1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月16日・ダランベールの知性

2018-11-16 | 思想
11月16日は、シンガーソングライター、来生たかおが生まれた日(1950年)だが、フランス百科全書派のダランベールの誕生日でもある(11月17日生まれとする文献も)。

ジャン・ル・ロン・ダランベールは、1717年、フランスのパリで生まれた。彼は生まれるとすぐ、ノートルダム寺院に隣接する聖ジャン・ル・ロン教会の入口の石段の上に、木の箱に入れて置き去りにされた。この時点ではまだ名前がなかった。
赤子は捨て子の収容所に送られ、教会の名にちなんでジャン・ル・ロンと名付けられ、パリの北方の村に里子に出された。後に知れたところによると、ジャンを捨てた母親は、枢機卿の妹クローディーヌ・アレクサンドリーヌという当時32歳の女で、パリの社交界でいく人かの男性と関係をもつうちにお腹が大きくなり、産み落とした子を教会の石段に置き、知らぬ顔をしたのだった。父親はそのとき外国にいた貴族の砲兵将校ルイ=カミュ・デトッシュで、彼は帰国して事情を知ると、すぐに子どもをさがしはじめた。見つけ出した息子ジャンをガラス職人の妻に預け、養育費を仕送りし、子どもに「ダランベール」という姓を授けた。それで彼の名はジャン・ル・ロン・ダランベールということになった。
ジャンが9歳のとき、父親は没した。父親は彼が暮らしていけるよう年金を残していき、ジャンは養母に愛情をもって育てられた。
ジャンは寄宿舎付きの小学校を抜群の成績で出ると、貴族の子息の入る学校、コレージュに入学した。彼は数学が好きだった。コレージュを卒業後、法律学校に通い、21歳で弁護士の資格を手にした後、数学への興味を捨てきれず、数学者として生きることに決めた。
21歳のとき、はじめての論文を科学アカデミーに提出したのを皮切りに数々の論文を発表。26歳の年に発表した『動力学論』のなかで「ダランベールの原理」を展開。これは力学上の画期的事件で、ほかに『液体の均衡と運動論』『風の一般理論』などを書いた。
ダランベールは29歳のころから、友人のディドロに協力して『百科全書』の編集にたずさわった。彼は数学部分を担当し、知人に原稿を依頼し、みずから『百科全書』の序文も書いた。ダランベールの名声はしだいにヨーロッパに広まり、ドイツのフリードリッヒ2世や、ロシアのエカチェリーナ2世から招かれた。彼はそれらの誘いを丁重に断った。
37歳のとき、彼はアカデミー・フランセーズ会員に選出され、その後も『百科全書』を作っていたが、教会側からの妨害に、ルソーとの決裂が重なり、嫌気がさして、42歳のころ、編集作業から手を引いた。
59歳のころ、恋人と死別したダランベールは家に引きこもりがちになった。それでも彼に会いたがる来客は絶えず、その名声は国内外で高まっていった。
1783年10月、膀胱結石のため没した。65歳だった。育ての母親と、貧しい人々に財産を残し、教会の牧師に会うことを拒否し「不信者」として逝った。

現代日本において、知性を信頼して生きている人はなかなかいない。たいていの人は、まわりを見まわし、見よう見まねで、動物として生きている。

ディドロの書いた本を読んでダランベールを知った。
ダランベールは、もっとも聡明な時代と言われるフランスのヴォルテールの時代に、まさに知性への信頼を貫いて生きた代表的知識人だった。18世紀のポール・ヴァレリーである。それにしても、教会の階段に置かれた捨て子だったという人生の出発点はすごい。
(2018年11月16日)


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