大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

私の名盤コレクション20~Leon Russellとスワンプ名盤(8-1)「Lyla /Derek&The Dominos」

2012-03-04 | 洋楽
いよいよ「レイラ」登場です。

このアルバムに関しては、一般的にはタイトルナンバーがジョージ・ハリスン夫人パティとの悲恋を歌った名曲であるとか、ゲストのデュアン・オールマンとクラプトンのギター共演が素晴らしいとか、そういった取り上げが多いのですが、ここではあくまでスワンプの名盤として語らせていただきます。このアルバムがスワンプの名盤足りうる最大の理由は、まずそのメンバー構成にあります。68~69年にレオン・ラッセルと共に、初期のデラニー&ボニーのバックを支えた3人組、カール・レイドル、ボビー・ホイットロック、ジム・ゴードンが、英国人ブルースギタリストのエリック・クラプトンをバック・アップする形で結成された、正真正銘アメリカンなスワンプ系ロックバンドが、デレク&ザ・ドミノスなのです。バンド名のネーミングもデラニー&ボニーを意識したものと思われ、彼ら(と言うよりクラプトン個人?)が目指したところは、米英混合の最強スワンプバンドだったと想像がつくのです。

このバンドのスワンプ的観点からのキーマンは、メンフィス出身で牧師の父を持つボビー・ホイットロックです。彼は教会ゴスペルをはじめとした黒人音楽に浸って育った生まれながらのスワンパーであり、彼がデラボニ&フレンズ崩壊後クラプトンの家に転がり込んだことをきっかけに、ジョー・コッカー&レオン・ラッセルのツアーがはねた旧知の2人を誘ってバンド結成に至ったのでした。70年5月のジョージ・ハリスン「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングを終えた彼らは、その流れでデイブ・メイスンを含めた5人でバンド活動をスタート。しかしデイブは、理由ははっきり分かりませんが、デビューステージの後すぐにバンドを離れます。残った4人はそのまま、「オール・シングス…」と同じフィル・スペクターをプロデューサーにシングルのレコーディングからスタートさせますが、本格アルバム制作入りの前にプロデューサーはトム・ダウドにすげ替えられます。

「オール・シングス…」がまだ正規盤として世に出る前の段階だったので、彼らはフィルのスワンプ系作品のプロデュースぶりがいかなるものであるのか知る由もなかったのですが、自分たちのシングル用のレコードの出来あがりを聞き、恐らく“ウォール・オブ・サウンド”で飾られた演奏に「これはスワンプじゃない」との結論を得たのでしょう。彼らは“手遅れ”になる前にとプロデューサーを変更したのです。このことが、食い合わせの悪い「オール・シングス…」とは一味違うスワンプの名盤を作り上げる原動力になったのでした。オールマンのプロデューサーとして南部音楽に精通していたトム・ダウドはまさしく適任であり、英国人クラプトンのまだまだ未熟なスワンプ・ボーカルにホイットロックの南部的歌声をコーティングして味付けするなどの工夫は彼ならではのアイデアと言えます。また、デュアン・オールマンのゲスト参加を実現させたのも、当然彼の功績でした。

この作品は、レイドル&ゴードンの粘っこいリズム隊が南部臭を根底で支える中、ダウドがクラプトン&ホイットロックのからみを軸に作り上げた、スワンプ最高峰アルバムと言っていいでしょう。ただ、個人的にはあまりにハードロック的なタイトルナンバーと各面に1曲ずつおさめられたブルース曲を除き、1枚モノでこのアルバムが出されていたらもっと強力な印象のスワンプ・アルバムになっていたのではないかとも思われ、少々残念に感じています。そのあたりの詳細は次回触れます。

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