SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

真田行4 松代編

大坂夏の陣から7年が経ち、妻・小松姫の死はあったものの上田の真田信之にも平穏な日々が訪れていた1622年、突如として幕府から松代への移封が言い渡された。石高は加増されるものの上田のある小県は真田氏墳墓の地であり、一度は失ったこの地を祖父幸隆が取り戻し父昌幸が守り通し信之が引き継いで今日まで来た。信之は苦しい胸の内を隠し、静かに松代へと向った。

今回私にとって初の長野旅行。初日は上諏訪(高島城)-松本(城)を観。宿泊地の長野市へ移動しました。(高島城・松本城は昨年11月の記事参照ください)

次の日バスにて松代へ移動。長野電鉄松代駅前で下車。駅の裏側に最初の目的地が見えます。

P1000586a.jpg
「松代城」
松代城の名より海津城として有名なこの城は武田信玄の命により築城された。一説には山本勘助が縄張りをおこなったと云われています。

P1000598a.jpg
「真田宝物館」
松代真田藩に伝わってきた大名道具・資料等が展示されています。出来れば信之の甲冑(萌黄糸威具足)が見たかったなぁ。

P1000602a.jpg
「真田邸」
改修工事中。残念。他にも矢沢家表門も工事中でした。

P1000614a.jpg
「長国寺」
真田家の菩提寺。歴代藩主の墓所があります。

拝観料を支払いお寺の方に案内してもらいました。

P1000618a.jpg
「真田信之霊屋」
重要文化財に指定されいる。壁間絵画等を狩野探幽が、破風の鶴の彫刻を名工左甚五郎が作ったとのこと。

次は歴代藩主の墓所へ。

P1000624a.jpg
「信之の墓」
何故か鳥居がついてます。

P1000628a.jpg
「幸村・大助の供養塔」

P1000629a.jpg
「幸隆・信綱・昌幸の供養塔」

P1000632a.jpg
対面する信之の墓と幸村供養塔。

次の場所に移動します。

P1000641a.jpg
「大英寺」
小松姫の菩提寺。現在本堂となっている場所が霊屋だったとのこと。

松代の町にはいたる処に地図が掲示されており移動はスムーズに行えました。
駅前からバスに乗り次の場所へ

P1000653a.jpg
「典厩寺」
典厩寺は武田信繁の墓があり、元は別の名前であったのを信之が典厩(信繁の通名)寺と改めた。幸村の実名信繁は彼の武勇にあやかって昌幸が名づけたもの。信之は武田信繁の名を借り表向き弔う事が出来なかった弟の供養をしようとしたのかもしれません。

P1000670a.jpg
八幡原史跡公園(川中島古戦場跡)
第四回川中島の戦いで幸隆は妻女山攻撃部隊として参加。上杉謙信は既に移動し武田本陣を脅かしていたが、急ぎ戻った幸隆らの活躍で上杉軍を追い払うことに成功。なお昌幸も信玄の近習として参戦していたとも云われています。

この後、長野市立博物館を見学します。長篠合戦図屏風が展示されており、信綱、昌輝討死の様子が描かれています。

次は山本勘助の墓へ移動。公園の対岸にあります。
勘助は幸隆を武田信玄に推挙した人物とも云われています。
近くにある(筈の)次の場所へ。しかし私かなり迷ってしまいました。それが悲劇を招きます。

P1000685a.jpg
「大鋒寺」
元は信之の隠居所だった地に死後寺が建立された。

P1000689a.jpg
「真田信之霊屋」
長国寺のものと違いかなり質素なつくり。長国寺霊屋が4代将軍時代まで行き続けた戦国の生き証人という輝かしい陽の信之なら、大鋒寺霊屋は数々の困難を乗り越えてきた忍耐の人、陰の信之な気がします。

さてここから長野電鉄金井山駅へ移動。電車に乗り屋代駅へ。しなの鉄道に乗り換えます。
しかし私、後から気がついたのですが大鋒寺で信之の墓と家臣鈴木右近の墓を見忘れていました。時間が無く焦ってたのと歩き疲れてたんでしょうが間抜けです。

さて、しなの鉄道に乗りいよいよ上田に向います。なんだか緊張してきました。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

最近の「真田一族」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事