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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

2212 無鄰菴

2023-03-29 | 探訪
京都

無鄰菴
南禅寺の近く琵琶湖疏水のほとりに営まれた明治の元勲・山縣有朋の別邸。

母屋
二階建で10畳の客座敷と8畳の座敷がある。

客座敷の床と床脇

こちらでお抹茶がいただけます。

庭園
七代目小川治兵衛により作庭された。

茶室
某茶人の所有していたものを明治28年(1895)頃に移築した。

主座敷は三畳台目で燕庵写し。

広縁
もとは利休堂があったところで、解体し比叡山を望む広縁に改造された。

水屋

主座敷の裏手には、二畳中板入の席と三畳の席がある。

洋館
山縣有朋・伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎により日露開戦への方針を決定した「無鄰菴会議」の舞台となったところ。

茶室ではイベントにて入室も可能なようなので次は参加してみたいと思います。

2212 野村美術館 利休茶の湯の継承 後期

2023-03-26 | 探訪
今回は京都

野村美術館

千利休生誕500年 利休茶の湯の継承 後期
期間:10月25日(火) ~ 12月11日(日)

色絵菊花文水指 仁清作
口縁の波打ちが特徴的な水指で、胴には水色・赤・藍で菊花が大きく掛かれている。
箱裏に仁和寺宮性承法親王の手造りであると墨書きされているが、底には「仁清」印が捺されており、現在添っている蓋を手造りしたのであろう。
金森宗和書状
十月十五日付、上林三入宛。鶴を贈られた際の礼状で、先日三入が来た際の不在を詫び、また病人を抱えているので口切も延期にしたと述べている。病人とは宗和の母(金森可重室)の事と思われる。
上林三入は宇治の茶師で金森宗和と手紙のやり取りを多く行っている。
宗和呉器茶碗
高麗茶碗の一種で見込みが深い呉器茶碗。その中でもほどよい薄紅色の「紅葉呉器」の手に属する。
蓋の真ん中が盛り上がった宗和箱に収まり、箱表の文字は宗和筆と伝わる。
共筒茶杓 金森宗和作
丸撓、櫂先やや幅広くシミがあり、節下に縞がある。筒は無字で合口に〆封が彫られている。
4代藩主・伊達綱村の時代に家臣の佐藤又三郎より献上され、綱村が茶会で使用した記録が残る。
仙台藩伊達家伝来。

他に沢庵宗彭筆一行書「流水無心」、千宗旦作茶杓「東山」、松花堂昭乗筆「柿茸図」など拝見。

2212 京都国立博物館 茶室「堪庵」

2023-03-22 | 探訪

今回も京都国立博物館

茶室「堪庵」公開中
昭和33年に美術愛好家で数寄者として知られた上田堪一郎氏より寄贈された。

母屋
屋根は桟瓦葺の入母屋造となっている。

広間は八畳の座敷

点前座

続いては

小間茶室「堪庵」

茶室の東側の小屋の様な所は内坪となっており飛び石と手水鉢を備えた土間となっている。これは大徳寺の塔頭・真珠庵にある金森宗和好の茶室「庭玉軒」を写したとされています。

内部は三畳で内坪から踏込床を経て席入りするようになっている。

床は下座床で、右側に墨跡窓をあけるが、採光の不能な勝手側にあけるのは宗和の作意とされており、ここにも庭玉軒写を感じる事が出来る。

広間を公家茶室、小間を庭玉軒から学んだ取合せで京都らしい茶室でした。

2212 京都国立博物館 「京に生きる文化 茶の湯」 後期

2023-03-19 | 探訪
京都

京都国立博物館

「京に生きる文化 茶の湯」 後期
期間:11月8日(火)~12月4日(日)


漁村夕照図 珠光筆
中国の瀟湘八景のひとつ漁村夕照を描いた作品。賛の款記に「獨盧軒 珠光」とある事から茶人珠光が描いたと考えられている。
こちらは三井記念美術館蔵だが、珠光筆の落款を伴う野村美術館蔵の山水図もあり、珠光が趣味として絵を描いていた事、また中国の絵に親しんでいた様子がうかがえる。
鉈鞘籠花入
千利休が鉈を入れる為の鞘籠を花入れに見立てたもので、背面に鐶が付けられており、掛花入にしている。
利休より薮内剣仲へ渡ったが、ある時古田織部がこの花入れを所望したが断られたため、織部が勝手に持ち帰ってしまった。剣仲が何度も返却するよう催促したので、織部は詫び状(筋痛みの文)を添えて返却した。
後に鉈鞘籠花入は他家に渡ったが、この添状は今も薮内家に残る。
古田織部書状
十二月十九日付、藪内紹智(剣仲)宛。通称「筋痛みの文」と呼ばれる書状。内容は「息子の小平次をそちらに遣ったのでいろいろご指導ください、近頃は茶の湯にご精進なさっていると思いますが、私のほうは筋を痛めた以外は特に変わりありません」と記している。
この文は鉈鞘籠花入の返却に伴う詫び状出ある筈だが、どこにもその事を書いていないし、詫びてもいない。
織部と剣仲の仲の成せる事であろう。
唐物文琳茶入 奈良文琳
やや背が高く撫で肩で胴が丸くなっている文琳形の茶入で、褐黄色の釉が掛けられ赤褐色と茶褐色の釉が斑になり、一筋釉流れがある。
松花堂昭乗が石清水八幡宮の瀧本坊に入る際に兄の中沼左京が持参させたと伝わる。
近代には益田鈍翁が所蔵し、現在は出光美術館。

茶の歴史という視点からの広く浅くの展覧会、三千家などに協力してもらっているのにもう少し利休時代などを中心にして深堀り欲しかったところです。


2211 彦根城博物館 常設展示

2023-03-15 | 探訪

今回も彦根城博物館

朱漆塗朽葉糸威縫延腰取二枚胴具足
11代・井伊直中所用

御本茶碗

多賀杓子菓子器
安政4年(1857)11月27日、井伊直弼が茶の湯の師・片桐宗猿を迎えて開いた茶会に用いた。
この菓子器は延命長寿の神として名高い多賀大社の縁起物の杓子の柄を切り取って菓子器に見立てたもので、宗観(直弼)が齢を重ねた師の為に心を尽くして選んだのであろう。

六種棗
井伊直弼が形を指定して作らせたもの。

鶴首釜 名越弥五郎昌孝作


2211 彦根城博物館 彦根藩井伊家の刀剣

2023-03-12 | 探訪

今回は彦根

彦根城博物館

彦根藩井伊家の刀剣
期間:11月10日(木)~12月6日(火)

太刀 銘 国宗 (備前二代)
天正18年(1590)の小田原北条氏攻めの一番鑓の褒賞として、井伊直政から家臣へ与えられ、のちに再び井伊家へ進上されたと伝わる。

刀 無銘 伝・長船倫光
初代・井伊直政の指料で、2代・井伊直孝、3代・井伊直澄へと伝えられた。

刀 無銘 伝・三原
『御代々指料帳』によれば井伊直孝の差料として記載されている。

短刀 銘 来源国次(名物 源来国次)
『享保名物帳』所載。小田原の北条氏綱の差料で「蜘手切り」と呼ばれていた。前田利常や備中松山藩主・水谷家に伝来した後に井伊家に伝わった。関東大震災で罹災後に再刃された。

刀 無銘 伝左(名物 織田左文字)
『享保名物帳』所載。もと織田信長所持で二男の信雄に譲られた。井伊家12代・直亮の差料であったが、関東大震災で罹災後に再刃された。

刀 銘 奥州国分若林住山城大掾藤原国包
伊達政宗のお抱え刀工・国包の作で、伊達政宗が若林城に居住していた時代に作られたと考えられます。

脇指 銘 (表)兵部小輔源朝臣政則作 為長船左京進藤原宗光也 (裏)文明十四年壬寅八月三日
室町時代、守護大名・赤松政則が備前長船の刀工・宗光のために制作した刀。

太刀 銘 宗近
太刀 銘 備前国新田庄親□□(依造か)

ともに関東大震災罹災品、倒壊した家屋の重みで大きく変形している。
罹災した刀剣には、安綱・正宗・吉光など一級品の作品が多く含まれていた。

関東大震災での罹災品の展示は水戸の徳川ミュージアムなどでも行われていますが、刀剣が美術品と考えられていた昔なら考えられない事で、現在は震災の記録としてその存在がクローズアップされている感じでしょうか。

2211 市立伊丹ミュージアム 旧石橋家住宅

2023-03-08 | 探訪
今回も市立伊丹ミュージアムから

旧石橋家住宅

江戸時代後期に建てられた町家で、17世紀後期に初代弥兵衛が八百屋を開業したのが始まり。明治以降は紙・金物等の小売業と酒造業を兼業し、その後、日用品の雑貨商を営んだ。

1階座敷
十畳


左手に付書院、右手には床脇があり違棚と天袋があります。

二階へ

二階座敷
十畳

茶室
三畳半

床は板床となっています。

町家の二階にある茶室という事で、様々な制約がありながら工夫を凝らした造りとなっています。
市立伊丹ミュージアムにはこの他にも旧岡田家住宅や日本庭園もありますので是非見学を。

2211 市立伊丹ミュージアム 信長と戦った武将、荒木村重展

2023-03-05 | 探訪
兵庫県は伊丹

市立伊丹ミュージアム

リニューアル・オープン記念 信長と戦った武将、荒木村重展
期間:11月19日(土)〜12月25日(日)

伝・高山右近所用 チョッキ
全面金色で桐紋が刺繍されたチョッキ。金ボタンには「EUREYA」の文字と聖ヤコブが表されている。
スペインのバテレンが高山右近に贈ったと伝わる。
伝・顕如上人使用 軍扇
天満定専坊所蔵。金地に龍と虎が対峙する図柄を描いた軍扇。
石山合戦で本願寺11世・顕如上人が使用したと伝わる。
定専坊は本願寺の有力寺院であった為、石山合戦では多くの軍勢を率いて戦ったと伝わる。
宗祇肖像画 祖白賛
連歌師・宗祇の肖像は大きく3パターンに分かれるが、これはその内の脇息にもたれ掛かり右手に団扇を持つ宗祇像。
更に特徴的なのが立派な髭を生やしているところで、江戸時代の宗祇のイメージのひとつとされる。
宗祇はこの立派な髭に香を焚きこめており、いつでも香を楽しんだとされる。宗祇は香道の祖とされる三条西実隆や志野宗信と交流があり自らも香を嗜んだ。
肖柏肖像画 牲川充信筆
江戸中期、大坂の絵師であった牲川充信が描いた水墨画の牡丹花肖柏像。
江戸時代のイメージである牛に乗った連歌師・肖柏の姿で、この画では白黒で分かり難いが牛の角は金箔付きで、洛中・洛外をこの牛に乗って往来したとされる。
新撰筑波集 月
奥書によると永禄2年(1559)十月、 聖護院門跡の所持している「新撰筑波集」を細川藤孝が写したもので、これはその写本。
「新撰筑波集」は山口の守護大名・大内政弘の発起により、宗祇・三条西実隆らが中心となって編纂した準勅撰連歌撰集。細川藤孝は和歌・連歌に造詣が深く、様々な作品を書写し現在に残している。
誓願寺奉加帳
天正2(1574)年、誓願寺の本堂再建の為に寄進を行った人物の名を記した帳面。その中心は荒木村重で名と花押が記されており、他にも羽柴筑前すなわち秀吉の名も見られる。
この年村重は織田信長の家臣として伊丹城を攻略し、摂津一国をほぼ手中にしている。信長より離反の4年前の事であった。

この他中川清秀肖像画、千利休書状、古田織部書状、高山右近作茶杓「御坊へ」など拝見しました。
まだオープンして間もない為でしょうか、展示品の解説はもう少しがんばって欲しいところ、また写真のみの参考作品に関して図録で陳列作品と通しで番号を振っているが、別々にすべきと思います(参考1、参考2等)。

2211 相楽園 船屋形 特別公開

2023-03-01 | 探訪
神戸

相楽園
元神戸市長 小寺謙吉の先代小寺泰次郎の本邸に営まれた庭園で、昭和16年以降神戸市の所有となり、中国の古書『易経』の一節にある「和悦相楽」からとって「相楽園」と名付けられた。

庭園
神戸市の都市公園で唯一の日本庭園。

旧小寺家厩舎
小寺謙吉が明治43年頃に建築した厩舎で、園内にのこる創建当初の数少ない遺構のひとつ。

旧ハッサム住宅
英国人貿易商のハッサムが、明治35年頃異人館街(北野町)に建てた和洋折衷建築物で、昭和38年に移築された。
こちら特別公開中なので早速中へ。

2階南西の部屋

1階にあった椅子。デザインが斬新です。

さて本題

「船屋形 特別公開」
船屋形は江戸時代に大名が参勤交代や遊覧に使用した御座船の居室にあたる屋形部分の事。

相楽園にある船屋形は姫路藩主が河川での遊覧に使っていた『川御座船』で川御座船としては唯一現存する遺構(海御座船は熊本藩と多度津藩のものが残っている)。

一階上段下の間は茶室となっています。これは明治時代になって高砂市の某氏が移築後に茶室として使用した名残。

二階上段の間は藩主用。

二階床几の間は船の指揮者が座る。

現在の錺金具は榊原家の家紋が使われているが、その痕跡から本多忠国が姫路藩主であった天和2年(1682)~宝永元年(1704)の間に建設されたと考えられています。

大名に関係する建築物として城郭は良く行くのですが、こういった船屋形は中々目にする事がない為、貴重なものを拝見できました。