今回は三重県桑名
桑名城址
慶長6年(1601)徳川四天王のひとり本多忠勝が入城。現在は九華公園として整備されている。
天守台跡
ここには四重の天守があったそう、現在の石組は昭和53年に整備されもの。
神戸櫓跡
伊勢神戸城にあった天守を三重櫓として移築したとされる。
桑名城城壁
往時の石垣が残る場所。
本多忠勝像
蟠龍櫓
平成15年に外観復元された。
七里の渡跡
熱田・宮の渡しから桑名の渡しまで海上七里あることからこの名で呼ばれる。
東海道42番目の宿場町として繁栄し、連歌師宗長の日記にも記されている。
浄土寺
こちらには
本多忠勝墓所
天下無双と称され、「家康に過ぎたるもの」と呼ばれ戦では傷一つ負わなかったとされる勇将はここに眠る。
次も桑名から
乱世休話
FNS春の祭典2020を拝見。
「演技を見破れ!ホンモノ私物はどっち?」のコーナーで、
親友・石原さとみさんの執拗なw追及をなんとかやり過ごしたのに、
織田裕二さんの「インドのどちらで頂いた?」の問いに「ガンジス川」と答えてしまうまりかちゃん。
素敵でしたw
その後木村多江さんのシューズのにおいを嗅げとのむちゃぶりにも応えたのが無駄に・・・
さてさてまりかちゃんとフジテレビといえば
秘密倶楽部o-daiba.comを思い出します。板倉あやの役の松本まりかちゃんの他に、
栗山千明・宮崎あおい・ベッキー・須藤温子の5人でリアルシスターズを結成。
ドラマのような情報エンタメのような不思議な番組でした。
当時キャリアが最も浅かったまりかちゃんでしたが、他の4人に負けない存在感がありましたね。
あれから20年。浮き沈みがありながら5人とも現役で活動されているのは凄い事です。
今回は奈良
春日大社国宝殿
特別展「最古の日本刀の世界 安綱・古伯耆展」
期間:前期:令和元年12月28日(土)〜令和2年1月26日(日)
太刀 銘 真守造
高松松平家歴史資料。 平安時代後期、伯耆国の刀工・大原真守の作。
もとは新羅三郎源義光が後三年の役で佩刀したとされる、その後甲斐武田家に伝わり信玄・勝頼が所持した後、徳川家康、松平信吉、水戸藩初代・徳川頼房・光圀そして高松松平家に伝来した。
太刀 銘 有綱
大山祇神社蔵。平安後期~鎌倉初期、伯耆国の刀工・有綱の作とされるが、古青江との見方もある。
社伝では源義経が奉納したとされる。
太刀 銘 有綱
粟津家蔵。平安後期~鎌倉初期、伯耆国の刀工・有綱の作とされる。
木曾義仲が近江国粟津にて敗死した折、義仲の愛妾・巴御前が落ち延びるのを手助けした事から粟津家に譲られたとされる。
この他にも
薄緑丸:源義朝・義経・頼朝・曽我兄弟
童子切:源頼光・足利将軍家・豊臣秀吉・徳川家康・秀忠・越前松平家・津山松平家
鬼切丸:源満仲・頼光・新田義貞・斯波家・最上家
天光丸:源満仲・頼信・義家
と源氏ゆかりの刀剣が多かったです。
今回も京都
古田織部美術館
館蔵名品展 ~信長・秀吉、武将・公家・豪商たちが憧れたもの~
8月29日(木)~ 2020年1月14日(火)
唐物古胴梅花擂座花入
下蕪形の花入で明時代の作。首から肩にかけて六つの梅花形の擂座が施されている。
織田信雄(常真)所持で「梅 かねの花入」の箱書きも常真いよる。
唐物文琳茶入 銘 毛利文琳
丸い胴に褐色の斑が浮き上がる、土見せ部分がやや多い。
徳山藩毛利家伝来。
和漢聯句断簡
天正19年(1591)二月二十日に細川幽斎邸で催された和漢聯句の会、これはその一部。
発句は聖護院道澄で、その他に相国寺の西笑承兌・安国寺恵瓊・里村紹巴らにこの正月に上洛した直江兼続と木戸元斎が加わっている。
タイトルの通りこの美術館の織部関連以外総動員といった展示。
今回は京都
ふるさとミュージアム山城(山城郷土資料館)
光秀と幽斎-花開く武将文化-
期間:10月26日(土)~12月15日(日)
前・後期拝見しました。
大原野千句連歌懐紙 細川藤孝筆
元亀二年(1571)二月に大原野の勝持寺において催された連歌で、細川藤孝筆の百韻十帖及び追加の一帖からなる。
参加者は藤孝の他に、聖護院道澄・三条西実澄(実枝)・里村紹巴・津田宗及・辻玄裁らに追加では熊千代(後の細川忠興)や松井康之の名も見える。
詠歌之大概
藤原定家の著した歌論書「詠歌之大概」を中院通勝が写したもの。
通勝の奥書によれば、三条西実隆が天文二年に書写したものを細川幽斎が入手、これを通勝が丹後田辺において文禄年間頃に書写したもの。
武野紹鴎が茶の極意を悟ったのは、三条実隆より「詠歌大概之序」の講釈を受けていた時であり後人への影響力がうかがわれる。
藤河百首注
連歌師の宗祇が藤原定家の百首歌「藤川百首」に注釈を付けた「藤河百首注」を細川藤孝が写したもの。
藤孝の奥書によれば、牡丹花肖柏が以前に所持していたものを写したとある。
また「兵部大輔源藤孝」と署名しており、本能寺の変で隠居する以前に書写したと思われる。
竹茶杓
天橋立の近くにある智恩寺所蔵。筒には峰山藩主京極高之の花押が添えられている。
解説には細川幽斎所持とあったが、作者とみていいだろう。
やはりというべきか、光秀より細川幽斎関連の展示が多かったです。
今回は京都は栂尾
高山寺
現在は台風21号の影響で金堂・開山堂などは復旧工事中ですが・・・
台風災害復興祈念 特別公開
期間:11月1日(金)~12月1日(日)
茶室「遺香庵」が特別公開されています。
日本最古之茶園
そもそもこの地は栄西禅師から贈られた茶種を明恵上人が栽培した所。中世以来、栂尾の茶を「本茶」それ以外は「非茶」と呼ばれていました。
現在でも5月には茶摘みがおこなわれる、お茶に所縁の場所なのです。
それでは早速伺いましょう
腰掛待合「茶徳亭」
腰掛は卍型に配置しており、桂離宮の卍亭に倣ったもの。
梵鐘「茶恩鐘」
腰掛待合に吊り下げられており、遺香庵寄進者103名の名前が刻まれている。
その中には設計を担当し中心的人物であった高橋箒庵や益田鈍翁・野村徳七・根津嘉一郎ら近代数寄者が多い。
遺香庵
明恵上人七百年遠忌にあたる昭和六年に造立された。
「遺香庵」扁額は益田鈍翁筆。屋根は入母屋造銅板葺で全面に土間庇を付け下し、右には片流れの屋根を架ける千家風の屋根意匠となっている。
正面中央に躙口、右側に火灯窓をあける。
躙口の矩折に二枚障子の貴人口を設けている。
内部は四畳台目下座床。三畳台目に床前畳を付したL字型の四畳台目は織部や遠州が好んだ手法。
給仕口の火灯枠に曲木を用いるのは、水無瀬神宮の燈心亭に倣ったもの。
露地
こちらは八畳の広間
近代数寄者が造っただけあって、様々な茶室の良いとこ取りの印象。
東京
根津美術館
江戸の茶の湯 川上不白 生誕三百年
期間:11月16日(土)~12月23日(月)
上田小平次(政興)書状
(寛延)4年6月中旬付、如心斎宛。冬木屋(上田家)にあった利休遺偈を表千家に譲る返礼に「武蔵鐙の文(古田織部宛利休書状)」と「長次郎作北野黒茶碗」を頂いた事への礼状。
利休遺偈(辞世)は千家に伝承されていたが万代屋宗安の子で千道安の娘婿である万代屋宗貫が借りて返さなかったとされ、その後伊丹屋宗不が所持し所在不明になった後に冬木屋が所持していた。
川上不白は利休遺偈を千家に戻す為に幾度となく交渉、上田小平次より如心斎の元に届けられる事になった。
この功績により不白は師の如心斎より「嶋台茶碗」が贈られた。
如心斎はこの頃病の床にあったが、利休遺偈が戻った事に安心したのか8月に亡くなっている。
花白河蒔絵硯箱
室町時代の硯箱で、黒漆塗に金研出蒔絵で蓋表に桜と公達、葦手で「花」「白」「河」と表されている。
足利義政旧蔵で、後に松花堂昭乗が所持した「八幡名物」として名高い。
安永4年(1775)上洛した川上不白は男山の瀧本坊での茶会にてこの硯箱を拝見している。
絵瀬戸茶碗
半筒形の胴部に唐草紋様が描かれた茶碗。安南染付を写したものと考えられている。
松花堂昭乗が所持し、古くから「八幡名物」として知られた。益田鈍翁旧蔵。
今回は川上不白生誕300年の特別展。不白に関するあれやこれやを拝見できました。