「犬もアクビが伝染る」とかは一般的にも好まれるストーリーだと思います。そこからいかに「うちの猫様,アタシの言ってることがわかるの~」に繋げるかみたいな話でしょうか。
たぶんネットで読んだASD当事者の方が「定型発達の人らは、俺らが思ってるよりもずっと的確にこっちの心を読んでくるから,とてもかなわないぞ!」みたいなことを書かれてて,それがASD一般にあてはまるかどうかは別として,面白い観点だなと思いました。ASD者による定型発達者研究みたいな。
3割打者からすれば「7割も打ててないですw」なんでしょうけど,1割打者からすれば「3割なんて驚異的」ですよね。そこの断絶はちょっと面白い。
「誰でもうつ病になる可能性がある」とか「誰にでもcognitive distortionはある」という一般論と,実際にうつ病になることとの間には落差がある。そこにおいて,みんなそうだよ,というのは救いでもあるけど,残酷でもある。それは「ではなぜなのか」には答えてくれないから。
インフルエンザの予防に「手洗い・うがい」の励行をするとして(その有効性はさておくとして),インフルエンザになってから手洗いうがいを頑張ってもインフルエンザは治らない,けど,他の疾患を防ぐには意味があるかもしれない(有効性があるとすれば)。
科学を強調すると,「予防」に寄ってくなという印象はありますね。医学でも「医学の究極の使命は予防医学である」(うろ覚え)みたいなテーゼ(NOT 残酷な天使の)あった気がします。確かに予防できれば治療は必要ないから,ごく自然な発想だと思うし,理想ですよね。
一般と個別をつなぐには「ツール」が必要なんでしょうね。たとえばアクビとか,うがいとか。
「誤信念課題」っていうツールより,「アクビ」っていうツールのほうが,一般的に/一般人には扱いやすいので,ニュースなんかで取り上げられるんでしょうね。
翻訳って言ってもいいのかも。手洗いうがいは感染症医学の一般論のもつ一側面を翻訳して伝えてるわけで,そういうすぐれた翻訳があれば,感染症医学の一般論をわかりやすく伝える,ことは必要なくなる。
ということで,理論をわかりやすく伝えることが必要なんじゃなくて,すぐれたツール,すぐれた翻訳があればそれでよい,ということになるかなと思い至りました。もちろん,ツールなしに皆が理解できればそれはそれで結構なことだとは思います。
手洗いうがいなんて保育園児でもしてるし,犬でもアクビするんだから,そのツールとしての普遍性は相当なもの,と思いますね。そういうツールをすべての理論に用意できるか? という可能性の問題はさておいて,でも,原理的には可能でしょうね。
じゃあ実際「手洗い・うがい」は有効か? となると,その議論は一筋縄じゃないですよね……。僕はというと,今の趨勢はどっちなんでしたっけ……? というテイタラク……。
愛着だと誤解があるからアタッチメントにすべき,という議論が可能なら,認知の歪みだと誤解があるから認知的ディストーションにすべき,という持論があります!
素朴心理学って,いわば,因果論的心理学なので,誤解を解くとなると,たいていの場合,因果論ではありません,になるなと思ってます。
一般論と個別論はたいてい噛み合わないので,一時的にでも噛み合う瞬間をプロデュース! するのがツールの役割なんでしょうね。もちろん,その瞬間とやらは……錯覚だ! というのは可能ですが,たぶん錯覚の指摘そのものよりも求められるのは,瞬間的に噛み合うことで得られる益なんでしょうね。
英語ができない人に,英語で早口でまくし立てても理解できないけど,かといって,英語でゆっくりしゃべってもやっぱり理解できないと思うし,そこで英語のレッスンを始めてもしょうがない。理解してほしいと思うなら,必要なのは,日本語でしゃべることだと思います。
一方で,分からなくても構わない,というのは別にアリだと思います。オオアリクイのアルマジロだと思います。あくまで「理解してほしいと思うなら」という前提ですね。
[MM登録] はじめてのマインドフルネス ――26枚の名画に学ぶ幸せに生きる方法 goo.gl/aExWIv クリストフ アンドレ (著), 坂田 雪子 (翻訳), 繁松 緑 (翻訳)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます