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唐土の子荘という人は、字は祖休といった。
若い時より猟や釣りを好んで、山河を巡っていたが、歳を取ってからは、猟を止めて、釣りだけを楽しみにしていた。
ある人が子荘に問うて、
「猟も釣りも、どっちも生き物の命を奪うことに変わりはない。それなのに、猟は止めて、釣は止めないというのは、どういう訳なんだ」
と言うので、子荘は、
「猟は、自分から獲物を殺しに行くものだが、釣りは、魚の方から釣針の餌に食らいついて来るものだ。だから私は、自分から殺しに行くことは止めて、食らいついて来る魚だけを殺しているに過ぎない。これは、私の罪とは言えないだろう」
と言った。
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唐土の子荘という人は、字は祖休といった。
若い時より猟や釣りを好んで、山河を巡っていたが、歳を取ってからは、猟を止めて、釣りだけを楽しみにしていた。
ある人が子荘に問うて、
「猟も釣りも、どっちも生き物の命を奪うことに変わりはない。それなのに、猟は止めて、釣は止めないというのは、どういう訳なんだ」
と言うので、子荘は、
「猟は、自分から獲物を殺しに行くものだが、釣りは、魚の方から釣針の餌に食らいついて来るものだ。だから私は、自分から殺しに行くことは止めて、食らいついて来る魚だけを殺しているに過ぎない。これは、私の罪とは言えないだろう」
と言った。