1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月19日・エディット・ピアフの巨大

2019-12-19 | 音楽
12月19日は、12月19日は、孤高の作家、埴谷雄高の誕生日(1909年)だが、歌手、エディット・ピアフの誕生日でもある。

エディット・ピアフは、1915年、仏国パリで生まれた。本名は、エディット・ジョヴァンナ・ガション。父親は大道芸人。母親はイタリア系で、カフェの歌い手だった。
エディットは、3歳ごろから数年間、角膜炎で目が見えなかったといい、貧しい環境のなか、親戚をあいだを行ったり来たりし、祖母の経営する売春宿の娼婦やその客たちなど、市井に生きるさまざまな人々に触れながら育った。
エディットは、20歳のころからナイトクラブの歌手となり、142センチメートルほどだったというその小柄さから「小さなピアフ(スズメの意)」と呼ばれるようになり、彼女はエディット・ピアフとなった。
第二次大戦中は、彼女はナチスによる占領下のパリでレジスタンスに協力しながら歌いつづけ、その小さなからだの全身からあふれだす豊かな声量の歌で人気を獲得していった。戦後は、みずから詞を書いた「ばら色の人生」「愛の讃歌」が大ヒットし、その名声はフランス国内にとどまらず、世界的なものとなった。
30代のころ、ピアフはプロボクサーの世界王者だったマルセル・セルダンと出会った。はじめて合ったとき、セルダンは、
「なぜ悲しい歌ばかり歌うの?」
と尋ねた。ピアフは、
「なぜ人を殴るの?」
と聞いた。二人は激しい恋に落ちた。
ピアフが33歳だった、1949年10月、彼女は米国ニューヨークで公演中で、恋人セルダンはニューヨークでおこなわれるタイトルマッチのため、飛行機でパリを出発した。ピアフは、親友のマレーネ・ディートリッヒといっしょに空港へ彼を迎えに行く予定だったという。セルダンの乗った飛行機は、大西洋に墜落し、セルダンは帰らぬ人となった。
その報にピアフは衝撃を受けたが、予定通り公演をおこない、セルダンを思って書いた曲「愛の讃歌」を歌った。ピアフはその後、2度結婚し、1963年10月、ガンのため、リヴィエラで没した。47歳だった。

ピアフのために一幕劇『美男薄情』を書いたジャン・コクトーは、心臓発作を起こして倒れ、療養していた折、ピアフの訃報を聞いて容態が急変し没した。コクトーの命日は、ピアフのそれの翌日である。
仏国におけるピアフの人気は絶大で、彼女の葬儀に際しては、パリ中の商店が店を休み、パリの交通は一時完全にストップしたという。

ピアフが舞台で「愛の讃歌」を歌う映像を見たことがある。すごかった。歌っているうちに、彼女のからだが膨張し、どんどん大きくなる。人が巨大化するということはある。
ピアフのはもう歌などというものではない。歌い手の魂がまるごと、聴き手にぶつかってくる、一種の衝突事故である。危険である。デジタル時代の今日、生ライブの価値はいよいよ高まっているけれど、ピアフのステージこそ、生で見る価値がある一期一会のものだったにちがいない。
(2019年12月19日)



●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月18日・パウル・クレーの戦い

2019-12-19 | 美術
12月18日は、映画監督スティーヴン・スピルバーグ生まれた日(1946年)だが、画家、パウル・クレーの誕生日でもある。

エルンスト・パウル・クレーは、1879年、スイス、ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで生まれた。父親はドイツ人の音楽教師、母親はスイス人だった。エルンストは2人きょうだいで、上に姉がひとりいた。
両親に禁じられた、絵を描く小説ことと、小説を書くことだけが楽しみだったというエルンスト少年は、ポルノチックな絵を描き、異性に強い興味を示すませた男の子だった。
さまざまな女性と関係をもち、放蕩していた20歳のとき、クレーはドイツのミュンヘンの美術学校に入学。しかし、学校のアカデミックな教育がいやで、翌年には退学し、故郷ベルンへ帰り、絵画とバイオリン演奏に打ち込んだ。
26歳で3歳年上のピアノ教師と結婚し、ドイツのミュンヘンに住んだ。生活は伴侶の収入に頼り、クレーは主夫業のかたわら絵を描きつづけたが、作品はなかなか売れなかった。
32歳のころ、カンディンスキーら、前衛芸術家たちと知り合い、また、ピカソやマティスに影響を受け、このころ抽象画に目覚めた。
38歳のころから絵が売れはじめ、41歳のころには、前衛芸術家として認められるようになり、ドイツ、ヴァイマールの美術学校、バウハウスで美術のマイスターとなって学生を教えた。その後、べつの美術学校へ移ったが、ナチスが政権をとると、職場から追いだされ、クレーはスイスへ亡命した。
気管支炎、慢性肺炎に苦しみながら、作品を作りつづけたクレーは、ヨーロッパの第二次世界大戦がはじまっていた1940年6月に、スイスのムラルトで没した。60歳だった。

クレーの作品は当時の共産主義、ファシズムが台頭していた時代背景もあって、頽廃的だとか、左翼的だとか批判され、なかなか認められなかった。ドイツではクレーの絵は、退廃芸術として没収され、亡命先のスイスでも左翼的だとして、クレーはスイス生まれにもかかわらず、生涯スイスの市民権をとることができなかった。

クレーの絵は、五線紙に船が音符がわりに並んでいたり、矢印や数字が描き込まれていたり、不思議な図形で構成されていたり、謎めいていて、見ていると、つい考えさせられてしまうものが多い。頽廃的とか左翼的とかとはピントはずれだが、不可解ではあって、ナチスやスイス当局が嫌ったのもわからないでもない。
現代日本の女性雑誌がクレーの天使の鉛筆デッサンを掲載する感覚で、ただ、「おもしろいなあ」と楽しめれば、それでいいのだろう。

クレーが描いた天使の鉛筆画の線の伸び具合を見ると、
「うまいなあ」
と感心してしまう。やわらかい、しかしためらいのない、天使のように大胆な線。ジャン・コクトーやピカソのデッサンもそうだけれど、すべてを線のなかに封じ込めた、堂々たる線である。凡手ではあそこまで線が伸びない。ああいう線が引けるようになりたい。
(2019年12月18日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯──美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする