ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】怨霊と縄文

2006年12月22日 20時12分12秒 | 読書記録2006
怨霊と縄文, 梅原猛, 徳間文庫 う4-1, 1985年
・"文化人"だとか"知識人"としてよくその名を見かていましたが、その著作を初めて読んでみました。著者は"哲学者"という認識だったのですが、内容は全く歴史の本です。日本古代の歴史について著者の立てた仮説を語り尽くす。「そんなことまで言っちゃって大丈夫なんだろうか・・・」と少々心配になるくらいその仮説は大胆です。証拠が出てこない限りは、まさに「言ったもん勝ち!」の世界。その道一筋でやってきた歴史研究家たちから見ると、「あほらしい」の一言で切り捨てられるかもしれませんが、そのパワフルな想像力から導き出され、独自の道をゴリゴリ突き進む理論展開は読んでいてなかなか痛快です。
・「話の一日目は記紀神話にかんするもの、二日目は法隆寺と聖徳太子にかんするもの、三日目は、柿本人麿にかんするものである。この三本がわたしの日本学の柱である。」p.4
・「万巻の書物の読書のあとに、問いと答えがおとずれるのではなく、先に問いがあった。そのあとに万巻の書物の読書と調査があったのである。」p.4
・「わたしは哲学の学者であるより、みずから哲学者であろうとした。哲学者とは、みずから思惟する人間のことです。」p.11
・「ですから、もしほんとうの意味の哲学的態度――学問をして真の学問たらしめる態度――が日本の古代研究にあったなら、わたしの仕事は必要なかった、そのように思います。」p.12
・「学問とはなにか、あるいは世界の構造とはなにかということをずっと考えて、35歳ぐらいまでほとんど論文も書かず自分の内部で悩みながら問い詰めて来た。そのことがおそらく今日のわたしの歴史観を支える有力な武器になっていると思うのです。」p.13
・「人麿の人生を見ていくと、そこに大きな歴史の闇がある。闇を見る目をわたしは実存主義、ニーチェやハイデッガーから学んだ。闇の中で、闇をじっと見ながら人生に対する希望を失わないというのが、わたしのいちばん好きな人生態度です。」p.15
・「わたしは学問の本質は、疑いと演繹にあると思いますが、それに帰納が加わらなくてはならない。」p.17
・「わたしの最初の哲学的野心は笑いの研究をすることでした。(中略)実存主義から受けた影響から脱するために、わたしは肯定的人生観を確立したいと思ったのです。それが笑いの研究でした。」p.18
・「そうなると『古事記』神話には、持統一族と藤原不比等の強い意志があらわされていると考えるべきではないだろうか。」p.38
・「日本の天皇と中国の皇帝の違いは、中国の皇帝は絶対権力者ですが、天皇の場合は、最初からひじょうに象徴的意味を持っていて、政治は太政官がやってしまうというところにあります。」p.40
・「『古事記』は律令体制を貫徹するための"宗教改革の書"だったのです。」p.49
・「しかも『古事記』の内容がまったく藤原氏に有利であることは、稗田阿礼が藤原氏の権力の代弁者であることを意味する。となると稗田阿礼は藤原不比等の仮名だと考えざるをえない。」p.55
・「結局『古事記』神道を発展させつつ、どこかで露骨な自己主張を遠慮しているのが『日本書紀』ではないかと思います。」p.59
・「やはり真理は体系だとわたしは思っています。だから、体系にならないような認識というものは、はなはだ真理性が希薄ではないか。逆に、体系になっていくということは、真理性がひじょうに濃厚な証拠ではないかと思います。」p.69
・「法隆寺の再建も大宰府や北野天満宮のように、やはり加害者が被害者の霊を慰めるために造った寺ではないかと考えたのです。」p.73
・「その時わたしの頭にひらめいたことは、法隆寺は太子の怨霊を鎮めた寺だと考えると、いままで長いあいだ謎とされたことがだいたい解けるのではないかということです。」p.79
・「だいたい「徳」のつく天皇の名前は不幸な天皇に多い。平安時代ですと、文徳天皇は毒殺されたという噂がある。崇徳天皇は流人となり怨霊になって死んでいった。安徳天皇は幼くして瀬戸内海の藻屑と消えた。」p.91
・「どうして決定したかというと、文体統計法によったのです。人間の書く文章というのには癖があって、しかも癖というのはなにげないところに出るものです。」p.124
・「従来の人麿論は三つの点において間違っているというのが、わたしの七年間の結論なのです。(中略)三つの土台、すなわち身分・年齢・作品論が間違って、そのうえにいままでの人麿論がつくられているから、つくられた人麿論はすべて間違ってしまう。」p.140
・「なぜなら、どこの国でも、その国の文章をつくるのは文学者であり、詩人である。としたら、日本最大の詩人、人麿が日本文の創造者であったとしても不思議ではありません。」p.154
・「『水底の歌』では、柿本人麿が、柿本?(さる)であろうと考えた。」p.155
・「今年もまた六月に北海道に行ってみました。北海道開拓記念館へ行き、藤村久和氏から、そこで発行しているアイヌの民族研究という論文をもらってきました。(中略)開拓記念館はいい仕事をしています。ひとつはアイヌの聞き書き。古老にいろいろな話を聞くのです。これはいま聞いておかないとなくなってしまう。その話をまとめてアイヌの宗教生活を藤村氏が総集編にまとめました。」p.195 ヘェー その頃もみじ台に住んでたので付近をウロチョロしてたはず・・・
・「またアイヌ語では肉体の上部を「エ」と言い、下部を「オ」と言います。日本語でも肉体の下の部分の言葉はほとんど「オ」を伴います。たとえば「オシリ」「オヘソ」「オチンチン」など。上の部分に「オ」をつけるのはおかしいのです。」p.201
・「世界の言語はだいたい四種類に分けられる。(中略)孤立語の代表は中国語、屈折語の代表がヨーロッパ語。膠着語はだいたいウラル―アルタイ語族で、朝鮮語とか日本語は膠着語です。それに対してアイヌ語は抱合語に属する。」p.203
・「こういうことをやってはじめて、わたしはほんとうの意味で本居宣長を超える。しかし、いまのところは、本居宣長や賀茂真淵の批判者であって、ほんとうの意味で本居宣長を超えてはいない。超えるには、やはり言語の研究を、前と違った方法で広げねばならないというのが、結論です。」p.208
・「藻岩山というと、例の札幌にある円山と同じ名前で、「モ」は小さいという意味ですから、小さい岩山、藻岩山ということで、三輪山も同じ意味の山ではないだろうか。」p.210 ヘェー 藻岩高校出身・・・

?こち【故知・故智】 古人の用いた知略。すでに前人が試みたはかりごと。

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