SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

真田行5 上田編

上田城。この城で真田昌幸は二度にわたり徳川の大軍を迎え撃った。一度目は1585年、二度目は1600年に。そして昌幸は二度とも徳川勢を退ける事に成功する。しかしそんな輝かしい戦歴を誇る城から昌幸は退去する事となった。関ヶ原で西軍が負けた為に昌幸も高野山への配流と決まったからだ。戦に勝ちながら城を失う、昌幸は無念の思いで上田城を去った。

屋代からしなの鉄道で移動。次の目的地へ向います。
上田駅に到着。しました。してしまいました。
上田に着いたら真っ先に行こうと決めていたところがあり、それは駅前にあります。

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「真田幸村公騎馬像」
三光神社の銅像より若い感じがします。と思ったら初陣の騎馬像だとの事。向こうは大坂の陣の頃でしょうから。

さて次は上田城へ坂道を登って向います。断崖の上に築かれた堅城だった事を窺わせます。
まずは上田市立博物館へ。
やはり真田氏関連の展示が多いです。昌幸の甲冑や六連戦の旗指物、上田城から出土した金箔瓦もありました。他には真田以降に上田へ入った、仙石・松平両家の武具・資料もありました。

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「上田城」
櫓門(復元)と現存する北櫓・南櫓。現在残る櫓は昌幸時代のものでは無く仙石氏が築いたものだそう。昌幸時代の上田城は徳川の手によって破壊されている。

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「真田石」
櫓門右手にある大石。築城のおり昌幸が太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」と名付けこの場所に据えたそうで、後に信之が松代移封の際、この石を持っていこうとしたが重くて動かなかったそう。

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「真田神社」

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「真田井戸」
抜け穴だそうです。猿飛佐助が利用したとの伝説も。

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「西櫓」
残る三つの櫓の中で最古のものだそう。

さて、上田城から次の場所へ移動。結構手探りで歩きましたがなんとか到着しました。

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「芳泉寺」
小松姫のお墓があります。仙石氏の菩提寺でもあります。


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「小松姫の墓」
小松姫は徳川四天王のひとり本多忠勝の娘。徳川家康(または秀忠)の養女となり信之に嫁ぎます。彼女関係でもっとも有名な逸話は、関ヶ原の戦いで敵となった昌幸・幸村を沼田城に入れなかった際の話があります。しかしながら関ヶ原の敗戦で死罪となるところだった昌幸の助命嘆願を信幸と共に実父忠勝が行った陰には彼女の力が働いていたことは間違いないところでしょう。また小松姫の死んだ後になって真田家が松代に移封となった事も、彼女の存在がそれを許さないくらいに大きかったとも思えます。

町の中心部に戻ります。

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「刀屋」
真田太平記の著者であり、食通で知られる池波正太郎が贔屓の店。もりそばを注文した。この店では小、中、普、大の4種類の量があり普でもかなりの大盛りなのを事前に知っていた私は迷わず中を注文。しかし知らなかったのであろうお年寄りが出てきた普通盛りを見て驚いておられた。

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「池波正太郎真田太平記館」
池波正太郎は真田関連の作品を多く手掛け取材の為、しばしば上田を訪れたそうです。
池波正太郎やその作品、特に真田太平記を中心紹介されています。

朝から(松代)晩まで(上田)歩きまくってかなり疲れました。
本日はここで終了。

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