ベイズ好きのお前ら、頼むから来てくれ。国里先生は「複雑な臨床的問題を階層ベイズで解く」というトークです。臨床心理に興味あるひともどうぞ。詳しくはこちら。 senshu-u.ac.jp/cps/symposium/…
体験の共有……という時、コンテンツが問題なのか、共有自体が効くのか、どっちなんでしょうね、まあ両方か。
@rain_00 いまやバーチャル体験の共有みたいな話までいってるので、幻想か幻想でないかは問題ではないのかもしれません。
ウェルビーイングってダーザイン的なアレかなとも思うんですけど、存在、って言われると、漢字に引っ張られて、どういうニュアンスで使ってるのか分からなくなりますね。
ここに居るってどういう意味でしょうね。ツイッター開いたら、そこに居たら、ダーザインでしょうか……。
存在の承認みたいな話なら、自分で承認するか、他者に承認されるか、みたいな話になるかな。自分で承認するのは良いことと思いますね、確実だし、でもそれじゃ満足できない気持ちもまた分かる。
やっぱそんなに超然とはしてられないですね、共有への欲望は常にあるわけで、だからこそ、主観的か客観的か、てのが問題になるんでしょうね。
でもあれか、主観的な幸福にも他者の視点は関与するから、フェイスブックでセレブ生活の覇を競うみたいなことになるから、自他の分離てのは結構難しいのかもですね。
幸せなら態度で示そうよ、ホラ、みんなでフェイスブック更新しよ!(語呂悪い)
でも存在てのはそもそも承認不要の客観的事実なわけで、主観的行動というのがありえないのと同様に、主観的存在てのはありえないですね、イマジナリーコンパニオンを除けば……。
ただ、ある、ことに主観的か客観的かなんてないわけで、これが、良くある、となると、主観的か客観的かというのがそれなりにウェイトを増してくる、そんな感じのロンリーブルース。
ゆえに、良くある、ことを妨げるのは、自分であったり、他人であったり、その両方であったり、する。
カフカ的悪夢は、存在的には、もう悪夢以外のなにものでもない悪夢ですけど、ダイジョウブ、それはフィクションだから!
俺はチューリングマシンじゃないし、お前も初音ミクじゃない、もっと自信を持とう!(なんなのか)
形而上学的に突き詰めてくと、不確かさったらパねえですけど、ダイジョウブ、われら人間皆人間、靴の先だけ、ちょと違う。
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