池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

新しいデジタルブック

2021-08-03 08:38:07 | 日記


本書の著者パウル・ダールケ(Paul Dalke)はドイツ人であり、原文もドイツ語である。しかし、私のドイツ語力はゼロに等しいので、シーラーチャーラ比丘の英訳 ”Buddhism and Science ” に基づいて訳出した。いわゆる重訳である。
通常、翻訳者は重訳には手を出さない。解釈の間違いが入り込みやすく、原文と対比できなければ後々まで自分の誤りに気が付かないからだ。加えて、本書のテーマとなっている科学について、私は高校の教科書程度の知識しか持ち合わせていない。
こんなにマイナスの条件がそろっているのに、なぜ自分の訳を世に出そうというのか。恥をかく前に止めておいた方がよいのではないか。実のところ、この文章を書きながらも、まだ迷いは吹っ切れていない。
こんな前提でも、なおこの本を訳出しようと考えたのは、私がダールケの思想に強く共鳴したからに他ならない。彼は医者であり文献学者ではないのだが、学者以上に深くパーリ仏典を読み込んでいるように見える。そして何より重要なのは、彼はゴータマ・ブッダの思想を自分のものとして反芻し、現代ヨーロッパの言語空間の中で再現しただけでなく、自分たちの哲学・宗教・科学との根本的違いに鋭く斬り込んでいることである。これは、あきらかに、学問という領域を越えた思想家・哲学者の仕事である。
また彼は修行者としての顔も持つ。ベルリンにヨーロッパ最初の仏教寺院(ビハーラ)を建立したことでも知られている。おそらく瞑想で一定の境地を得ており、それがパーリ仏典の解釈にも大いに役立ったのではないかと思う。地道な思想的作業と実践の積み重ね、こういう部分においてドイツ人というのは驚異的な力を発揮する。本書の表題に採用した「仏教は真に思索する人のためにある」は、このような長い過程を歩んできた人間でなければ口にできない言葉だと思う。
本書はダールケの『仏教と科学』の前半部分を訳したものであり、後半部分も下巻として訳出する予定でいる。最初の部分は、信仰や科学の世界観への言及が多いので、ダールケの思想に早く触れたいという方は、第4章または第5章から読まれることをお勧めする。
ちなみに、この本はすでに1925年(大正15年)に『仏教の世界観』というタイトルで全訳が出ている(国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能)。もちろん私も目を通した。先人の努力を貶めるつもりは全くないが、まだパーリ語やパーリ聖典が日本でほとんど知られていない時代にあったためか、ダールケの考えが素直に日本語に反映されているとは言い難い。そのことも、私が本書を訳そうと考えたきっかけになったことを付け加えておく。
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