パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年1月20日

2019-01-20 22:00:08 | 日曜礼拝
聖書箇所:マルコ12章13節~17節
説教題:これは誰の肖像、誰の銘ですか

導入)
 パリサイ人達は度々イエスを罠にかけようとして質問をしてきました。イエスはいつも彼等
の策略を上回る回答をして、罠にかかることはありませんでした。イエスは知恵に満ちた方だ、
素晴らしいと思うことでしょう。しかし、それぞれのエピソードには独特の意味合いが有りま
す。このエピソードを通して神様が私たちに何を示しておられるのかを考えてみましょう。

本論)
 パリサイ人達は早い時期からイエスを殺したいと思っていました。今回は、ヘロデ党の人達
を連れて、イエスの言葉尻をとらえて捕まえようと企てました。ヘロデ党というのは、ヘロデ
王家を支持する人たちで、その後ろ盾となるローマ帝国に税金を払うことにも賛成していまし
た。パリサイ人達はヘロデ王を完全には支持していませんでした。彼が異邦人だったからです。
しかし、イエスを殺すために今回は手を組んだのです。
 彼らの発言、質問は、二重のしかけになっていました。先ず、イエスが人におもねることを
しないで真実を話す人だという評価を示して、今回も正直に話すようにしむけます。次に政治
的にも宗教的にも扱いにくい質問をしました。カイザルに税金を収めるべきか否かという質問
ですから、イエスかノーで答えることになるはずでした。どちらで答えても、難癖をつけて糾
弾できる内容になっていました。
 税金を収めなさいと言えば、お前はメシアだと公言しているくせに、異邦人の王に服従しろ
というのか、偽りのメシアではないかといって捕らえることができます。税金を収めるべきで
はないと言えば、ローマに反逆する者だと訴えて引き渡すことができるというわけです。
 イエスは彼らの企てを一つ一つ退けていきました。先ず、「なぜわたしをためすのか。」と
言って、彼らの計画は見通していることを示しました。次に、彼らが驚嘆するような回答をし
ました。しかし、直接的に回答するのではなくて、デナリ銀貨を見せるようにという要求をし
ました。16節、17節の内容を理解するためには、このデナリ銀貨の説明が必要です。
 デナリ銀貨はローマ帝国の通貨でした。銀の目方から考えると、現代の価値は5ドルぐらい
だそうです。しかし、1デナリは一日分の労賃ということでしたから、100ドルぐらいの価
値は有ったかもしれません。税金を払う時には、ローマの貨幣で払わなければなりませんでし
たので、このデナリ銀貨が用いられました。その時代、カエザル、すなわちローマ皇帝の顔は
貨幣にしか刻んではいけないという皇帝の命令が出されていました。ローマの貨幣は厳しくロ
ーマ皇帝によって管理されており、カエザル、ローマ皇帝の所有物とされていました。
 こういう背景が有ったので、イエスは「カエザルのものはカエザルに返しなさい。」と言わ
れたのです。そういう回答には、パリサイ人達もヘロデ党の人達も文句のつけようがありませ
んでした。デナリ銀貨を出したのがパリサイ人であったら、彼らもローマの貨幣を用いて生活
していることになり、ローマに服従しているではないかという反撃の材料になりかねませんで
した。そうすると、彼らにはイエスを糾弾する資格も無かったことになります。

まとめ)
 17節には彼らはイエスに驚嘆したとあります。周到に準備したと思った質問をイエスが簡単
に片づけてしまったせいかもしれません。しかし、私達はそれよりも、イエスが最後に命じら
れた「神のものは神に返しなさい。」という戒めをもっと重視しなければなりません。この戒
めに従うために、先ずイエスがした質問、「これは誰の肖像ですか、誰の銘ですか。」という
質問に目を留めてみたいと思います。
 デナリ銀貨を見ると、ローマ皇帝の肖像が見えました。アウグストかティベリウスだっただ
ろうと言われます。ですから、銀貨を見れば皇帝はどのような顔かがわかりました。さて、創
世記1章26節、27節を見ますと、人間は神の似姿に創造されていることが示されています。そ
のことを念頭にどのように神のものを神にかえすのかを三点確認いたします。

1)イエスを救い主として受け入れ、尊び、礼拝する
  イエスは神でしたが、人間としてこの世に来られました。神が人となって来られたのです
 から、完璧な神の似姿を持った存在だったと言えます。ヨハネ10章30節ではイエスはご自身 
 が父なる神と一つだと言っています。ヨハネ6章29節では、神の働きをするということは、
 神がお遣わしになった方を信じることだと書かれています。ヨハネ15章は、私たちはイエス
 の戒めを守ることによってイエスにとどまるのだと述べられています。
2)私たちの体を生きた供え物としてささげる
 私たちも神の似姿に創造されています。それだけでなく、イエスの血の代価によって贖われ
 聖霊の証印をいただいます。それは、私たちに神の肖像と銘が刻まれているというふうに理
 解しても良いでしょう。私たちがクリスチャン、キリストに属するもの、と呼ばれるのは相
 応しいことです。ですから、私たちも神のものとして神にかえされるべき存在なのです。ロ
 ーマ12章1節、2節にはっきりこの原則は示されています。そして、それが私たちの礼拝で
 もあるというのです。ですから、日々悔い改める姿勢を持ち、神の国と神の義を先ず求めて
 いくのです。信仰を働かせ、神にだけ頼るのです。
3)私たちの奉仕の業を通して教会を建て上げる
 イエスも私たちも神の姿を反映させた存在です。イエス教会の頭であり、私たちはその体な
 のです。ですから、個々の教会も神のものを神にかえすことをしていかなければなりません。
 聖書の言葉に従って行動するときに、そうすることができるのです。エペソ4章12節、13節
 を確認すると、私たちは奉仕の業を通して教会を建て上げることが述べられています。また、
 信仰の一致を保っていかなければなりません。具体的な表れとしては、日曜礼拝を守ること、
 教会の奉仕の業に携わること、互いに祈り合うこと、献金をもって教会の必要を支援するこ 
 となどが挙げられるでしょう。

 パリサイ人達やヘロデ等の人達はイエスを受け入れ、尊び、信じることはありませんでした。
彼らは神の国と神の義を求めず、自分たちの権力を追い求めました。また、普段は互いに敵対
して、一致を求めませんでした。彼らの生き方は、神のものを神にかえす生き方ではありませ
んでした。私たちはそのような生き方をしてはいけません。

説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
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