1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月21日・松本清張の体質

2019-12-21 | 文学
12月21日は、米国の映画女優で、ベトナム反戦運動家でもあったジェーン・フォンダが生まれた日(1937年)だが、作家、松本清張の誕生日でもある。

松本清張は、1909年12月21日(異説もあり)、広島で生まれた。本名は「きよはる」と読むらしい。父親は職業を転々とした後、清張が生まれて間もなく、九州の下関に移り、もち屋をはじめた。
清張が10歳のころ、一家は小倉へ移り、父親は露天商、飲食店をしだした。
15歳のころ、清張は電気会社の給仕として、働きだし、社員の使いっ走りをした。貧しく、新刊本を買う余裕はなかったが、彼は貸本屋や図書館で借りたりしてさかんに文学を読むようになった。その後、松本は印刷工になり、第二次世界大戦がはじまると、陸軍二等兵として出征。朝鮮半島で終戦を迎えた。
戦後は北九州の新聞社で印刷工にもどったが、仕事がなく、アルバイトをして生活費をおぎなう毎日だった。そんな苦しい生活のなか、41歳のころ、生活費のために書いて応募した小説が週刊誌に入選。
43歳になる年に『或る「小倉日記」伝』が、芥川賞を受賞。これを機に原稿の注文が入るようになり、松本は上京し、作家活動に入った。
推理小説『張込み』『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』などのほか、ノンフィクション作品『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などを書いた。
それまで犯罪トリックに主眼を置いていた推理小説とちがい、松本は犯人の動機、社会状況に焦点を据え、社会派推理小説の一代ブームを起こし、ベストセラー作家になった。
1992年8月、ガンのため没。82歳だった。

松本清張は40歳のころまで、ずっと生活に苦労した人で、戦前の26歳のときに結婚して、戦前、戦争中に子どもも生まれている。
それから流行作家になった人だけあって、市井の人の視線が作品のなかに一貫してある。低いところからじっと対象を見つめている、すごく粘り強い、忍耐力のある目が、松本清張作品の特色だと思う。
『或る「小倉日記」伝』の、貧しい環境のなかで自分の研究をつづけ、それが報われないままに亡くなった主人公を見つめ、その人生を評価しようとする作者の態度に感服した。

松本清張に『文豪』という小説があって、これには別の意味で深く感じた。
これは連作小説で、そのなかの一編が、尾崎紅葉と泉鏡花という師弟の関係を描いた実名小説だった。泉鏡花ファンなので、そこに書かれていた、師弟のあいだにあった事実、情報はすべて知っていたけれど、松本清張のようには考えなかった。彼のような見方をしたくない。松本清張については、作家筋からプライベートについても耳にしたが、なるほど、と感じるところもある。
松本清張は、明らかに異なる体質の人だが、それはおくとして、誰か他人をよく見て、その人について考えてみないと、なかなか自分のことはわからない、そのことを教わった恩人である。
(2019年12月21日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
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12月20日・ユリ・ゲラーの超能力

2019-12-20 | 科学
12月20日は、巨大タイヤ・メーカーの創業者、ハーベイ・ファイアストーン(1868年)が生まれた日だが、超能力者、ユリ・ゲラーの誕生日でもある。

ユリ・ゲラーは、1946年、イスラエルのテルアビブで生まれた。オーストリア・ハンガリー系ユダヤ人の家系で、誕生時の本名は、ジェルジ・ゲッレール。彼の父親は退役軍人で、母親は、精神分析学ジークムント・フロイトの親戚だという。彼は11歳のころ、家族とともにキプロスへ引っ越し、そちらの高校、大学に通い、英語で教育を受けた。
18歳のとき、イスラエル軍に入隊。退役後、22歳のころには、写真の男性モデルをしていたが、そのころからイスラエル国内のナイトクラブで「超能力ショー」と銘打った奇術ショーをはじめた。
27歳のころから、米国、英国のテレビ番組に出演して、超能力を披露。
28歳になる年から、来日し、テレビ出演するようになった。テレビ番組のなかでユリ・ゲラーは、スプーン曲げをやって見せ、テレビを通じてお茶の間に念を送り、全国の家庭で、壊れて止まっていた時計を動かすなどのパフォーマンスをおこない、全国に超能力ブームを巻き起こした。

その昔、ユリ・ゲラーは、日本のテレビの生放送に出演し、視聴者に呼びかけた。
「家にある、止まって動かなくなった時計を手にもってください。これからわたしが、時計が動くように念を送りますから、いっしょにあなたも動くように念じてください」
テレビ局には、全国から、
「いま、時計が動きだしました」
「こわれてテレビが映りました」
といった報告の電話が寄せられていた。
このとき、評論家の小林秀雄が、友人の今日出海の家にいて、このテレビ番組を見ていて、おもしろがり、二人はこわれた時計をもちだしてきて、手にもったそうだ。すると、両人の掌中の時計はみごとに動きはじめ、とてもおもしろかった、と小林秀雄は語っていた。小林はこれについて、こういう意味のことを言っていた。
「あんなことは昔からよくある、当たり前のことであって、不思議でもなんでもない。ユリ・ゲラーみたいなまねをしていたら、すぐにああいう力はだめになってしまう」

「超能力があったらなあ」
とは、凡人のつぶやきだが、実際のところ、テレビのリモコンが見つからなくて、物言わぬテレビを前に黙然としたり、階段を上ってから、
「はて、なにをしにきたのだったか」
と首をひねったりもする、ごく日常の生活能力さえ危うい今日このごろで、超能力どころではなくなっている。ユリ・ゲラーにあやかりたい。
(2019年12月20日)



●おすすめの電子書籍!

『ほんとうのこと』(ぱぴろう)
美麗なデッサンの数々と、人生の真実を突いた箴言を集めた格言集。著者が生きてきたなかで身にしみた「ほんとうのこと」のみを厳選し、一冊にまとめた警句集。生きづらい日々を歩む助けとなる本の杖。きびしい同時代を生きるあなたのために。


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12月19日・エディット・ピアフの巨大

2019-12-19 | 音楽
12月19日は、12月19日は、孤高の作家、埴谷雄高の誕生日(1909年)だが、歌手、エディット・ピアフの誕生日でもある。

エディット・ピアフは、1915年、仏国パリで生まれた。本名は、エディット・ジョヴァンナ・ガション。父親は大道芸人。母親はイタリア系で、カフェの歌い手だった。
エディットは、3歳ごろから数年間、角膜炎で目が見えなかったといい、貧しい環境のなか、親戚をあいだを行ったり来たりし、祖母の経営する売春宿の娼婦やその客たちなど、市井に生きるさまざまな人々に触れながら育った。
エディットは、20歳のころからナイトクラブの歌手となり、142センチメートルほどだったというその小柄さから「小さなピアフ(スズメの意)」と呼ばれるようになり、彼女はエディット・ピアフとなった。
第二次大戦中は、彼女はナチスによる占領下のパリでレジスタンスに協力しながら歌いつづけ、その小さなからだの全身からあふれだす豊かな声量の歌で人気を獲得していった。戦後は、みずから詞を書いた「ばら色の人生」「愛の讃歌」が大ヒットし、その名声はフランス国内にとどまらず、世界的なものとなった。
30代のころ、ピアフはプロボクサーの世界王者だったマルセル・セルダンと出会った。はじめて合ったとき、セルダンは、
「なぜ悲しい歌ばかり歌うの?」
と尋ねた。ピアフは、
「なぜ人を殴るの?」
と聞いた。二人は激しい恋に落ちた。
ピアフが33歳だった、1949年10月、彼女は米国ニューヨークで公演中で、恋人セルダンはニューヨークでおこなわれるタイトルマッチのため、飛行機でパリを出発した。ピアフは、親友のマレーネ・ディートリッヒといっしょに空港へ彼を迎えに行く予定だったという。セルダンの乗った飛行機は、大西洋に墜落し、セルダンは帰らぬ人となった。
その報にピアフは衝撃を受けたが、予定通り公演をおこない、セルダンを思って書いた曲「愛の讃歌」を歌った。ピアフはその後、2度結婚し、1963年10月、ガンのため、リヴィエラで没した。47歳だった。

ピアフのために一幕劇『美男薄情』を書いたジャン・コクトーは、心臓発作を起こして倒れ、療養していた折、ピアフの訃報を聞いて容態が急変し没した。コクトーの命日は、ピアフのそれの翌日である。
仏国におけるピアフの人気は絶大で、彼女の葬儀に際しては、パリ中の商店が店を休み、パリの交通は一時完全にストップしたという。

ピアフが舞台で「愛の讃歌」を歌う映像を見たことがある。すごかった。歌っているうちに、彼女のからだが膨張し、どんどん大きくなる。人が巨大化するということはある。
ピアフのはもう歌などというものではない。歌い手の魂がまるごと、聴き手にぶつかってくる、一種の衝突事故である。危険である。デジタル時代の今日、生ライブの価値はいよいよ高まっているけれど、ピアフのステージこそ、生で見る価値がある一期一会のものだったにちがいない。
(2019年12月19日)



●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


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12月18日・パウル・クレーの戦い

2019-12-19 | 美術
12月18日は、映画監督スティーヴン・スピルバーグ生まれた日(1946年)だが、画家、パウル・クレーの誕生日でもある。

エルンスト・パウル・クレーは、1879年、スイス、ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで生まれた。父親はドイツ人の音楽教師、母親はスイス人だった。エルンストは2人きょうだいで、上に姉がひとりいた。
両親に禁じられた、絵を描く小説ことと、小説を書くことだけが楽しみだったというエルンスト少年は、ポルノチックな絵を描き、異性に強い興味を示すませた男の子だった。
さまざまな女性と関係をもち、放蕩していた20歳のとき、クレーはドイツのミュンヘンの美術学校に入学。しかし、学校のアカデミックな教育がいやで、翌年には退学し、故郷ベルンへ帰り、絵画とバイオリン演奏に打ち込んだ。
26歳で3歳年上のピアノ教師と結婚し、ドイツのミュンヘンに住んだ。生活は伴侶の収入に頼り、クレーは主夫業のかたわら絵を描きつづけたが、作品はなかなか売れなかった。
32歳のころ、カンディンスキーら、前衛芸術家たちと知り合い、また、ピカソやマティスに影響を受け、このころ抽象画に目覚めた。
38歳のころから絵が売れはじめ、41歳のころには、前衛芸術家として認められるようになり、ドイツ、ヴァイマールの美術学校、バウハウスで美術のマイスターとなって学生を教えた。その後、べつの美術学校へ移ったが、ナチスが政権をとると、職場から追いだされ、クレーはスイスへ亡命した。
気管支炎、慢性肺炎に苦しみながら、作品を作りつづけたクレーは、ヨーロッパの第二次世界大戦がはじまっていた1940年6月に、スイスのムラルトで没した。60歳だった。

クレーの作品は当時の共産主義、ファシズムが台頭していた時代背景もあって、頽廃的だとか、左翼的だとか批判され、なかなか認められなかった。ドイツではクレーの絵は、退廃芸術として没収され、亡命先のスイスでも左翼的だとして、クレーはスイス生まれにもかかわらず、生涯スイスの市民権をとることができなかった。

クレーの絵は、五線紙に船が音符がわりに並んでいたり、矢印や数字が描き込まれていたり、不思議な図形で構成されていたり、謎めいていて、見ていると、つい考えさせられてしまうものが多い。頽廃的とか左翼的とかとはピントはずれだが、不可解ではあって、ナチスやスイス当局が嫌ったのもわからないでもない。
現代日本の女性雑誌がクレーの天使の鉛筆デッサンを掲載する感覚で、ただ、「おもしろいなあ」と楽しめれば、それでいいのだろう。

クレーが描いた天使の鉛筆画の線の伸び具合を見ると、
「うまいなあ」
と感心してしまう。やわらかい、しかしためらいのない、天使のように大胆な線。ジャン・コクトーやピカソのデッサンもそうだけれど、すべてを線のなかに封じ込めた、堂々たる線である。凡手ではあそこまで線が伸びない。ああいう線が引けるようになりたい。
(2019年12月18日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯──美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


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12月17日・夏目雅子の機知

2019-12-17 | 映画
12月17日は「楽聖」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが洗礼を受けた日(1770年)だが、この日はまた女優、夏目雅子の誕生日でもある。

夏目雅子は、1957年、東京で生まれた。誕生時の本名は、小達雅子。彼女の家は、徳川将軍家の御典医の家系で、彼女の父親は貿易商で、家は輸入雑貨屋をしていた。彼女は、3人きょうだいのまんなかで、兄と弟にはさまれた紅一点だった。
短大生だった19歳のころ、コマーシャルに出演して、大学を中退。その翌年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のコマーシャルに登場。夏目雅子として一躍、日本を代表する美人モデルとなった。
その後、女優業へ進出し、映画「鬼龍院花子の生涯」「時代屋の女房」「瀬戸内少年野球団」に出演した後、1985年9月、白血病のため入院していた東京の病院で没した。27歳だった。美人薄命と騒がれた。

生前、夏目雅子がインタビューで答えていた。
「好きな男性のタイプですか? 憂鬱という漢字をすらすら書けたり、喫茶店のお勘定をすぐに計算できたりする人が好きです」
それを聞き、あわてて「憂鬱」と書けるよう書き取り練習をしだした。
その後、夏目雅子は、「クッキーフェイス」の撮影時に知り合った広告マン伊集院静と不倫の恋愛関係をへた後に結婚した。広告をやめた伊集院は、夏目にはげまされながら小説を書き、直木賞をとった。なんのことはない、好きな男性のタイプではなく、好きな男性の特徴をしゃべっただけだったと知れた。

夏目雅子が、肌の露出の多い「クッキーフェイス」のコマーシャルに出演したとき、10歳年下の弟さんが怒り、彼女は家の階段の上から弟に蹴落とされたことがあると、以前彼女が語っていた。

伊集院静が、雑誌のインタビューで、こういう意味をことを言っていた。
「女優と結婚した男は、ただそれだけの理由で、同性からひどく憎まれる」
夏目雅子の弟の気持ちも、伊集院を憎む男性の気持ちも、とてもよくわかる。
男の嫉妬は醜いものだ。

夏目雅子は俳人の一面をもっていて、彼女の俳句はウィットに富み、素敵である。

 結婚は夢の続きやひな祭り

 水中花何想う水の中

 風鈴よ自分で揺れて踊ってみたまえ

 恋猫やなおやかに泣く間夫の宿

俳句を読んで、はじめて、夏目雅子という人間性に、はじめてすこしだけ触れた気がした。それまで、彼女の容姿だけを見て、阿呆のようにあこがれていた餓鬼だった。彼女にはもっと長生きして、もっといろいろな面を見せてほしかった。
(2019年12月17日)



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『ほんとうのこと』(ぱぴろう)
美麗なデッサンの数々と、人生の真実を突いた箴言を集めた格言集。著者が生きてきたなかで身にしみた「ほんとうのこと」のみを厳選し、一冊にまとめた警句集。生きづらい日々を歩む助けとなる本の杖。きびしい同時代を生きるあなたのために。


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12月16日・フィリップ・K・ディックの問い

2019-12-16 | 文学
12月16日は、『金色夜叉』を書いた尾崎紅葉(慶応3年)が生まれた日だが、SF作家のフィリップ・K・ディックの誕生日でもある。SF映画「ブレードランナー」「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」などの原作者である。

フィリップ・キンドレド・ディックは、1928年、米国イリノイ州のシカゴで、政府役人の息子として生まれた。フィリップは双子として生まれ、もう一方の妹は誕生後しばらくして死亡した。彼の小説に、双子のまぼろしのイメージが登場するのはこのためだと言われる。
ディックは、大学を中退した後、働きながらSF小説を書いた。
そうして、35歳の年に、SF小説『高い城の男』でヒューゴー賞を受賞し、一躍その名を知られた。
以後、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『流れよ我が涙、と警官は言った』『暗闇のスキャナー』などを書き、人間存在について深く考察する独特の作風で、SFというジャンルを越えて高く評価された。
生涯に5度結婚し5度離婚し、1982年3月、脳卒中で没した。53歳だった。
彼の遺灰は双子の妹と同じ墓に葬られた。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、拙著『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』で取り上げた。SF映画の名作として知られる「ブレードランナー」の原作である。

この『電気羊』には、感服した。人間より人間らしいアンドロイドたちが、人間社会のなかにまぎれて暮らしている未来の話だけれど、まず、文章の密度が濃い。ハードボイルド・タッチの探偵小説を読んでいるようにおもしろく、ずんずん読み進めるうち、
「血が通っていれば、人間か?」
「人間である最低限の条件とは、なにか?」
「人間とはなにか?」
「おまえは、はたして人間か?」
などと、小説がこちら読者の胸倉をつかんで揺さぶってくる。問い詰められる。
重たいものを受けとらされる小説である。
すごい才能の作家で、まだ読んでいない方は、おすすめです。
人間らしく、生きたいなあ、と。
(2017年12月16日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ポール・マッカートニー/メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


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12月15日・ザメンホフの語

2019-12-15 | 歴史と人生
12月15日は、仏国のエッフェルが生まれた日(1832年)だが、ポーランドの医者で言語学者のザメンホフの誕生日でもある。エスペラント語を作った人である。

ルドヴィコ・ザメンホフは、1859年、現在のポーランドのビャウィストクにあるユダヤ人家庭に生まれた。本名は、エリエゼル・レヴィ・ザメンホフ。
当時、彼の故郷はロシア領で、いろいろな民族がいて、ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、それからヘブライ語の混じったイディッシュ語など、いろいろな言語が飛び交っていた。そうした環境で育ったザメンホフは、人々がコミュニケーションをとるための国際語を作るべきだと早くから考えだし、中学校のころから国際語の構想を練っていたという。
26歳のころにワルシャワの大学を卒業したザメンホフは、眼科医となって開業し、仕事のかたわら、国際語の構築をつづけ、28歳の年に著書『エスペラント博士、国際語、序文と完全なテキスト』を出版、ここにエスペラント語が公表された。
「エスペラント」というのは「希望する者」という意味らしい。
ザメンホフは、1917年4月、ワルシャワで没した。57歳だった。
彼には、子どもが3人いたが、みな、ナチスのホロコーストによって殺された。

最近はほとんど見かけなくなったけれど、昔は街で「エスペラント語教室」の看板をよく見かけた。エスペラント語は、世界共通語を目指して作られた人口の言語で、知り合いにもひとり、エスペラント語ができる人がいるけれど、これができると、真のコスモポリタンにちがいない。

エスペラントを話す「エスペランティスト」の人口は、世界全体で100万人くらいらしい。
コンピュータやインターネットの普及のおかげで、いまでは英語が国際言語として優勢だけれど、これがもしも、コンピュータのプログラムがみな、エスペラント語で書かれていたとしたら、どうだったろうか。

高校時代、成績の悪いクラスメイトが、こんなことを言っていた。
「まったく日本が戦争に負けたから悪いんだ。日本が世界を制服していれば、もう世界中、日本語が通じるから、オレが英語でこんなつらい思いをすることもなかったんだ」
民族主義というのは、言語に貼りついているもので、ザメンホフの意識の高さには頭が下がる。
(2019年12月15日)



●おすすめの電子書籍!

『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


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12月14日・ティコ・ブラーエの目

2019-12-14 | 科学
12月14日は、堀部安兵衛ら赤穂浪士四十七士が吉良邸へ討ち入りした忠臣蔵の日だが、この日は、天文学者ティコ・ブラーエの誕生日でもある。

ティコ・ブラーエは、デンマークの貴族の生まれで、1546年に生まれた。
20歳のころには、数学の公式の正誤をめぐってべつの貴族と決闘をし、鼻柱を切りとられるという事件を起こし、それ以降、彼は金属製の鼻を張り付けて暮らした。
当時は、天動説の時代。まだ望遠鏡のないころのことで、ブラーエは自分の目で天体観測をつづけた。おそらく、肉眼での天体観測者としては、人類史上最高の精度をもった観測者だった。
われわれが夜空を見上げて、
「星がきれいだなあ」
と言っているのとは、レベルがちがう目のもち主で、ものすごく微細な光をブラーエの目はとらえていた。彼はカシオペヤ座の超新星を発見し、1年以上もその星を肉眼で観測し追いつづけた。
晩年、53歳のころ、ブラーエはプラハへ行き、神聖ローマ帝国の宮廷付きの天文学者となった。当時のことだから、占星術師も兼ねていたろう。
一説によると、ブラーエは、晩餐会でトイレに立つのをがまんして、膀胱が破裂して死んだと言われているが、水銀中毒説もある。ブラーエは1601年10月、54歳で没した。

ブラーエの名前は、高校時代、物理の授業中に知った。
物理の教師がブラーエのとケプラーのことを紹介してくれた。

彼が残した記録を、ブラーエの助手で、彼の後を継いで宮廷占星術師となった、25歳年下のヨハネス・ケプラーが分析して、ケプラーの第一、第二、第三法則の大発見につながった。
英国で活躍したドイツ人、ウィリアム・ハーシェルが、自作の望遠鏡で天王星を発見するのは、ブラーエが没して、180年後のことになる。

人間が、ほかの動物よりも繁栄している理由は、いろいろあるけれど、そのひとつは、文字による情報・知識の記録・伝達である。ブラーエからケプラーへ受け継がれたような知識。これがなかったら、人類の文明はこんなに発達していない。
知識の伝達、蓄積がなく、生まれた人間がいつも白紙の状態から文明をゼロから築き上げなくてはならないのだったら、いつまでたっても、ほら穴暮らしの狩猟生活で、コンビニでおにぎりを買って食べる都会生活にたどりつけない。だから、先人の書いたものを読むし、なにかしら文明に寄与できたらとこうやって書いている。果たして、読むに値するか否かは覚束ないけれど。鼻を失ったブラーエの目に感謝。
(2019年12月14日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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12月13日・ハイネの魔法

2019-12-13 | 文学
12月13日は、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの誕生日である。
「なじかは知らねど、心わびて……」、あの魅惑の詩「ローレライ」の作者である。

クリスティアン・ヨハン・ハインリッヒ・ハイネは、1797年、ドイツのデュッセルドルフに、布地を扱うユダヤ人商人を父親として生まれた。ハインリッヒは4人きょうだいのいちばん上の子どもである。母親は医者の娘で、ハインリッヒの妹も医者になっている。弟はウィーンで新聞を発行し男爵となっている。知的レベルの高い家庭だった。
ナポレオンがフランス皇帝になったのは、ハイネが6歳のとき。
当時のドイツでは文章を書いた原稿料で生計を立てるのは困難で、大学をでたハイネは、職につけないまま、北海のほとりに滞在して詩想をねったりしていた。
そんなとき、ハンブルクでたまたま知り合った出版社社長と意気投合し、ハイネは『旅の絵』という紀行文集を出版することになった。28歳のころで、これがひじょうな好評を博し、つづけて出版されたのが詩集『歌の本』だった。「ローレライ」が含まれているこの本は大ヒットし、ハイネは有名な詩人兼ジャーナリストとなった。
ただし、ハイネは愛の詩を歌うばかりでなく、ドイツの各層の狂信的な愛国主義に鋭い批判をあびせたり、自分がユダヤ人であることをこきおろす文筆家と壮絶な泥仕合の批判合戦をくり広げたりする、怒れるジャーナリストでもあった。
結局、ドイツ国民すべてを敵にまわした恰好で、ハイネは33歳のとき、フランス・パリに移住する。ハイネはパリで、ショパン、リスト、ロッシーニ、バルザック、ユゴー、デュマらと交流を深め、若きカール・マルクスとかたい友情を結んだ。
 この異国の都で『ドイツ・ロマン派』『ロマンツェーロー』を書いたハイネは、50歳前後から麻痺を抱えるようになり、1856年、58歳で亡くなっている。

ハイネが大好きで、彼の著書や研究書をたくさんもっている。
ハイネはことばの魔法使いだった。ハインリッンヒ・ハイネという名前自体、すでに詩的だが、彼はアダムとイヴについて、こう書いた。
「イヴはりんごを食べて知恵がついた。さて、知恵のついた女性がまず考えるのは、ドレスのことである」

ハイネは若いころ、あこがれのゲーテに会っている。その印象を彼はこう記している。
「彼の眼は神の眼のように静かであった。(中略)神々の眼はいつも決して動かないからである。ナポレオンの眼もこの特質をもっていた。それ故に私は、ナポレオンは神であったと確信している。ゲーテの眼は、高齢になっても青年時代と同じように、つねに神々しかった。歳月はいかにも彼の頭を雪でおおいはしたけれども、それをかがませることはできなかった。彼はその頭を、同じように変ることなく昂然ともたげていた。そして口をひらくと彼はいよいよ偉大になった。彼は、手をのばせば、天上の星たちに、その進路をさし示すことができるかのようであった。(中略)それは、すでに私がさきにゲーテをそれと比較したところの、神々の父であるジュピターにもそなわっているものなのだ。じっさい私は、ゲーテをヴァイマールに訪ねて、彼に向いあった時、稲妻を嘴にくわえた鷲が彼と並んでいはしないかと、思わずかたわらを見たのであった。私はあやうくギリシャ語で彼に語りかけるところだった。」(『ドイツ・ロマン派』山崎章甫訳)
ため息がでるような才筆である。
(2019年12月13日)



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12月12日・ムンクの現代性

2019-12-12 | 美術
12月12日は、「叫び」の画家ムンクの誕生日である。

エドヴァルド・ムンクは、1863年、ノルウェーのロイテンで生まれた。父親は医者だった。
ムンクは、5歳のときに母親を亡くし、その後はおばの手で育てられた。子どものころは気管支炎などで病気がち、学校も休みがちで、家で絵を描いたり、おばに勉強を教わったりしていた。そういう幼少時の体験が、あのムンクの独特な画風の一因子になっているのかもしれない。
父親の意向で技師になるべく工業学校へ進んだエドヴァルドは、16歳で病気で同校を退学し、画家を目指す腹を決めた。
王立の絵画学校に入学し、18歳のころから油彩画を展覧会に出品しだしたが、作品はなかなか評価されなかった。
25歳のとき、初の個展を開き、奨学金を得てフランス・パリへ留学。
2年半ほどのパリ留学からノルウェーにもどったムンクは、このころから作風を大きく変え、ものの形や色彩を単純化し、デフォルメした独特の境地へと歩みだした。
28歳から約4年間にわたるドイツ・ベルリン在住、その後の1年半にわたるパリ時代をへて、33歳のころ、母国で個展を開いたころからしだいに評価が高まってきた。
死や幽霊といったテーマをさかんに描いたムンクは、44歳のころ、アルコール依存症となり、みずから発狂する可能性を感じて精神病院に入院したが、皮肉なことに、この入院中に彼の評価は急速に高まり、決定的なものになった。
退院したとき、彼はすでに大家となっていた。
1930年代、ドイツでナチスが台頭すると、彼の作品は退廃的だとしてまずドイツで排斥され、続いて、ノルウェーへ侵略してきたナチス・ドイツによって、自宅から「叫び」「病気の子ども」など絵画70点以上が没収され、ムンクはアトリエにこもる孤独な創作生活をおくった。そうして、第二次世界大戦中の1943年の暮れに彼は気管支炎を再発し、翌1944年1月に没した。80歳だった。

2012年5月に、ニューヨークで競売にかけられたムンク作のパステル画「叫び」が1億1990万ドル(約96億円)で落札され、評判になった。
「叫び」は傑作だけれど、自宅に飾りたいとは思わない。

よく知られるムンクの絵は、空や背景が悪意をもっているかのように渦巻いたり、人物の後ろにその影が当人にのしかかろうとしているように大きくそびえたりしていて怖い。
ただし「叫び」「マドンナ」「吸血鬼」などの怖い画風の代表作は、ムンクが30代だった19世紀末に描かれたもので、彼はずっとあの手の絵ばかり描いたわけではなかった。

それにしても、百年以上前に描かれたというのに、まったく古びない、この現代性は、いったいなんなのだろう。絵でなく、現代のほうが古びてきているのかもしれない。
(2019年12月12日)



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