8月21日は、ビッグバンド・ジャズの大物、カウント・ベイシーが生まれた日(1904年)だが、英国の画家ビアズリーの誕生日でもある。
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、1872年に英国イングランドのブライトンで生まれた。父親は祖父からもらった遺産で暮らしていたが、それをつかいきると、不定期にビール工場で働いた。母親は軍人の娘で、ピアノ教師をして家計を支えた。ヴィンセントはからだの弱い子どもで、9歳のころから、結核の症状を見せていたが、11歳のころから、ひとつ年上の姉とともに演奏会を開き、その音楽、芸術方面の天才を認められていた。姉は後に女優になった。
グラマー・スクールを出た彼は、17歳で保険会社の事務員となった。そこで働きながら、17歳のとき、はじめて雑誌に詩を発表し、19歳のときには、雑誌にデッサンが載った。
事務から解放され、芸術の仕事をしたいと考えたヴィンセントは、姉とともに高名な画家であるバーン-ジョーンズを訪ねていき、追い払われそうになったが、幸運にも会うことができた。ヴィンセントは大画家に見せた絵を褒められ、美術学校の夜間クラスに入るよう勧められた。彼はアドバイスにしたがい、19歳ではじめて美術の教育を受けた。
20歳のとき、保険会社を辞め、本格的に画家としてやっていくことを決心。以後、書籍や雑誌に、世紀末的、頽廃的で、かつ洗練された、独特の挿絵を発表し、雑誌の編集にも携わった。
21歳のとき、ワイルドの戯曲『サロメ』の挿絵を担当。
1895年、ビアズリーが23歳の年に、ワイルドが当時の英国にはあった男色の罪で逮捕され、投獄されるというスキャンダルが起きた。ビアズリーには無関係の事件だったが、社会の非難は彼にも及び、彼はいったんフランスへ逃れた。
その後も、挿画や詩、小説などを書いた後、医師にすすめられ、健康のために転地していた先の南仏のマントンで、1898年3月、結核のため没した。25歳だった。
生前からビアズリーはこう言っていたという。
「ぼくは、キーツより長くは生きられないだろう」(I shall not live much longer than did Keats.)
ジョン・キーツは25歳と4カ月で亡くなった英国ロマン派の詩人で、ビアズリーのほうが3カ月ほど長生きだった。
ビアズリーの影響は多大で、日本でも、手塚治虫や、米倉斉加年、魔夜峰央ほかたくさんのの絵描きが影響を受けているし、クリムトの絵画の構図にもビアズリーの影響が見られる。ビアズリーのエロティックで背徳的な雰囲気と、すべての色彩を白と黒に還元し、すべての視覚を一本の線に封じ込めた洗練は美術史上でも屹立している。
ビアズリーは言っている。
「もちろん、わたしはひとつの意図、グロテスク、をねらっている。もしもわたしの絵がグロテスクでなかったら、わたしに意味はない。(Of course, I have one aim, the grotesque. If I am not grotesque I am nothing.)」(Finest Quotes.com: http://www.finestquotes.com/)
(2017年8月21日)
●おすすめの電子書籍!
『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、1872年に英国イングランドのブライトンで生まれた。父親は祖父からもらった遺産で暮らしていたが、それをつかいきると、不定期にビール工場で働いた。母親は軍人の娘で、ピアノ教師をして家計を支えた。ヴィンセントはからだの弱い子どもで、9歳のころから、結核の症状を見せていたが、11歳のころから、ひとつ年上の姉とともに演奏会を開き、その音楽、芸術方面の天才を認められていた。姉は後に女優になった。
グラマー・スクールを出た彼は、17歳で保険会社の事務員となった。そこで働きながら、17歳のとき、はじめて雑誌に詩を発表し、19歳のときには、雑誌にデッサンが載った。
事務から解放され、芸術の仕事をしたいと考えたヴィンセントは、姉とともに高名な画家であるバーン-ジョーンズを訪ねていき、追い払われそうになったが、幸運にも会うことができた。ヴィンセントは大画家に見せた絵を褒められ、美術学校の夜間クラスに入るよう勧められた。彼はアドバイスにしたがい、19歳ではじめて美術の教育を受けた。
20歳のとき、保険会社を辞め、本格的に画家としてやっていくことを決心。以後、書籍や雑誌に、世紀末的、頽廃的で、かつ洗練された、独特の挿絵を発表し、雑誌の編集にも携わった。
21歳のとき、ワイルドの戯曲『サロメ』の挿絵を担当。
1895年、ビアズリーが23歳の年に、ワイルドが当時の英国にはあった男色の罪で逮捕され、投獄されるというスキャンダルが起きた。ビアズリーには無関係の事件だったが、社会の非難は彼にも及び、彼はいったんフランスへ逃れた。
その後も、挿画や詩、小説などを書いた後、医師にすすめられ、健康のために転地していた先の南仏のマントンで、1898年3月、結核のため没した。25歳だった。
生前からビアズリーはこう言っていたという。
「ぼくは、キーツより長くは生きられないだろう」(I shall not live much longer than did Keats.)
ジョン・キーツは25歳と4カ月で亡くなった英国ロマン派の詩人で、ビアズリーのほうが3カ月ほど長生きだった。
ビアズリーの影響は多大で、日本でも、手塚治虫や、米倉斉加年、魔夜峰央ほかたくさんのの絵描きが影響を受けているし、クリムトの絵画の構図にもビアズリーの影響が見られる。ビアズリーのエロティックで背徳的な雰囲気と、すべての色彩を白と黒に還元し、すべての視覚を一本の線に封じ込めた洗練は美術史上でも屹立している。
ビアズリーは言っている。
「もちろん、わたしはひとつの意図、グロテスク、をねらっている。もしもわたしの絵がグロテスクでなかったら、わたしに意味はない。(Of course, I have one aim, the grotesque. If I am not grotesque I am nothing.)」(Finest Quotes.com: http://www.finestquotes.com/)
(2017年8月21日)
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