チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「立教大学と鈴懸の径/灰田勝彦誕生100年にあたって」

2011年08月21日 23時08分39秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ
今週の土曜は大江戸探検隊の集いで外を歩いてきた。
幸い屋外にいた時間には雨に降られなかった。今回は、
豊後岡藩(竹田藩と呼ぶむきもある)7万石中川家の
江戸屋敷跡および関連地探訪である。まず、
中央区明石町の上屋敷跡に向かった。それから、
汐留の中屋敷跡(ゆりかもめ連絡口、車輪が置いてあるあたり)、
同じく豊後の日出藩家老で明治政府の役人として
竹田に赴任した父を持つ滝廉太郎が生まれた西新橋、
その廉太郎が現在の芸大の学生時代に住んでた一番町の住居跡
(ちなみに、廉太郎はのちに聖公会の洗礼を受けてキリスト者となった)、
それからまた中川家に戻って、その
抱え屋敷(幕府からの拝領屋敷ではない自前の屋敷)があった
現在の西郷山公園、という屋敷跡巡り行程である。

さて、
今土日に放送された日テレ「24時間テレビ」は今年は、
徳光和夫70歳がチャリティマラソンを走った。同人は
長嶋茂雄に憧れて"後輩"となるべく立教大に進んだという。
そのミスターが左手で徳光のマラソンのスタートの引き金を引いた。
立教大学は米国聖公会系の大学である。外人宣教師によって建てられた
他のいくつかの日本のキリスト教系の大学と同様に、明治時代初期に
外国人居留区だった築地(現在の明石町)が発祥の地である。
池袋に移転したのちも残ってた明石町の築地キャンパスは、
大正12年9月1日に起こった関東大震災の火災で全焼した。その
大震災によって運命を変えられたひとりが、のちに歌謡歌手になる
灰田勝彦である。同人は広島出身でハワイに移住した医者の倅である。
1911年8月20日にハワイで生まれた。が、
父は勝彦がまだ10歳にもならないうちに死んでしまう。
父の納骨で一家で広島に帰ってたが、ハワイに帰国しようとしたときに
関東大震災が起きた。そして、その混乱のどさくさの中、
所持品いっさいを盗まれてしまった。ために、
日本に残ることになったのである。

勝彦は立教大に進み卒業したが、兄の影響で
ハワイアン歌手になった。日米戦争中の昭和17年に、
「銀座カンカン娘」「夜来香」「東京ナイトクラブ」「潮来笠」、そして、
このブログのカテゴリのひとつ
「語彙の歴史観ロック、Go! Go!」のモトネタである
「恋のメキシカン・ロック」などを作詞した佐伯孝夫の詞、
兄の灰田有紀彦の曲で立教大のキャンパスをモデルとして作られた
「鈴懸の径」は、灰田勝彦の代表作となった。
(以下は、音源から私が耳で採譜・採詞したものなので、
原作と微細が違ってることと思われるが、
悪しからず承知いただきたい)

***♪ミー│<ドーーー>ラー│<シーー<ド>シー│>ラーーーーー│ーーーー、ラー│
    <ファーーー>レー│<ミーー<ファ>ミー│>レーーーーー│ーーーー、<ミ<ファ│
    >ミーーー>シー│<ミーーー>レー│>ドーーーーー│ーーーー、>シ<ド│
    >シーーー>ラー│<ドーーー>ラー│<ミーーーーー│ーーーー♪
(とー<もーーー>とー、<かーー<た>らー>んーーーーーーーーー、
すー<ずーーー>かー、<けーー<の>みー>ちーーーーーーーーー、
<か<よ>いーーー>なー<れーーー>たー>るーーーーーーーーー、
>ま<な>びーーー>やー<のーーー>まー<ちーーーーーーーーー)

いかにも今から100年前に生まれた日本人が好みそうな歌である。ちなみに、
鈴懸(スズカケ)とはおおざっぱにいえばプラタナスのことである。
クルセクスが愛した木である。ときに、
灰田という名字は、「冬のソナタ」で一躍日本で知名度をあげた
ペ・ヨンジュンの「ペ」の「」の日本での音読み「ハイ」と同音の訓音「灰」を用いた
姓の在日朝鮮人の通名である場合がある。が、
喧嘩っぱやい性格だったということや風貌からもそう窺えなくもないが、
灰田勝彦がそうなのかどうかは、
あき竹城女史と前田敦子女史の顔の違いが区別できない
拙脳なる私には判らない。
ハワイ生まれゆえに戦時中は軍部や特高から目を付けられてたらしいが、
勝彦は日本に対する愛国心が強く、
「君が代」「日の丸」を貶める反日・極左集団民主党のなりすまし日本人どもとは
まったく違う人物だったらしい。ともあれ、
一回りほども年下の別所毅彦と親友だったくらい、
勝彦は野球好きだったようである。
立教大の後輩長嶋と親しかったということであるが、
当然のごとく広島カープのファンだった。
ゴルフ好きで、晩年は自宅があった保谷市(現在の西東京市)の
打ちっ放しによく通ってたらしい。ひばりヶ丘は
西武池袋線の駅である。
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2 コメント

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Unknown (ティコティコ)
2012-06-17 15:23:02
「鈴懸の径」懐かしいですね~
私は中学から立教でキャンパスの鈴懸の径によくマイカーを止めていました。

灰田有紀彦さんのお宅に中学時代にウクレレを習いに行ってました。

その後有紀彦さんのバンド「モアナグリークラブ」のギタリストの広瀬雅夫?さんのところに
スチールギタを習いに行きその時に、「鈴懸の径」の詩は最初僕が作ったんだと聞きました。

♪~涙ながしき マロニエの道 白き花散る

くれないの木の実・・・・・

とのことですが、軍部に「涙ながしき…」とは何事だ!!

今時勢に不謹慎!!!ということで今のしになったようです。

下町さんぽ酒を書いた居ます ↓ 

ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoparis


今後ともよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (passionbbb)
2012-06-17 23:06:42
ティコティコさん、
コメント、ありがとうございます。
ブログ、少しだけですが拝見しました。
とても興味深い内容でこれからも読ませていただたいと思います。
子供の頃、いわゆるナツメロ番組をよくやっていたものですが、
それを欠かさず観てました。現在は、
語中のガ行を非鼻濁音でガッ、ガッと歌う人が一般的になってしまいましたが、
耳について不快です。が、
当時の歌手は出身がどこでもみな鼻濁音で発音してました。
灰田さんはとくに品のある風貌・歌唱というイメージが残ってます。
よろしくお願いいたします。
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