おぼえがき。

日々思ったり感じたりしたことを失念しないためのもの。

その後

2005-09-30 22:55:41 | Weblog
あの子は夜になるにつれて、おでかけしたいと
言い続けた。どこも痛くない、おでかけしたい、
大丈夫だからおでかけしたいと、何度も何度も
言い続けて、私は根負けした。
私はあの子の異変が心配で、多分病気じゃないと
思ってはいたけど、一般的な物差しではかったら
私の予測は間違っていることに気づいた。もしか
すると、ケガをしているのかも知れないと急に
不安になった。
でも、あの子があれだけ言い続けるということは
本当におでかけしたい理由があるに違いないと
思って、無理しないことをよくよく言い聞かせて
許してあげた。
大丈夫かな。
あの子が戻ってくると、いつも変化がある。そして
それは間違いなく私に影響を及ぼす。
変化も影響も大歓迎。でも無理だけはダメだよ。
しんどかったら、すぐに帰っておいで。

ひっくり返る

2005-09-30 19:18:32 | Weblog
子どもが大きくなると、親が子どもにたしなめられたり
意見されたりすることがあるように、本当はあの子の方が
本来の姿なのに、今は私の方がたしなめる側に回っている。
あの子は空を飛びたがっている。でも今日はおやすみだよと
言い聞かせている。初めてのことが起こったんだから、体が
びっくりするかも知れないんだよ、だから今日は静かに
お休みしていようね、と言い聞かせる。
たどたどしいアドバイスをいつもくれているあの子に、
こんなことが起こって自分がたしなめる側になるとは
思わなかった。
空を飛びたいと言っているのに、かわいそうなことをして
いるかも知れない。でも初めてのことは心配なのだ。
なんだか母親になったような気分だ。

かつてのめまい

2005-09-30 15:17:54 | Weblog
その後、数回に分けて小さいのがあった。
すぐにおさまり、何もない。
今、久しぶりに視界が左右に振動した。
眼球が小刻みに揺れる感覚。めまいとは少し違うか。
視界が支配されるものをすべて一括りにしてしまって
いたけど、厳密には違うものかも知れない。

ねむい。
そういう時期。
あの子にも今日はおやすみするように言って、時々
様子を見に行っている。背中とおなかをさすってやる。
顔をなでてやる。あの子は丸くなっておとなしくしている。

変化や動きの象徴か。この視界の支配は。

鈍痛

2005-09-29 17:47:09 | Weblog
鈍痛で占められて、あの子の名前を呼べなかった。
呼ぶことを考える前に気配を察しようとしたが、
集中できなかった。
突然名前を呼ばれ、あの子は痛みもなく元気でいる
ことが分かる。連動してなくてよかったとほっとする。
あの子が痛みを伴うようなことがあったら、本当に
いたたまれないだろう。そんなことがないようにと
何かに向かって祈りたくなる。

じわじわと鈍痛に支配されているので、他の機能が
麻痺してしまっている。何度となく繰り返してきた
ので、うめきながらも慣れたものだけど、あの子の
ことや小学生の私のことは気にかかる。
小学生の私には今朝、話をしてチャージをしたきりだ。
無事に還ったか。

いよいよ正念場。
何も変わらない表面とめまぐるしい内側と。

体の重さが

2005-09-29 16:03:03 | Weblog
思考のじゃまをする。
体のだるさが思考のじゃまをする。
鈍痛と膨脹と停滞で、埋まるように沈んでいく。

金と仕事と生活と。
せっぱ詰まっている現実は目の前にあるのに、
数ミリ単位の先延ばしとつぎはぎの対処。


いつから劣化したんだ。
子どもの頃は優等生だったはず。




いつから外したんだろう。

箇条書き

2005-09-29 13:00:00 | Weblog
澱んでいたのか、さすがに動き始めた。
といっても仕事のことで、外側からせっつかれている
だけなのだが。
短時間に同じ声と同じ内容を何度も聞かされる。
そんなことが以前は日常だったのを、すっかり忘れていた。

解毒作業も始まったし、小学生の私はほぼ片がついた。
外界との関わりがいろんな意味で希薄になっているので、
逃避にすり替えが起こる前に支払い等を済ませてしまうか。

手で触れて確かめることが必要なこの世界の作業のしかたを、
どうやったら上手に組み込んでいけるのだろう。

せっかくあの子の背中にのってどこかに連れていって
もらったのに、記憶がない。そのうち思い出すだろうか。

坊やが来ていた理由もいなくなった理由も、坊やの意思
だけではないところこたえがあったのかも知れない。

祖父考

2005-09-28 16:29:22 | Weblog
かつて祖父が生きていた頃、母に言ったと言う。
どんな人にも最後の逃げ場をつくってやれと。
きゅうきゅうにとことん追い詰めてはいけないと。

初めてこの話を聞いた時、どんなに悪い人にでも
当てはまるのか?という疑問があった。

祖父の言ったようなことが出来る人は、限られる
のかも知れない。
逃げ場をつくってあげることのできる人。
人との関わりの中で相手に逃げ場をつくってあげる
ことができるということは、自分がその分覚悟を
負うことなんだろう。
昔気質で厳しく、あちこちの子どもを見知っていた
祖父だから、そんなことが言えたのかも知れない。


今の私を見て、祖父はなんと言うだろう。

大きくなったね

2005-09-28 13:52:25 | Weblog
ひんやりしてあたたかく、硬くてやわらかい。
大きくて繊細で、醜悪なほどに美しい。

体温の生臭さ。
骨張ったうすい皮膚のような羽。

姿を見るだけで胸がきりきりと締めつけられる。
呪文のように繰り返す。
ウシナイタクナイ。
ウシナイタクナイ。
ウシナイタクナイ。

切って消して

2005-09-28 11:12:18 | Weblog
向き合う私は、小学校高学年になった。
この作業を通じて分かったことだが、小さい頃の方が
満たされて愛されて育っていたという私の認識は、実は
やや違っていたようだ。この作業をすることで、認知の
歪みも同時に矯正されていくらしい。
引っかかっている私が出現するので、時系列すべてを
ぬりつぶしたような連続性はなく、断続的に成長した
自分と向き合うことになる。それも想像していなかった
ことなので、大人の私は興味深く観ている。
小さい私と向き合うのが予想以上に骨の折れる仕事だった
せいか、その後は割と楽に解決できている気がする。
中学生の私が一番の正念場だと思っているが、そのことを
考えると、それでも負担は軽減されているのだろう。
しんどいだけの作業かと思っていたけど、深いところで
感じたり受け止めたり語りかけたりすることで、内側から
きっちり積まれていくので、自分のことを慈しめるように
なってきている気がする。

私がこんな作業をしている時、あの子は出てこないで
おでかけをしたりじっとたたずんで様子を見ていたりする。
切ったり消したりする方法をあの子に教えてもらったから、
それだけは使わせてもらってるけれど。
あの子は、私が積み上げる作業を終えるのを待っている。