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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

2111 大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)大工頭中井家伝来

2022-03-30 | 探訪
大阪

大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)

大工頭中井家伝来 茶室起こし絵図展
期間:2021年11月19日(金)〜2022年1月16日(日)

中井正清肖像
黒の束帯姿の肖像画。中井正清は永禄八年(1565)大和国法隆寺西里村出身で、父・正吉は法隆寺の番匠大工であった。
関ケ原の戦後は徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長十年代には江戸城、駿河城、名古屋城や知恩院、増上寺、仁和寺などの寺院の作事にも及んだ。
德川家康からは「何事も御普請方之儀、大和次第」と当時大和守を名乗っていた正清を評価している。慶長17年(1612)には従四位下に叙任されている。
朝倉義景、織田信長、後には松平不昧も所持した「本能寺文琳」茶入は、大坂城落城後に掘り出され德川家康より中井正清が拝領している。
古田織部書状
慶長九年(1604)閏八月廿一付、中井籐右衛門(正清)宛。伏見城小座敷の作事が中井正清に命じられたことで、小堀作介(遠州)と自分(織部)に相談のうえ、壁土の水分が凍らない冬までに完成するよう出精願いたいと連絡している。
『中興名物記』に載る「芋頭水指」は織部より中井正清が拝領しており2人の親交をうかがわせる。
小堀遠州書状
慶長九年(1604)閏八月廿一付、中井籐右衛門(正清)宛。上記織部の手紙に関連して、小座敷の完成時期を問い合わせており、織部と相談して急ぎ立柱するように、御奉行の鈴木五左衛門尉にも念を入れるようにとの織部の伝言を記す。
既に「天下一の宗匠」と呼ばれていた織部が遠州や中井正清に指示する立場であった事が分かる内容。

展示のメインは茶室の起こし絵図で、有名処の茶室はほぼ網羅されていました。

松花堂美術館 やわたで愛された地域のたからもの

2022-03-27 | 探訪
京都は八幡

松花堂美術館

やわたで愛された地域のたからもの ~つながる文化財~
期間:10月23日(土)~12月5日(日)

前・後期拝見しました。

大願文・小願文 藤原定家筆
嘉禄元年(1225)9月、石清水八幡宮の第34代別当・田中宗清の懇願により認めた願文。
後に松花堂昭乗が所持し茶席を飾った「八幡名物」。
「大願文」の箱書きは小堀遠州、「小願文」の箱書きは松花堂昭乗と伝わる。
西行・定家・家隆像 松花堂昭乗作 沢庵宗彭・小堀遠州賛
松花堂昭乗が西行・藤原定家・藤原家隆の三人を描き、上部の賛はそれぞれ西行を遠州、藤原定家を沢庵、藤原家隆を昭乗が記す。
瀧本坊伝来。
黄天目茶碗
元代建窯で生産された茶碗でほのかに黄身が生じる。口縁に銀覆輪が付く。天目台「松風」が附属する。
箱に金泥で「黄天目」とあり前田利常筆とされる。加賀藩前田家伝来。
竹茶杓 千利休作
蟻腰、折撓の茶杓。筒に「利休作 咄斎」とあり千宗旦筆とされる。
裏千家八代・一燈宗室が替筒に「利休茶杓 宗旦筒」と極書している。

他にも昭乗作、烏丸光広賛の「鶏図」、昭乗作の「兼好像」、徳川光圀書状など拝見。

2111 柳瀬荘② 久木庵

2022-03-23 | 探訪
今回も柳瀬荘

久木庵
元は江戸中期の武士で茶人でもあった土岐(土肥とも)二三の茶室で、千宗旦好と伝える。
近代の実業家・山本条太郎が解体所有していたものを、その死後に松永耳庵が譲り受け昭和13年から翌年にかけて移築した。
茶室の名「久木庵」は山本条太郎の「条」より名付けられた。

躙口
刀掛けは見られない。

黄林閣より続く露地の飛石は加賀藩家老横山家にあったものを移したといわれる。

内部は二畳台目

床の間

天井は竿縁天井、掛込天井、点前座は落天井となっている。

点前座
桜の中柱が印象的

棚は雲雀棚で織部好

現在は東京国立博物館庭園にある茶室「春草廬」も元はこの場所にあり、他に燕庵写しの茶室「耳庵」など近代茶人・松永耳庵の茶の湯世界があった場所。その一部を垣間見えた気がします。



2111 柳瀬荘① 黄林閣・斜月亭

2022-03-20 | 探訪
埼玉は所沢

柳瀬荘
実業家で近代茶人でもあった松永安左エ門(耳庵)の元別荘、昭和23年(1948)、東京国立博物館に寄贈された。

松永安左エ門(耳庵)については、以前こちらの特別展で茶道具を見たばかり。
今回は所縁の茶室や建物です。

長屋門

黄林閣

昭和5年(1930)頃に耳庵が柳瀬荘の主屋として移築したもので、元は東久留米の大庄屋の民家で天保15年(1844)の建築と伝わる。

土間の竈
元民家の面影を残す。

上ノ間
十畳敷で床、違棚、付書院が設けられた書院風の座敷。

奥ノ間
六畳半。耳庵が茶の湯にかかわり始めた頃の茶室。

天井には煤竹を詰め張りしている。

黄林閣と斜月亭を繋ぐ渡り廊下。

斜月亭
近衛文麿の命名。昭和14年(1939)に耳庵が建てた。

上ノ間
八畳の数寄屋風の書院座敷。東大寺や當麻寺の古材を用いている。

琳派風の襖絵。

次回も柳瀬荘から。

2111 東京国立博物館 六窓庵

2022-03-16 | 探訪
今回も東博

庭園に向かいます

久々に来ましたが、人は疎らでした。

今回は茶室「六窓庵」を紹介します。
「六窓庵」は慶安年間に奈良興福寺の塔頭・慈眼院に金森宗和好で建てられたと伝わる茶室。
大乗院と四聖坊にあった茶室・八窓庵とともに大和三名席に数えられていました。

中潜りと腰掛待合

手水鉢
もと京都法性寺にあった石造宝塔を転用したもので、相阿弥が足利義政の東求堂の前に据えたと伝わる。

茶室「六窓庵」

躙口

内部は三畳台目

手前座
茶道口と給仕口が矩折に配置されている。

金森宗和好と伝わりますが、手法としては織部や遠州の好みも取り入れられているようです。

2111 東京国立博物館 11月のトーハク

2022-03-12 | 探訪
上野

東京国立博物館

印可状(流れ圜悟)
国宝。薩摩坊ノ津海岸に漂着したという言い伝えから、『流れ圜悟』と呼ばれる。
大徳寺塔頭・大仙院、堺の豪商で茶人谷宗卓が所持し、その後伊達政宗の所望によって春屋宗園と古田織部が相談のうえ前後二つに切断した内の前半部にあたる。やがて祥雲寺に移り、その後、茶人として知られる松江藩主・松平不昧が所持した。

刀 相州正宗(名物 石田正宗)
石田三成の愛刀でその後に結城秀康、津山藩松平家伝来

秋萩帖 伝・小野道風筆
国宝

杜甫騎驢図賛 一休宗純筆

信楽袋形水指
原三渓旧蔵

竹茶杓 銘 稲羽州サマ 片桐石州作
松平不昧所持、松永耳庵旧蔵。

2111 刀剣博物館 日本刀 珠玉の名品展 第2期

2022-03-09 | 探訪
両国

刀剣博物館

特別重要刀剣等指定制度五十周年記念-日本刀 珠玉の名品展-
期間:10月26日(火)~11月21日(日)

打刀 銘 吉光
尾張徳川家家老・犬山城主成瀬家伝来

脇指(朱銘)行光(名物 大島行光)[本][阿](花押)(光室)
伝来は豊臣秀吉家臣・大島光政、徳川幕府旗本・加々爪甲斐守直、会津藩主・加藤明成、以降澄近江国水口藩主加藤家伝来。

刀 無銘 正宗(名物 大垣正宗)
米沢藩上杉家伝来

太刀 銘 包平 
日向国飫肥藩伊東家伝来

刀 無銘 伝・左文字
寛永五年(1628)八月九日、三代将軍・徳川家光が尾張藩主・徳川義直邸に御成の際に家光より義直が拝領した。以降尾張藩徳川家伝来。

2111 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム 鶴岡八幡宮の名刀

2022-03-06 | 探訪

鎌倉文華館

特別展「鶴岡八幡宮の名刀 -歴史に宿る武士の信仰―」
期間:9月1日(水)〜12月5日(日)

沃懸地杏葉螺鈿太刀 甲、乙
国宝。一般に「衛府の太刀」として知られる二口の太刀拵。刀身は無銘である。
『集古十種』『新編相模国風土記稿』によれば源頼朝所用と伝う。
北条氏綱奉納太刀 3口(銘相州住綱広・綱家・康國作)
銘は表に「奉納八幡宮御宝殿北條左京太夫平氏綱」、裏に「天文七戊戌年八月二日所願成就皆令満足(以降作者名)」とある。拵は黒地金蒔絵桐鳳凰紋様の太刀拵
北条氏綱が三人の刀工(綱広、綱家、康国)に命じて打たせた太刀に拵を付けて天文七年(1538)鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納した。そのうち綱広はもと正広と名乗っていたが、この太刀献上の恩賞により北条氏綱より「綱」の字を授けられ改名している。
大太刀 銘 鎌倉鶴岡八幡宮寄進者也 本多弥八郎正信 天正廿年壬辰八月十五日敬白 大納言家康卿武運長久殊者 今度唐入早速御開陣 丹誠旨趣仍如件
刃長134.4cmの大太刀で天正20年(1592)徳川家康の家臣・本多正信が鶴岡八幡宮に奉納した。
この年、朝鮮出兵が始まっており本多正信の主君・徳川家康も肥前名護屋に在陣している事から納められたのであろう。
朱漆弓
国宝。約2mの弓で全体に朱漆が塗られている。
『新編相模国風土記稿』によれば、源頼義が当社(鶴岡八幡宮)勧請の時、石清水八幡宮の神宝を申し下して奉納したとある。
紺糸威四所栓挿胴丸鎧
盛上本小札の紺糸威の胴丸で、随所に太田桔梗金物が付く。
太田道灌が鶴岡八幡宮に奉納したとされるが、時代は下る。太田家が道灌名義で後年奉納したものか?

他に歴代徳川将軍(吉宗・家重・家治・家斉)奉納の太刀や明治天皇寄進の太刀など拝見しました。

2111 鶴岡八幡宮

2022-03-02 | 探訪
今回は鎌倉

鶴岡八幡宮

康平六年(1063)、源頼義が信仰していた石清水八幡宮を鶴岡若宮として勧請したのが始まり。
その後、源氏を復興した源頼朝が鎌倉幕府の宗社として整備を進めた。

舞殿
静御前が源義経を慕い舞った若宮廻廊跡に建つ。

建保七年(1219)1月27日、源頼家の子・公暁が階段脇に生えていた大銀杏の木に隠れて待ち伏せ、三代将軍・源実朝を殺害。公暁自身も直後に討ち取られた。
これにより源氏直系の血統は断絶した。

その大銀杏は2010年に強風により倒れた。
根元の部分は移植され、元の根の部分から新芽が生え育っています。

楼門
八幡宮の額は、寛永六年(1629)曼殊院入道二品親王良恕の書。

本宮
文政11年(1828)に徳川家斉が再建した。

鶴岡八幡宮は源氏のみならず広く武家の信仰を受けたところとして知られています。
次回も鶴岡八幡宮から