毎度 焼津名物 炎の弾丸男!!でござる。
先日『読書』について書いた時、吉田松陰に興味をもったので、
こんな本を読んでみた。
読んでのまとめというか個人的に気になったところは以下の通り。
最後の方は笑えたからチェックしておいた。
『栴檀は双葉より芳し』
後に名をなすような人物は、幼少のころからその兆しを見ることが出来るという意味。
吉田松陰は想像できないほどの詰め込み&スパルタ教育によって育てられた。
6つや7つの子供のときに『武教全書』や『孫子』、『呉子』などと言う難しい本を暗記させられた。
天下泰平の下では人の心の退廃を生む。 治にいて乱を忘れず。
読書を重んじたがそれ以上に実体験の大切さを説いた。
「人間の精神の働きと言うものは機械のような物ではない。それは生き物だ。生きている物には突如として訪れる霊感のような物がある。その霊感は、何事かにふれて発し、また何かに感じて動く物である。その霊感の発動が、精神を一段と飛躍させる契機となるに違いない。豁然と眼界が開けるというような機会は、書斎にあるよりも旅にあるほうが多いというべきであろう。」
未知の世界を求めよ、その体で求めよ。
博く(ひろく)学問をしたうえで旅をするのでなくては、長いたびも意味が無くなる。と言うよりも松蔭は「長途の旅行をして、初めて学問も博くなる」といい。
旅には単なる知識や学問を広げるという以外に、胆を練り気宇を壮大にするという人格形成上の優れた効果がひそんでいるとした。
他人の長所をみて交わる人であったため、だれとでも快く交際できる人間であった。
幼い頃から「孟子」を読まされていたので教育者として必要な性善説の思想を持っていた。
伊藤博文は好色であるといわれるが、兵庫県知事の若き日に、遊郭や食肉処理所を許可し、遊び金が知事の月給では足りない分を許可した業者などから融通してもらうほどだった。(笑)
土佐の吉村寅太郎は乱射されて死ぬ間際、仁王立ちになって「・・・残念!!」と叫んで倒れたので土地の人から「残念大将」と語り伝えられた。(笑)
~以上
吉田松陰といえば松下村塾
松下村塾の塾生にはメジャーどころで伊藤博文や高杉晋作をはじめ、幕末から明治に活躍する人が多く在籍していた。
確か長州藩のあった山口は総理大臣の数も多いほうだったかと、
いろんな意味で恵まれた静岡からこのような志ある人があまり現れないのは「天下泰平の下では人の心の退廃を生む。」ってことでしょうかねぇ?
今のご時勢、たとえ静岡でもいろんな意味で決して泰平な世ではないので、我輩が言うのもなんですが、もう少し教育熱心になっても良いのかと。
では・・・
では・・・
先日『読書』について書いた時、吉田松陰に興味をもったので、
こんな本を読んでみた。
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読んでのまとめというか個人的に気になったところは以下の通り。
最後の方は笑えたからチェックしておいた。
『栴檀は双葉より芳し』
後に名をなすような人物は、幼少のころからその兆しを見ることが出来るという意味。
吉田松陰は想像できないほどの詰め込み&スパルタ教育によって育てられた。
6つや7つの子供のときに『武教全書』や『孫子』、『呉子』などと言う難しい本を暗記させられた。
天下泰平の下では人の心の退廃を生む。 治にいて乱を忘れず。
読書を重んじたがそれ以上に実体験の大切さを説いた。
「人間の精神の働きと言うものは機械のような物ではない。それは生き物だ。生きている物には突如として訪れる霊感のような物がある。その霊感は、何事かにふれて発し、また何かに感じて動く物である。その霊感の発動が、精神を一段と飛躍させる契機となるに違いない。豁然と眼界が開けるというような機会は、書斎にあるよりも旅にあるほうが多いというべきであろう。」
未知の世界を求めよ、その体で求めよ。
博く(ひろく)学問をしたうえで旅をするのでなくては、長いたびも意味が無くなる。と言うよりも松蔭は「長途の旅行をして、初めて学問も博くなる」といい。
旅には単なる知識や学問を広げるという以外に、胆を練り気宇を壮大にするという人格形成上の優れた効果がひそんでいるとした。
他人の長所をみて交わる人であったため、だれとでも快く交際できる人間であった。
幼い頃から「孟子」を読まされていたので教育者として必要な性善説の思想を持っていた。
伊藤博文は好色であるといわれるが、兵庫県知事の若き日に、遊郭や食肉処理所を許可し、遊び金が知事の月給では足りない分を許可した業者などから融通してもらうほどだった。(笑)
土佐の吉村寅太郎は乱射されて死ぬ間際、仁王立ちになって「・・・残念!!」と叫んで倒れたので土地の人から「残念大将」と語り伝えられた。(笑)
~以上
吉田松陰といえば松下村塾
松下村塾の塾生にはメジャーどころで伊藤博文や高杉晋作をはじめ、幕末から明治に活躍する人が多く在籍していた。
確か長州藩のあった山口は総理大臣の数も多いほうだったかと、
いろんな意味で恵まれた静岡からこのような志ある人があまり現れないのは「天下泰平の下では人の心の退廃を生む。」ってことでしょうかねぇ?
今のご時勢、たとえ静岡でもいろんな意味で決して泰平な世ではないので、我輩が言うのもなんですが、もう少し教育熱心になっても良いのかと。
では・・・
では・・・
毎度 焼津名物 炎の弾丸男!!でござる。
先日“記憶に残したい焼津”なんてのをアップしたが、
今回は“記憶に残っている○○”って感じかなぁ??
何が我輩的に響いたかと言うと、
赤い線で囲われたあたりの
ブロック塀に看板が貼り付けられているのと、
浜通りなんかにあった家(今でもまだ見られる)の定番だった、表通りに面している窓と木の手すり。
戸袋はサッシになっちゃっているけど・・・
そう、↓ ↓この辺の感じが我輩的にヒットした。
この写真撮ったところは浜当目で、今朝初めて見た家なんだけど、
ビビッと響いたんだよなぁ。
当然この看板もねぇ。
特に黄色い消費者金融のやつは特に。
ついでにこちらの看板も市外局番が一桁だったので、
少なくとも25年以上(市外局番2桁になったのいつだったかなぁ?)は経ってる??
ちなみに我家は8-3056でした。
では・・・
毎度 焼津名物 炎の弾丸男!!でござる。
我輩的にはGW最終日、体を元に戻すため通常と同じ3時過ぎに起きて本を読み、4時30分に朝食をとる。
7時近くに今日は自転車でお出かけ!!
会社に行く前に、ふらりと寄り道した。
で、こちらは旗掛石。
徳川家康の三河時代からの家臣、原川新三郎氏の門前がこのあたりにあり、
家康が天下をとってからこの辺で鷹狩りをする度に、そのつど原川家を訪ね、
その際この石に家康の旗を立て掛け、馬の鞍を置いたのでこの名がつけられたそうです。
で、この裏山を越えたところにサニーヒル団地なんてのを新発見!!
大学時代+卒業旅行?していた1年以外、ずーーーっと焼津に住んでいるのに、
まだまだ知らない焼津がたーーくさんあるわぁ。
では・・・