茫庵

万書きつらね

2012年10月28日 - ダンテ「神曲」を読む 2

2012年10月28日 20時54分41秒 | 名句、名言


 さて、早速第一印象について述べてみたいと思います。現在地獄編を読み進めています。

 まず驚くのはページ数の違いです。本文と注釈合わせて山川訳は327ページ。平川訳は468ページ。ドイツ語訳は169ページ。英語版は紙の版ではないのですが235ページでした。文字の大きさの違いもありますが、余りに差があるのは日本語にはHexameterに相当する文体がなく、特に現代口語において冗長さが著しくなってしまうという特徴が際立ってしまったのではないかと思います。

 ドイツ語版、英語版、現代語訳それぞれ3行で1連のような構成になっています。ドイツ語版と英語版はアクセントを6つ持った美しい詩行が展開されていて、読む者を言語特有の恍惚感に導きます。日本語版にはもちろんそれは全くありません。いえ、この口語体訳にも文語体訳にもそれを伺わせる工夫がありません。

 私はここで七五調で書け、とかいう事を言っているのではありません。口語自由詩が台頭して以降、新体詩の先人たちが試みようとしていた詩体の開発がすっかり廃れてしまい、日本詩学の開発発展も放棄された状態が続いている、という事を改めて指摘しておきたいのです。何故か。今日本語で「詩」と称されているものが本当に「詩」といえるしろものなのか、私は常々疑問に思っているからなのです。訳詩を朗読を聴いてみれば分かりますが、れっきとしたHexameterで書かれた英文や独文は、明らかに普通の会話や散文とは違います。日本語訳だけが詩文としての区別がつきません。多くの現代詩には韻律がないからです。

 独文も英文も元のイタリア語とは異なる特性を持ち、そのままのHexameterを導入する事は出来ませんでした。それぞれの国では詩人や学者たちが自国の言語に合う形でHexameterを詩学の中に取り入れ、詩作をするまでになったのです。そればかりでなく、読者にも受け入れられているのは、詩形の普及や教育に対する努力が歴史的に積み重ねられてきたからなのです。日本の詩人はそうした努力を払っていません。怠惰の中で個人の言語世界の中にのみ耽溺し、誰にもわからない呪文のような作品を作っては自己満足に興じているだけです。読者も詩に対する関心が薄れ、また、新しい詩学の息吹を感じる事もなく、世界の文学から置き去りにされているのです。

 勉強不足で意識の低い日本の詩人たち。言い訳やごたくを聞くのにはもううんざりです。実力も向上心もない詩人たちは置いておいて、私は一介の読者としてよき詩とは何か、よき詩を作るといはどういう事か、道を探る試みを続けていくつもりです。



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