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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月25日・バーンスタインの勘

2017-08-25 | 音楽
8月25日は、映画俳優ショーン・コネリーが生まれた日(1930年)だが、作曲家・指揮者のレナード・バーンスタインの誕生日でもある。

レナード・バーンスタインは、1918年、米国マサチューセッツ州のローレンスで生まれた。生まれたときの本名は、ルイス・バーンスタインだったが、家族やまわりの人が「レナード」と呼び、本人も気に入って、16歳のときに「レナード・バーンスタイン」に改名した。両親はウクライナからやってきたユダヤ人の移民夫婦で、父親は化粧品店をやっていた。
小さいころのレナードは、なにもやる気のない、ろくに笑ったこともない子どもだった。10歳のとき、彼は自宅の屋根裏部屋で、古いピアノを見つけた。彼の両親はピアノを弾かず、親戚の叔母が置いていったものだった。レナード少年は、ちっと触ってみて、たちまち演奏の喜びに打たれたという。
「その瞬間から、音楽は永遠に私のものになり、翌日には、私はもう別人のようでした。」(レナード・バーンスタイン、エンリーコ・カスティリオーネ共著、西元晃監訳、笠羽映子訳『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)
ピアノをはじめたバーンスタインは急に成績優秀な、スポーツもやる積極的な少年に生まれ変わった。しばらくは自分で和音を作りピアノを弾いていたが、やがて、近所にピアノ教師を見つけてレッスンに通いだし、やがて彼が逆に教師にショパンを教えるほどになった。そのピアノ教師の勧めによって、彼はもっと高いレッスン料をとる教師のところへ通いだし、そのお金を捻出するために、ジャズ・バンドでピアノを弾きだした。
17歳でハーヴァード大学の音楽学部に入り、20歳のとき、自作曲を曲目リストに入れたピアノ・リサイタルを開催。21歳で大学を卒業した後は、フィラデルフィの音楽院で指揮、ピアノ、オーケストレーションを学び、23歳で卒業。
第二次世界大戦中の1943年、25歳の年に、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の副指揮者となった。同年の11月、ブルーノ・ワルターの代役を務め、大成功。以後、米国やイスラエルの音楽監督をへて、39歳のとき、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。指揮の身ぶりが派手すぎると非難を浴びたりしつつも、カラヤン、ショルティらとともに、世界のクラシック界のスターとして君臨した。指揮のほか、バーンスタインは、ピアノ曲、交響曲、ミュージカルなどの作曲も手がけ、ヒット曲「トゥナイト」を含む映画「ウェスト・サイド物語」の音楽も彼の作品である。
1990年8月、弟分の小澤征爾が音楽監督を務めるボストン交響楽団を指揮した後、同年10月、肺気腫により没した。72歳だった。

バーンスタインは天才肌の人で、カラヤンが論理力と意志力で音楽を構成するところ、バーンスタインは勘でそれをおこなって、流麗、華麗な演奏を作り上げた。

バーンスタインは、肺気腫の診断を何度も下されていたが、それでもたばこをやめられなかった。彼の吸うたばこの煙で、先に奥さんが亡くなった。やもめになった彼はしばらくのあいだ、落ち込み、絶望し、死んだも同然だったらしい。それでも、
「けれども、もし私が今、突然、煙草を吸ったりお酒を飲んだりするのを止めたら、私は明日には死んでしまうでしょう。」(同前『バーンスタイン 音楽を生きる』)
天才バーンスタインは、人間くさい人だった。
(2017年8月25日)



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