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1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月7日・住井すゑの明晰さ

2015-01-07 | 文学
1月7日は、音楽家の坂本龍一が生まれた日(1952年)だが、『橋のない川』の作家、住井すゑ(すえ)の誕生日でもある。

住井すゑは、1902年1月7日、奈良県田原元町で生まれた。生家は自作農家で機屋もいとなんでいて、その農村地域では、かなりの財産家だった。学校の教室では、教師が、ほかの生徒は呼び捨てにするが、すゑだけは「さん」づけで呼ぶという差別があったという。
小学校3年のとき、大逆事件があり、主犯とされた幸徳秋水が逮捕され、翌年に処刑された。このとき小学校の校長は、すゑたち児童にこう説明した。
「この幸徳という男は、日本中のカネを奪いとって貧乏人に分けようなどという、とんでもないことを考えたり言ったりしている悪いやつだ」
これを聞いた少女すゑは、校長はまちがっている、幸徳秋水の言うことはいいことだ、と思ったという(『わが生涯 生きて愛して闘って』)。
女学校へ通っていた時分から、子ども雑誌に文章を投稿していた住井は、女学校卒業後、小学校教師になり、その後、上京して東京の出版社に婦人記者として勤務しだした。
これが17歳のころで、その記者の募集要項には「小学校教師の経験があること」という条件があったらしい。
彼女は出版社勤めをしていたころ長塚節の小説『土』を読み、作家になる決心を固めた。
住井はべつの出版社に勤めていた犬田卯(しげる)と結婚した。犬田はサラリーマンをしながら評論や小説を書いていたが、農地解放の必要を訴えた評論を発表したため、勤め先をクビになった。犬田の書いた原稿は売れないため、住井が出版社や新聞社をまわって自分の原稿を売り、生活費をかせいだ。当時はどの新聞にも童話欄があって、童話の原稿もよく売れたという。あるいは、住井が生まれたばかりの赤子をおぶって書いた小説『大地にひらく』で、新聞の懸賞小説に応募し、みごと第一席をとって賞金を得た。サラリーマンの初任給が70円だった当時、その懸賞賞金が千円だったという。
敗戦後、住井が55歳のとき、夫犬田が没した。彼女は夫の遺骨を墓に納骨したその足で、解放同盟の事務所にいき、
「きょうから解放運動に参加させていただきたい」
と申しこんだ。差別問題に真正面から挑んだ大作『橋のない川』の執筆準備をそれまでもしていたが、病気の夫を抱えて、取材に飛びまわれなかった。これでようやく書きだせる、と全国をとびまりだした。
非差別との距離、おたがい渡りたいけれど橋がなく渡れないという、その状況をタイトルに象徴させた『橋のない川』は出版され、ロングセラーとなり、世界各国に翻訳され、ノーベル賞候補とも言われた。住井すゑは勇気ある発言を続け、『橋のない川』を第7部まで書いた後、1997年6月に没した。95歳だった。

人間を、生まれた土地、家によって差別しようとする習慣は、支配者側によって、大昔から構築されてきた、権力体制維持のためのデマ、プロパガンダである。下々の階級同士でいがみ合わせ、反抗が支配層に及ばないようガスぬきするのである。天皇制は差別の象徴でもある。どの家に生まれた者も、みんな人間の遺伝子をもち、切って緑色の血がでるわけではないのに、多くの人々の意識は、住井すゑが『橋のない川』を書きはじめた当時と、たいして変わっていないようだ。住井は「魂の文学者」という感じがする。
(2015年1月7日)


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誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。住井すゑ、松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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