今回から4月編
まぁ、焦らずぼちぼちといきましょうかね

東本願寺

真宗本廟阿弥陀堂 特設会場
「教如上人」展
期間:4月1日(月)~4月7日(日)
「教如上人四百回忌法要を記念して、東本願寺(真宗本廟)では史上初となる「教如上人展」を開催いたします。全国各地の上人ゆかりの品々、約80点を展示し、上人の生涯と東本願寺創立の歴史に触れていただきます。」(公式より)
教如上人寿像
朱色の袈裟、左手に数珠・右手に扇を持った姿が描かれている。
教如は石山合戦で織田信長と争った顕如の長男。教如の青年時代はこの石山合戦に明け暮れている。
石山合戦絵伝
二幅からなる絵伝。織田信長の姿や織田・毛利の水軍が戦った木津川口海戦の様子が描かれている。
顕如上人甲冑像
鎧姿の顕如像で、まるで戦国武将の姿のよう。下段には石山合戦に参加した門徒等の名前が書かれている。その中には鈴木(雑賀)孫市の名前もある。
天正八年庚辰八月二日新門跡大坂退散之次第
織田信長・豊臣秀吉に仕えた太田牛一による石山合戦から秀吉による紀州攻めを書いた軍記。
信長との講和により顕如が紀州に退去した後も、教如は石山本願寺に残り抗戦したが1580年8月2日に石山本願寺を退いた。
利休百会記 写
1590年から91年にかけて約百会にわたる利休の茶会記。その信憑性には疑問も持たれているが利休最晩年の茶会の様子を窺い知れる史料とされている。
教如も利休の茶会に参加しており、天下人秀吉と同席した事が記されている。
当時の教如は大坂の天満本願寺に居り、豊臣政権との関係も比較的良好であったようだ。
しかし父・顕如が亡くなり本願寺を継承した翌年1593年秀吉より弟の准如に本願寺を譲る事を命じられ退隠を余儀なくされた。1598年秀吉が亡くなると教如は次第に徳川家康に接近する事となる。
須弥壇引戸(教如上人辞世歌)
1600年石田三成挙兵を知らせる為に教如は関東へ向かい小山に居た家康に謁見する。その帰途美濃墨俣付近で三成方に襲撃された教如は光顕寺に潜伏。この須弥壇引戸はその際死を覚悟した教如が紙も筆も無い中、短刀で引戸に辞世を刻んだものと伝わる。
伝教如上人所用蓑
美濃で三成方の襲撃を受けた教如は伊吹山方面から北近江に抜け湖をを舟で渡り京都に戻った。この脱出行には北近江の坊主・門徒が関わっておりこの蓑もその時に使用したものであろうか。
1602年徳川家康より京都に寺領を与えられ東本願寺が創立。
1614年10月5日示寂。その頃織田信長と戦った石山本願寺の地は再び戦が始まろうとしていました。
教如上人は父親の顕如ほど有名ではありませんが、こうして見ていくと中々波乱万丈の人生をおくっていたようで信長・秀吉・家康の天下人に翻弄されたひとりだったのが分かります。