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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月24日・ニミッツの目標

2024-02-24 | 個性と生き方
2月24日は、コンピュータのアップル社の創立者、スティーブ・ジョブズが生まれた日(1955年)だが、米国海軍のチェスター・ニミッツ元帥の誕生日でもある。

チェスター・ウィリアム・ニミッツは、1885年、米国テキサス州フレデリックスバーグで生まれた。ドイツ系の家系で、家はホテルを経営していた。チェスターの父親は彼が生まれる前に没し、チェスターは祖父から強い影響を受けた。祖父は若いころ、ドイツの商船に乗り込んでいた元船乗りで、孫にこう教えたという。
「海はまるで人生そのもの、きびしい教師だ。もっともいいのは、学べることをすべて学び、ベストを尽くし、後悔しないことだ、とくに不可抗力のことについては」
祖父のホテルを手伝いながら育ったチェスターは、はじめウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)を希望していたが、同校への推薦が得られず、推薦が得られたアメリカ海軍兵学校へ16歳で入学した。こうしてテキサス生まれの彼は海へ出ることになった。
兵学校を卒業した20歳のとき、乗り込んだ戦艦が日本に寄港。ニミッツは、ロシア・バルチック艦隊を破ったばかりの連合艦隊司令長官、東郷平八郎と会って話したという。
第一次世界大戦中は潜水艦司令部の参謀だったニミッツは、1941年の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃のニュースを、自宅のラジオで知った。46歳の彼は、ただちに米国海軍の太平洋艦隊司令長官に任命され、少将から飛び級で大将に昇格。彼は、マッカーサー陸軍大将が指揮する南西太平洋方面を除く太平洋方面の全軍を指揮することになった。
彼は空母、航空機の戦力増強に努め、潜水艦を含めた太平洋のゲリラ攻撃を推進し、また、本国政府からの意見よりも、現場の意見を重視して人事をおこなった。
1942年、47歳のとき、日本海軍がミッドウェー島を攻略しようとして奇襲攻撃をしかけたのをニミッツは先に読んで戦力増強して対応し、日本艦隊の主力を壊滅させた。これによって、戦局は大きく連合国側に傾き、日本は敗戦への道をたどりだした。
49歳で元帥に昇進。日本が無条件降伏するにあたり、米国代表として戦艦「ミズーリ」号上での降伏調印の署名に臨んだ。そしてニミッツは戦後、52歳で引退した。
引退後は、日米関係の修復と、東郷平八郎関連の施設の復興に尽力した後、1966年2月、脳卒中と肺炎により没した。81歳になる4日前だった。

太平洋戦争で、日本は要するにニミッツに負けた。日本を敬い、日本を打ち負かした彼は、男前で聡明で、謙虚な人物だった。

ニミッツは、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下に当初は反対していたが、周囲に説得された。日本の降伏を知ったニミッツは、ただちに麾下の全軍に対して、日本人をののしったり、虐待したりしないよう厳命を下した。

ミッドウェー沖海戦で勝利したニミッツは、日本軍の敗因を、敵に勝る大軍を率いて奇襲の必要がないのに奇襲を試みたことと、目標をひとつにしぼらなかったことだと分析した。ニミッツは攻撃目標を「日本の機動部隊の空母」と明確にしていた。
日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎は、砲撃目標を敵バルチック艦隊の旗艦に集中させた。ニミッツは39歳のとき、東郷平八郎の国葬に立ち会っている。彼の目標明確化の戦術方針は、尊敬する東郷を見習ったものだろう。
(2024年2月24日)



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