1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月18日・パウル・クレーの戦い

2021-12-18 | 美術
12月18日は、映画監督スティーヴン・スピルバーグ生まれた日(1946年)だが、画家、パウル・クレーの誕生日でもある。

エルンスト・パウル・クレーは、1879年、スイス、ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで生まれた。父親はドイツ人の音楽教師、母親はスイス人だった。エルンストは2人きょうだいで、上に姉がひとりいた。
両親に禁じられた、絵を描く小説ことと、小説を書くことだけが楽しみだったというエルンスト少年は、ポルノチックな絵を描き、異性に強い興味を示すませた男の子だった。
さまざまな女性と関係をもち、放蕩していた20歳のとき、クレーはドイツのミュンヘンの美術学校に入学。しかし、学校のアカデミックな教育がいやで、翌年には退学し、故郷ベルンへ帰り、絵画とバイオリン演奏に打ち込んだ。
26歳で3歳年上のピアノ教師と結婚し、ドイツのミュンヘンに住んだ。生活は伴侶の収入に頼り、クレーは主夫業のかたわら絵を描きつづけたが、作品はなかなか売れなかった。
32歳のころ、カンディンスキーら、前衛芸術家たちと知り合い、また、ピカソやマティスに影響を受け、このころ抽象画に目覚めた。
38歳のころから絵が売れはじめ、41歳のころには、前衛芸術家として認められるようになり、ドイツ、ヴァイマールの美術学校、バウハウスで美術のマイスターとなって学生を教えた。その後、べつの美術学校へ移ったが、ナチスが政権をとると、職場から追いだされ、クレーはスイスへ亡命した。
気管支炎、慢性肺炎に苦しみながら、作品を作りつづけたクレーは、ヨーロッパの第二次世界大戦がはじまっていた1940年6月に、スイスのムラルトで没した。60歳だった。

クレーの作品は当時の共産主義、ファシズムが台頭していた時代背景もあって、頽廃的だとか、左翼的だとか批判され、なかなか認められなかった。ドイツではクレーの絵は、退廃芸術として没収され、亡命先のスイスでも左翼的だとして、クレーはスイス生まれにもかかわらず、生涯スイスの市民権をとることができなかった。

クレーの絵は、五線紙に船が音符がわりに並んでいたり、矢印や数字が描き込まれていたり、不思議な図形で構成されていたり、謎めいていて、見ていると、つい考えさせられてしまうものが多い。頽廃的とか左翼的とかとはピントはずれだが、不可解ではあって、ナチスやスイス当局が嫌ったのもわからないでもない。
現代日本の女性雑誌がクレーの天使の鉛筆デッサンを掲載する感覚で、ただ、「おもしろいなあ」と楽しめれば、それでいいのだろう。

クレーが描いた天使の鉛筆画の線の伸び具合を見ると、
「うまいなあ」
と感心してしまう。やわらかい、しかしためらいのない、天使のように大胆な線。ジャン・コクトーやピカソのデッサンもそうだけれど、すべてを線のなかに封じ込めた、堂々たる線である。凡手ではあそこまで線が伸びない。ああいう線が引けるようになりたい。
(2019年12月18日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯──美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 12月17日・夏目雅子の機知 | トップ | 12月19日・エディット・ピア... »

コメントを投稿

美術」カテゴリの最新記事