できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

臭いものにふたを(1)

2008-06-14 23:10:45 | diary
したりしなかったり。
あ。自分の脳内の話ですよ。


例えば秋葉原の事件に関する報道。
そんなこと追求しなくていいよもう、と思える内容とか、ふたをしたくなる。目をつぶりたくなる。ダガーナイフどんだけ~みたいな内容の報道とか、もういいよ。
でも報道というお鍋のなかにはいろんな具材があって、臭いものは一部。他の良い具材にまでふたをして封印してしまうのは残念なこと。臭いもののせいで他が台無し。目を閉じて耳をふさいでしまっては、何も入ってこない。

とはいえ、最近は臭いものばっかりの報道だったりするけれど。恐いもの見たさ、臭いものかぎたさ、を常に煽ってないとテレビ画面の前から人がいなくなっちゃうとでも思ってるのか。まあいいや。

亡くなった方々の紡いできたその人の歴史、これから紡いでいくはずだった未来、という「糸」を、ひろいあげるという姿勢の報道は個人的には「あり」です。被害者遺族のこと考えると、んなこと言ってらんないんだけどさ。それでも、失われたものの大切さってのをこんな時代においてどう実感し得るか、というのは、しっかり考えなきゃいけないことだと僕は思うのです。時間的、物理的、心理的にも、情報(=この場合は凄惨な事件のニュース)と自分との距離感がよくわからなくなりがちなので。

距離感がわからなくなるっていうとまあ曖昧な表現なんですが、例えばYahooニュースとかね、RSS配信でもいいや、そうやってネットでニュース見て、事件が起きた現場・被害者・加害者・取材者・ニュースが自分に届くまでのもろもろなどをリアリティをもって自分の中に捉えることができるか、ということ。周辺にリアルさがないと、中心もリアルに欠けると思うんですよ。ガンダムの作られ方で書いた富野監督の演出方法で、ニュータイプ概念にリアリティをもたせる方法としてその周辺にリアリティを持たせることでそれを実現したってのも、中心のリアリティのための周辺のリアリティの必要性ってことで考えればなるほど納得という感じです。

そういう意味で、事件と自分の関わりをすっと想起できるか、っていうと、僕は正直できない。距離感が掴めない。

距離感がしっかりつかめてないと、(何事に対してでもですけれど)大人としてのスタンスの取り方、世の中に向き合う姿勢、をちゃんと世の青少年達に見せることができない恐れがあって、そこが気になってます。


でもやっぱ、バランスの問題で、臭いものが増えてくると、あーもう!って面倒になってきて全てにふたをかぶせたくなる。


(2008.06.16ちょっと加筆)

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