おぼえがき。

日々思ったり感じたりしたことを失念しないためのもの。

人の中に

2005-07-16 23:58:21 | Weblog
行く。雑踏を歩き、信号を待って横断歩道を渡る。
店に入る。物を買う。別の店に入って注文をし、
席を探す。自分だけのスペースを確保しているはず
なのに、落ち着かない。誰がどうということはない。
どこにでも見られるごく普通の光景の中に、自分も
ごく普通に身を置いているだけのはず。
店を出る。ライブに行く。見知った顔。久々の顔。
みんなにあいさつをする。話しかけ、質問をし、
ライブが始まると演奏に耳を傾ける。リズムをとる。
体が揺れる。かけ声や歌声に思わず笑みがこぼれる。
今までも経験しているはずの楽しい空間に、ごく
普通に身を置いているだけのはず。

そう思いながら、気づくとまどろんでいる。
輪郭は溶け出し、ここでの形ではない。黒いもやが
隙間からもれ出ている。ゆったりくつろいで座って
いる姿。どうして右目が黄金色なんだろう。

こんな風に、こんな風に。
絶望は通過して、今は自己認知に心を砕く。
いちまいいちまいをていねいに慈しめるように。

書いててわからなくなった。

2005-07-16 14:42:11 | Weblog
かつてつき合っていた人と別れた話を知人にした時。
あんなにも好きだったのに別れを決めたのは、あなたが
彼を飽きたからだと言われたことがあった。
飽きたって何。一体あなたは私と彼の何を知っている?
正直、むっとした。

でも。
「飽きたんでしょ?彼のことを」と言った彼女の言葉は
どこかあたっていたのかも知れない。だからむっとした
のかも知れないと、その時実は感じていた。

飽きるということが、停滞することと同じなのならば。

安定していたわけではない。常に何かあった。だから
気持ちが飽きるということはなかった。そう信じたい。
でも。
物理的な状況が停滞していた。常に閉塞感。突破できる
のがいつなのか、ふたりとも予測できなかった。

物理的な状況が気持ちの負けを呼んだ。
停滞し打破できないことへの焦燥感が、別の問題を抱えて
弱った心に追い打ちをかけた。

それは本当。
でも本当は本当はどうだったんだろう。

本当は。

大事なものは

2005-07-16 13:43:02 | Weblog
大事だからこそこわれやすい、失いやすいらしい。
大事だからこそ、意識して大事にしなければならないのだと。
それでも大事にしすぎて力を入れてしまって、ひびが入ったり
傷がついたりする。子どもの頃から、新しく買ってもらった
大事なものは、必ず最初にどこか傷をつけていた。
その困ったクセは大人になった今でもしっかり続いていて、
最近では傷がつくことを悲しむのではなく、その傷も含めて
自分にとっては大事と思うようになった。ヘリクツを言える
ようになったのは大人の証拠なのかも知れないけど、それは
それで本心だ。

大事にすることと手放せずにずっと持っていることは違う。
大事でも使わなかったら意味もない。
そんな風にして、私の部屋はものでふくれあがる。

人の場合はどうなんだろう。ものの場合ととてもよく似ている。
大事にしないとこわれるところも、一度傷ついてもまるごと
抱えて大事にするところも、とても似ているような気がする。
でも「新品同様だから、いつか使うこともあるかも知れない」
と、手放せずに持っていてお蔵入りしている人っていうのは
いない。人はナマモノだから。ナマモノは新陳代謝があるから
使い使われ、交流があってなんぼのもんなのだと思う。

つまり何が言いたいかっていうと、あなたがとても大事だよ
ってことです。何もこわさず、ずっと手放さず、大事に大事に
抱きしめて、絶対にお蔵入りにもしなければ処分もしない。
それだけ。