
十四日付、宇治の茶師・上林氏に例年通り新茶進上を依頼している。
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片桐石州書状
十一月二日付、茶杓と短冊を贈った際に添えた手紙。
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真草千字文  近衛家煕筆

今回は茶人たちの手紙を中心に。


1906 東京国立博物館①

2019-08-16 | 探訪

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東京国立博物館
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色紙金光明最勝王経断簡 伝聖武天皇筆
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和漢朗詠集巻下断簡(平等院切)伝源頼政筆
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和漢朗詠集 巻下 伝後醍醐天皇筆
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楼閣山水図屏風 伝狩野元信筆
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瀟湘八景図屏風  長谷川等伯筆
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波濤群燕図  狩野探幽筆
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竹茶杓 銘 亀  杉木普斎作
原三渓旧蔵
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一重口水指 銘 柴庵
信楽焼。千利休所持

今回は探幽の波濤群燕図がお見事でした。


1906 刀剣博物館 日本刀の見方

2019-08-13 | 探訪

東京
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刀剣博物館
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日本刀の見方
期間:4月13日(土)~6月30日(日)
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太刀 銘 友成作
平経教佩刀
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太刀 銘 正恒
豊前小倉藩小笠原家伝来
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太刀 銘 国行(号 明石国行)
国宝。明石藩松平家伝来
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太刀 銘 延吉
国宝。後水尾天皇御料
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金梨子地菊紋散糸巻太刀拵
上記「延吉」の拵
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太刀 銘 備州長船師光 永和二年六月(以下切)
庄内藩酒井家伝来

再会の明石国行や後水尾天皇御料など流石に良い刀剣が揃っていました。


1905 一乗谷朝倉氏遺跡資料館 明智光秀と戦国越前

2019-08-10 | 探訪

朝倉氏遺跡のほど近く
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一乗谷朝倉氏遺跡資料館
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特別公開展「明智光秀と戦国越前~光秀、一乗に来たる~」
期間:4月27日(土)~7月3日(水)
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槍(血吸)
沼田藩土岐家で編纂された『系譜写』によれば、土岐家代々嫡長に伝来の重器で、明智(のち土岐氏)定政が明智光秀より贈られたと記される。
なお鞘書では「血吸」、『系譜写』では「血水」表記である。
脇指 無銘(貞宗)
土岐定政(当時は菅沼氏)が永禄八年(1565)三河寺部城攻めの初陣の功績により主君・徳川家康より与えられた。
土岐定政は最初明智性。光秀とは同族関係にあったようです。槍(血吸)を贈られた逸話もあり、なんらかの関係があったのは確かなのでしょう。
明智光秀書状
六月十二日付、土橋重治宛。本能寺の変から10日後に出された手紙。土橋重治は紀州雜賀の有力者で内容は、足利義昭の入洛の手助けを求めたもの。
この書状から光秀と足利義昭は本能寺の変以前から手を組んでいたとの説もあるが、これだけでは不十分であろう。
翌13日に光秀は、山崎の戦に敗れて逃亡中に討たれ亡くなった為、光秀発給文書では最後の書状。

来年の大河の主人公明智光秀。来年も光秀関連の展示が多くなるかと思いますので、いくつか拝見できればと思います。


1905 一乗谷朝倉氏遺跡

2019-08-08 | 探訪

福井
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一乗谷朝倉氏遺跡
戦国時代、朝倉氏歴代の城下町があったところ。
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下城戸
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巨石を積み上げた入口は矩折になっている
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朝倉館跡・唐門
江戸時代中期に建てられた門。もとは朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲寺の山門であった。
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朝倉館跡
朝倉義景の居住跡。常御殿・主殿・会所などがあった。

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朝倉館跡庭園
特別名勝4庭園のひとつ。庭園の前には数寄屋(茶室)があった。
他の特別名勝庭園は
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湯殿跡庭園
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南陽寺跡庭園
南陽寺は朝倉氏の子女が入る尼寺。永禄11年(1568)足利義昭をもてなす宴が催されたと伝わる。
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諏訪館跡庭園

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朝倉義景墓所
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英林塚(朝倉孝景墓所)

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復原町並
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発掘調査で出てきた遺構に基づき立体復原された
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武家屋敷
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離座敷(茶室)

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上城戸
当時の正面・玄関口であった

ここから朝倉氏遺跡を少し放れて
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富田勢源道場跡
朝倉氏の家臣で剣豪であった富田勢源の道場があったとされる所。
富田勢源は佐々木小次郎の師匠とされる人物

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御所・安養寺跡
亡命中の足利義昭が滞在していたところ。


1905 丸岡城とその周辺

2019-08-06 | 探訪

こんかいも福井
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丸岡城
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天正4年1576)柴田勝家の甥・勝豊により築城。ただし天守は江戸初期の建造とされる。
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一筆啓上碑
本多作左衛門重次が戦場より家族にあてた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
「お仙」とは後に丸岡藩主となる嫡男・成重の事
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階段は急で傾斜角約65度。補助の為のロープがある
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最上階からの眺め

付近を散策
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丸岡歴史民俗資料館
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具足などが展示してあります
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一筆啓上日本一短い手紙の館
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最上階から丸岡城を眺める
お次は
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本光院
本多家の菩提寺
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作左衛門重次、初代藩主・成重、二代重能、三代重昭の墓が並ぶ
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白道寺
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有馬直純・日向御前墓所
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切支丹灯籠
解説ではキリスト教徒との関連を述べるが、どこかの庭園にあったものだろう。

丸岡城を久しぶりに訪れましたが、周りが結構整備されていたので驚きました。


1905 福井城・養浩館庭園

2019-08-04 | 探訪

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今回は福井。恐竜がお出迎え
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福井城
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徳川家康の次男・結城秀康により築城された。
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山里口御門と御廊下橋
どちらも近年の復元。
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天守台
四層五階の天守がそびえていたが、寛文9年(1669)大火により焼失。

お次は
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養浩館庭園
越前松平氏の大名庭園
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養浩館
平成五年の再建

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「養浩館」の名は16代藩主・松平春嶽によって付けられた。それ以前は「御泉水屋敷」などと呼ばれていた。
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養浩館全景、早速内部へ
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櫛形ノ御間 
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御湯殿
蒸し風呂を備えている
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鎖ノ御間
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御座ノ間
藩主の座が設けられている
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御月見ノ間
池に映る残月を眺めるための窓がある
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庭園
山田宗偏好みと伝える
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清廉
総ケヤキ造りの小亭
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内部。


1905 瑞峯院 安勝軒・平成待庵

2019-08-01 | 探訪

京都紫野
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大徳寺塔頭・瑞峯院
九州の戦国大名大友宗麟が自らの菩提寺として創建した。

今回はこちらの茶室を拝見しました。
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安勝軒
昭和3年に表千家12代惺斎の好みで建てられた。
内部は三畳台目で逆勝手席となっているが、これは大徳寺山内唯一。
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室内から躙口と連子窓方向。
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床と点前座。
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勝手三畳次の間
こちらにも炉が切られており三畳台目の席とは別に客をもてなす工夫がみられる。
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次の茶室へ
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平成待庵
平成元年に建てられた国宝「待庵」の写し。
ただし現在の姿とは異なり妙喜庵に移築以前の姿を再現している

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内部は二畳
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現在の「待庵」と最も異なるのは床の間口が広いところ
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隅炉
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天井
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通常より大きな躙口
その向こうには再現された「坪の内」がある
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「坪の内」は茶室周辺を塀などで囲った空間で、露地が発生する以前に設けられていた。
『山上宗二記』には「紹鷗四畳半」など6つの茶室の図が掲載されていて、その全てに「坪の内」が記されており、これが当時のスタンダ-ドであった様だ。