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唐土、晋の文公(前696-前628)という人は、晋の献公(?-前651)の本婦人の子であったが、献公が驪姫(?-前651)という妾を寵愛していたので、驪姫は、本婦人の子である文公をひどく憎んでいた。
そしてついに献公へ讒言をして、文公を殺そうとしたので、文公は恐れて他国へ逃げた。その時に、共に付き従って逃げ去った者は、狐偃、趙衰、顛○、魏犨、介子推、以上5人であったが、そのうちにも介子推(?−前636)は、他のどの臣よりも、とりわけ忠功が深かった。曹という所で、文公が飢えて死にそうな時、介子推は自分の股(もも)を裂いて文公に食べさせ、辛うじて命を助けた、というようなこともあった。
その後、献公が死んで、文公は本国へ帰って献公の跡を継いだが、その、逃げ走った時に付き従って忠功をなした者どもへ、残らず爵禄を与えたのだが、ひとり介子推を忘れて、爵禄をも与えなかったので、介子推はこれを恨んで、綿上山という山へ引き籠って、文公に仕えようとしなかった。
それでも文公が、いまだ介子推を思い出さなかったので、介子推に付き従う者たちが、「一蛇独怨(龍が天に上るのを援けた蛇たちのうち、他の蛇は龍と一緒に巣に入ったが、1匹の蛇だけは、怨みを抱いたまま巣に入らなかった)」という語を文公の宮門に書き付ければ、文公はこれを見て、初めて介子推の事を思い出し、自分が俸禄を忘れて与えなかった事を後悔し、急ぎ人を遣わして、俸禄を与えようと召し呼んだが、子推は山を出ようとしなかった。
文公は、いかにしても子推を呼び出し、恩賞を与えたく思ったが、どうしようもない。ある者が申し上げるには、
「とかく、山に火をかけて焼き払えば、子推も出てくるでしょう」
と言ったので、文公は、「それもそうだ」と、多くの人を遣わして、綿上山に火をかけて焼き払ったが、ついに子推が出てくることはなく、木を抱いたまま焼け死んでいたという。
こうした経緯で、この山は介山と名付けられた。後の人はこれを憐み、子推が死んだ日が近づくと、前後三日の間は、火を焚くことを禁じているという。今でも唐土には、冬至の後、105日にあたる日は、介子推が死んだ日として、飢食といって、火を忌む風習がある。
唐土、晋の文公(前696-前628)という人は、晋の献公(?-前651)の本婦人の子であったが、献公が驪姫(?-前651)という妾を寵愛していたので、驪姫は、本婦人の子である文公をひどく憎んでいた。
そしてついに献公へ讒言をして、文公を殺そうとしたので、文公は恐れて他国へ逃げた。その時に、共に付き従って逃げ去った者は、狐偃、趙衰、顛○、魏犨、介子推、以上5人であったが、そのうちにも介子推(?−前636)は、他のどの臣よりも、とりわけ忠功が深かった。曹という所で、文公が飢えて死にそうな時、介子推は自分の股(もも)を裂いて文公に食べさせ、辛うじて命を助けた、というようなこともあった。
その後、献公が死んで、文公は本国へ帰って献公の跡を継いだが、その、逃げ走った時に付き従って忠功をなした者どもへ、残らず爵禄を与えたのだが、ひとり介子推を忘れて、爵禄をも与えなかったので、介子推はこれを恨んで、綿上山という山へ引き籠って、文公に仕えようとしなかった。
それでも文公が、いまだ介子推を思い出さなかったので、介子推に付き従う者たちが、「一蛇独怨(龍が天に上るのを援けた蛇たちのうち、他の蛇は龍と一緒に巣に入ったが、1匹の蛇だけは、怨みを抱いたまま巣に入らなかった)」という語を文公の宮門に書き付ければ、文公はこれを見て、初めて介子推の事を思い出し、自分が俸禄を忘れて与えなかった事を後悔し、急ぎ人を遣わして、俸禄を与えようと召し呼んだが、子推は山を出ようとしなかった。
文公は、いかにしても子推を呼び出し、恩賞を与えたく思ったが、どうしようもない。ある者が申し上げるには、
「とかく、山に火をかけて焼き払えば、子推も出てくるでしょう」
と言ったので、文公は、「それもそうだ」と、多くの人を遣わして、綿上山に火をかけて焼き払ったが、ついに子推が出てくることはなく、木を抱いたまま焼け死んでいたという。
こうした経緯で、この山は介山と名付けられた。後の人はこれを憐み、子推が死んだ日が近づくと、前後三日の間は、火を焚くことを禁じているという。今でも唐土には、冬至の後、105日にあたる日は、介子推が死んだ日として、飢食といって、火を忌む風習がある。