大阪

大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)

大工頭中井家伝来 茶室起こし絵図展
期間:2021年11月19日(金)〜2022年1月16日(日)

中井正清肖像
黒の束帯姿の肖像画。中井正清は永禄八年(1565)大和国法隆寺西里村出身で、父・正吉は法隆寺の番匠大工であった。
関ケ原の戦後は徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長十年代には江戸城、駿河城、名古屋城や知恩院、増上寺、仁和寺などの寺院の作事にも及んだ。
德川家康からは「何事も御普請方之儀、大和次第」と当時大和守を名乗っていた正清を評価している。慶長17年(1612)には従四位下に叙任されている。
朝倉義景、織田信長、後には松平不昧も所持した「本能寺文琳」茶入は、大坂城落城後に掘り出され德川家康より中井正清が拝領している。
古田織部書状
慶長九年(1604)閏八月廿一付、中井籐右衛門(正清)宛。伏見城小座敷の作事が中井正清に命じられたことで、小堀作介(遠州)と自分(織部)に相談のうえ、壁土の水分が凍らない冬までに完成するよう出精願いたいと連絡している。
『中興名物記』に載る「芋頭水指」は織部より中井正清が拝領しており2人の親交をうかがわせる。
小堀遠州書状
慶長九年(1604)閏八月廿一付、中井籐右衛門(正清)宛。上記織部の手紙に関連して、小座敷の完成時期を問い合わせており、織部と相談して急ぎ立柱するように、御奉行の鈴木五左衛門尉にも念を入れるようにとの織部の伝言を記す。
既に「天下一の宗匠」と呼ばれていた織部が遠州や中井正清に指示する立場であった事が分かる内容。
展示のメインは茶室の起こし絵図で、有名処の茶室はほぼ網羅されていました。

大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)

大工頭中井家伝来 茶室起こし絵図展
期間:2021年11月19日(金)〜2022年1月16日(日)

中井正清肖像
黒の束帯姿の肖像画。中井正清は永禄八年(1565)大和国法隆寺西里村出身で、父・正吉は法隆寺の番匠大工であった。
関ケ原の戦後は徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長十年代には江戸城、駿河城、名古屋城や知恩院、増上寺、仁和寺などの寺院の作事にも及んだ。
德川家康からは「何事も御普請方之儀、大和次第」と当時大和守を名乗っていた正清を評価している。慶長17年(1612)には従四位下に叙任されている。
朝倉義景、織田信長、後には松平不昧も所持した「本能寺文琳」茶入は、大坂城落城後に掘り出され德川家康より中井正清が拝領している。
古田織部書状
慶長九年(1604)閏八月廿一付、中井籐右衛門(正清)宛。伏見城小座敷の作事が中井正清に命じられたことで、小堀作介(遠州)と自分(織部)に相談のうえ、壁土の水分が凍らない冬までに完成するよう出精願いたいと連絡している。
『中興名物記』に載る「芋頭水指」は織部より中井正清が拝領しており2人の親交をうかがわせる。
小堀遠州書状
慶長九年(1604)閏八月廿一付、中井籐右衛門(正清)宛。上記織部の手紙に関連して、小座敷の完成時期を問い合わせており、織部と相談して急ぎ立柱するように、御奉行の鈴木五左衛門尉にも念を入れるようにとの織部の伝言を記す。
既に「天下一の宗匠」と呼ばれていた織部が遠州や中井正清に指示する立場であった事が分かる内容。
展示のメインは茶室の起こし絵図で、有名処の茶室はほぼ網羅されていました。