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諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

228 保育の歩(ほ)#20 舞い降りた先の地平

2024年05月05日 | 保育の歩
🆕北アルプスの花畑 もう日本海に近い北アルプスの最北端 写真の蓮華温泉から朝日岳、雪倉岳、白馬岳の三座を目指します。短い夏にたくさんの花が咲くと聞いています。

前テキスト『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』では、保育を各国の制度から考えてきた。

今回からは趣きことにする。現場のリアリティから保育を見ていく。
テキストは、

津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房

である。「はじめに」に経緯と本の意図がある。

私は子どもの研究者として壮年期の大半を過ごした。その最初から、私は、20世紀前半に全盛期にあった米国の進歩主義教育の流れを汲むお茶の水女子大学附属幼稚園で、幼児の遊びに魅せられた。決まったカリキュラムにははめずに、子どもの内から発し、生命的に創る遊びに、私は人間教育の原型を見た。同時に、それを作り上げていく「保育者の苦心」を見た。私は心理学者として、客観的実証科学の方法論によって、その関係を明らかにしたいと考え、長年を費やしてきたが、その試みは放棄せざるを得なかった。保育は人と人とが直接関わる仕事であり、知性も想像力も含めた人間の全てがかかっているから、いま考えれば当然である。
一方、1960年代、70年代の私どもの社会は、高度成長期にあたり、早期知的教育のプログラムが流行した。それによれば、保育者の仕事は、科学的に効果を証明された方法を応用することである。「保育者の苦心」も、子どもの遊びも危機にあった。私は学問の方法論を根本的に考え直す必要を感じた。


そして、1983年つまり50台半ばにしてこの著名な心理学者は私立愛育養護学校の保育者になるのである。「客観的実証科学の方法論」を放棄して、「保育は人と人とが直接関わる仕事」の「地平」へと舞い降りたのである。

また、この挑戦からの知見は、アカデミズムや制度政策のフィルターも通さず、直接、人と人とが関わりが、子どもたちの成長・発達にどう関わっているのかに直接アクセスしてみることである。

ところで、前回のテキストで、編者を代表して古賀松香さんが述べている、

近年、乳幼児期が注目されるようになってから、(各国の)その制度的発展はスピード感を持ってなされ、グローバルに広がりを見せている。
ひるがえって、果たして日本はどうだろうか。諸外国における制度設計や改革のスピード感に圧倒されたのは私だけだろうか。乳幼児期の重要性に対する認識が、国内外ではまだ不十分と感じたのは私だけだろうか。


得てして、保育(教育)の「改革のスピード感」というと現場で置き去りになるのは子どもたちであることはよく懸念されることである。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来観にあって現在こそ「保育者の心」も、子どもの遊びも危機」なのかもしれない。

年度替わりの学校業務の諸事のスピードに圧倒されていたが、ここで落ち着ていて津守さんの地平からの実況を聞いてみたい。

テキストは、津守さんの12年間の実践を時の経過に沿って2年ごとに章を立ててありそれぞれにテーマが設定されてある。

第1章 保育の中に身をおいて
第2章 普通の日々
第3章 「いま」を充実させる
第4章 保育の中で発達を考える
第5章 願いや悩みを表現する遊び
第6章 保育の知と身体の惰性
そして、まとめとして、
第7章 保育の地平
第8章 出会う・交わるー表現と理解・「現在」を形成する・省察する

なお、ブックレポートの性として、原書を読んでいただく以上の事はできるわけがないのだが、他者の関わりの中で、あるいは他者の微妙な意図的な働きかけが、どのように子どもたちの成長・発達し、それを促し得るのか、と言うポイントを外さずに読み進めたい。

ただし、学術でも、制度でもない「関わり」と言うものは物語るしか方法がない。
したがって、長い物語を多分に引用をせざる得ないと思われる。
保育は感じ取ることが大事だと言うが、物語れることから感じ取るセンスはこちらに求められる。


以下、裏表紙に記載された津守さんの言葉である。予告編?である。

・一日、保育の現場にでることは、一冊の本を読むようなものだ。
理解しながら読むこともできるしわけの分からぬまま読みとばすこともある。

・子どもと心を通わせた記憶は、保育者には長い年月、心に留まっているが、子どもにも同様である。

・保育の現場も矛盾に満ちている。私はその中にあって、生きつつ学ぶ。

・自分のまわりに、自由と静けさと親しみの空間を作りたい。

・思いがけないときに子どもの世界との出会いがはじまる。
一見奇異に見える子どもの行動に、人間のもっとも奥深い心の痛みがあらわれる。
私はこの十二年間に何と多くこのことにふれてきたことか。

・あるとき、私は子どもの行動を表現として見ることを発見した。
行動は子どもの願望や悩みの表現であるが、それはだれかに向けての表現である。
それは、答える人があって意味をもつ。

・子どもが心の中を表現する遊びを生みだすことは、保育実践の最大の課題であることを、私はいまや憚ることなくいえる。
その遊びの中で子どもは癒され、教育される。具体的な場面は限りない。

・保育の現場で子どもも私も自由である。
私は子どもの存在に束縛されながら、子どもが自由である故に自由である。
この体験を省察する仕方も自由でありたい。

・子ども学は子どもとは別のところでつくられた理論の応用ではない。
子どもとふれるところにつくられる知恵である。



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226 保育の歩(ほ)#19 保育所の行方

2024年03月10日 | 保育の歩
箱根八里(三島大社→小田原城)🈡 夕刻 小田原城に到着候!

そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

さて、テキストにある9か国から4か国を見てきたところでまとめてみたい。
上記の通り、「子ども(らしい)時間」を意図的に創造することの知恵を知りたかったのであるがあり、頷けることも発見することも多かった。
ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデン、シンガポールとも保育者の想像性や人間性を生かしつつ、子どもたちの年齢の特徴に応じた緻密な意図を企画できるような努力を見てとることができた。
大事なことは工夫する努力を怠ないことというのが大きな印象である。

一方で、こうした読み方の意図とは別に強く感じたことは、編者の古賀松香氏の「おわりに」にある発言に近いものである。

保育の質とは、子どもたちのために、いかにあるべきか、そして、いかに保障されるべきか。その問いは重い。
本書は、諸外国の保育の質評価のあり方を主な検討材料として、その問いに迫ろうとしたものである。9カ国の保育の質評価に関する制度設計は、その国の文化・社会的背景のもとで成り立ち、また発展してきた。そして特に近年、乳幼児期が注目されるようになってから、その制度的発展はスピード感を持ってなされ、グローバルに広がりを見せている。
ひるがえって、はたして日本はどうだろうか。諸外国における制度設計や改革のスピード感に圧倒されたのは私だけだろうか。乳幼児期の重要性に対する認識が、国内ではまだ不十分と感じたのは私だけだろうか。

見てきた4か国だけでも、2010年前後からの制度の改革はとても急速で、ICT機器のアップデートされていく様相に近い。
それには各国の事情がある。産業構造の変化、女性の社会進出、移民への教育保障、ICT人材養成などを急ぐ学校への接続、そして背景には不透明な時代への積極的な教育アプローチの枠組みと、乳幼児期の教育の重要性の認識がその改革の確信になっている。

テキストでは、各国の改革を総括しつつ次の10項目について分析し今後の保育のあり方の志向性を探ろうとしている。

〇 権利補助としての保育
〇 社会的変化に対応する国策としての保育制度展開。
〇 質の可視化とアカウンタビリティー
〇 地方分権と多様性・自律性
〇 一元化をめぐる所感・管理体制
〇 保育の無償化
〇 就学前教育への公費投入
〇 保育者の要件、資格、免許
〇 保育者の養成・研修等
〇 カリキュラム
〇 監査・評価(モニタリング・スクリーニングを含む)


なんとなく牧歌的に考えがちな「子ども(らしい)時間」を社会の中に位置づけつつ意図的に創造するは、決して容易ではなく、多岐に渡る社会的な仕組みを広範な人々の納得を得ながら慎重につくっていく必要があるのかがわかる。

例えばこの中で、「質の可視化とアカウンタビリティー」についてのまとめとして、古賀氏は、

こうした厳格な質の評価システムは、査察や認証評価と結果の公表が現場にとって圧力となり、評価結果重視の実践を形作る危険性もはらむ。すべての保育施設の質向上や社会に対するアカウンタビリティーを果たすことは、むろん重要である。しかし、一定の質基準に照らして評価される子どもや保育者にとって、それらはどのような意味を持っているかみていくこともまた必要であろう。制度によって実現されることと抑圧されることの両方を視野に入れて、質が可視化されることの意義と、保育施設の多様性や自律性の保障のバランスを効力していく必要があるのではないだろうか。

といい、「カリキュラム」についは、

それぞれの国のキュラムには、教育哲学ともいえる柱や内容がちりばめられている。これらの内容は、ただお題目として並んでいるのではなく、実践の内容と評価に関わり、先にあげた公費導入の説明責任とも絡んでいる。例えば、所属感、ホリスティックな発達、「世界についての理解」の学びを支える実践、発達にふさわしい実践、ジェンダーを含む平等性など、多様な概念が軽くに含まれているが、その育ちや育ちを支え、実践をどのように評価し、家庭や地域に対する説明責任を果たすのか。非常に重要な課題が横たわっているのである。

と指摘し、「監査・評価」では、

保育の評価については、国レベルの法律に基づいて行う外部評価期間の監査と自己評価を組み合わせて実施するあり方、州レベルでの評価体系を作り、企業等に外部委託して評価を受けるあり方、他の施設の保育者が対話的に行う評価等、それぞれの国の文化や価値が反映された様々な方法が見られる。
その中で明確な就学レディネスや保育プロセスの評価を実施していた英国が、到達度評価から、教育の本質にシフトする志向性に打ち出されていること、就学前の基礎形成の幼児教育に求め、目標到達へ向けた教授が重視されるようになったスウェーデンが形成的評価を行っていること、州ごとの独自性が重視されていたドイツにおいて、全国的な質のモニタリングを行う調査研究を始めるなど、全国における保育の質への取り組みは、二項対立を超えて、揺れ動いていることが見て取れる。就学レディネスかホリスティックな発達か、診断的形成的評価か、中央集権か地方分権かという2項対立ではなく、それぞれの国が重視する子どもたちの育ちの議論を深め、発達の見方や評価の方法において、目配りの効いた組み合わせとバランスを、実践しながら検討し続けることの重要性が示唆される。


と見ている。

こうしたことは、結局、制度から見た保育(教育)と、顔の見えるこの子への保育(教育)との距離の調整の難しさということでもあるだろう。
総論では届かないところがあり、各論から積み上げるとこんどは運用がしきれない。
その埋まりにくい距離をどうするか、それこそがこのテキストの主題といってもいいだろう。

編者の代表の秋田喜代美さんもこのデリケートさを各国の取り組みに倣おうとされている。
このことはすなわちこのテキストの発行の意図でもある。

日本は全くエビデンスがない国である。理論的な言葉での量的データへの批判だけなら容易である。しかし、現場の事実を明らかにすることで、困難を多く、抱える地域や園、子どもたちの声なき声をいかにして集め、そこから実際に保育実践の質向上につなげて元気や活性化が生まれる政策のデザインを考えるのかが、これから問われていくのではないだろうか。そのためには、保育の研究者や、経営者や実践者といった専門家は、どのような知見を出すことが子どもたちの代弁者としてできるだろうか。また保育者や市民はどのような参画が可能だろうか。質について各国の姿から学ぶことと、足元の地域から縁から新たな可能性を見出し、日本独自の新たな保育の質評価のあり方を見出すことの両方の統合や往還が問われる時期にある。それは合わせ鏡のような構造にある。

これでこのテキストいったん閉じる。

次回は違う入り口から保育に入ってみる。臨床に徹した立場という片側である。予告的に津守 眞さんの言葉である。

教育・保育は、人為的に作られたマニュアルに従ってなされるのではなく、人間と人間とが、互いに信じ合い、愛を持て、手探りで模索しながら作っていくものです。それが積み重ねられて、人間の知が作られます。そのような知はいわゆる知識体系とは異なります。私どもは確かな世界を生きているからこそ、どの子どもも信頼し、一緒に生きやすい共同体をつくる道を模索して、歩むところに教育があるのです。地を這うような、目立たない日々の保育の中に光があります。

                            『学びとケアで育つ』小学館から

《見出し写真 補足》
箱根八里のデータは次の通り、ほんとにほぼ正確に八里ありました。
9時間の箱根越えは、YAMAPでのデータと、asics 2000GT という快適なシューズによるもので、あくまで現代版「箱根八里」ですね。







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225 保育の歩(ほ)#18 シンガポールの意欲

2024年02月25日 | 保育の歩
箱根八里(三島大社→小田原城) 箱根湯元を過ぎ、三枚橋付近 現在の東海道から振り返ったところ 小田原城まであと一里

そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

シンガポール2


シンガポールの斬新な仕組み作りはさらに意欲的である。

かつては、シンガポールも日本と同様、幼稚園は教育省、保育所は、社会・家族開発省が所管していたが、2013年にこの2つを統合総括する機関として幼児期開発局(ECDA)を設立した事は前回述べたが、新しい機関が、それ自体がシンクタンクのような斬新な政策を次々に実施していくことになる。

このECDA (幼児期開発局)の興味深い特徴は、保育所、幼稚園を共通して所管しつつ、シンガポールの教育全体をまとめる教育省(MOE)とは独立した印象のある「幼児期開発」をめざしている面がる。

そのひとつの表れが、2003年に教育省が定めた「幼い学び、手を育てる〝シンガポールの幼稚園カリキュラムのためのフレームワーク”」(NELフレームワーク)を、ECDA設立前後の2012年2012年「NELカリキュラム」として更新をしたのである。
テキストではこの更新について、

2003年当時は現在とは異なり、保育所と幼稚園が別々の法体系の下で管理され、就学前教育機関の質保証の仕組みもなかったため、「就学前教育段階の結果」として期待される力の獲得が期待通りに進んでいるかを確かめられなかった。
そのため、NELフレームワークは2012年に改訂され、21世紀型学力の獲得に向けて、新たに教授・学習の原理により焦点化する形で、現在のナショナルカリキュラム(「幼い学び手を育てる:シンガポールの幼稚園のためのカリキュラムフレームワーク」(NURTURING EARLYLEARNERS : A Curriculum Framework for Kindergartens in Singapore)へと姿を変えた。
このNELカリキュラムは、質の高い教室実践や子どもの全人的発達に向けて、幼児教育者が日々の実践の中で活かせるように幼児教育者用ガイドや教授学習リソースをも併せて開発するなど、より幼児教育者の指導に寄り添う形でカリキュラムフレームワークが示された点に特徴がある。一言語数育に向けた母語教育フレームワークと母語教育のための幼児教育者用ガイドも、同時に開発されている。これらは、幼児教育者が学習の到達目標を教育活動の中に具現化できるよう支援している。
後述のように、現在ではNELカリキュラムに基づく数育の結果や質は、就学前教育機関の認証評価制度において評価対象となっているため、直接的に各施設の教育実践の質を点検することが可能になっている。

この改定によって、保育所と幼稚園という幼児教育へ、同時に検討された基準をもって一定水準を保つための評価機能を備えたということでもある。

そしてさらにECDA (幼児期開発局)は意欲をしめす。
この先進的なN PLカリキュラムに対して、2ヶ月から3歳児の過程を対象としたものとして作られた「保育所のための乳幼児期の発達枠組み」が、当時のコミュニティー開発・青少年・スポーツ賞が策定するや否や、ECDAがそれをさらに改定させて、「精神科学や子どもの発達理論など、様々な科学的知見を結集させて内容の見直し」をさらに行うのである。
これがEYDFになる。
EYDF の目的は「その高いケアや保育実践と言う原理を定義付けプログラムや実践の基準を示し、強力なパートナーシップや地域社会との共同を実現し、継続的な職能開発を強化推進することである。」とすこしカタイ説明になるが、実際は、こんなHPが参考になる。

ECDA | Early Years Development Framework

その冒頭をPCに訳してもらうと、

早期発達フレームワーク(EYDF)は、センターベースの保育環境で誕生から3歳までの子どもたちと関わる幼児教育者をガイドします。これは、主要な指導原則と発達に適切な実践を採用することによって、教育者が子供たちの学習と発達をサポートするための明確な方向性を定めています。
EYDF はより子供中心に改訂され、幼児期の子供の全体的な発達と向きな結果に引き続き重点を置いています。

EYDF 2023では、認知、コミュニケーションと言語、身体、社会と感情の4つの発達分野がより重視されています。幼児および幼児の発達目標は、学習環境を設計し、発達に適した学習体験を計画する際の参考として提供されます。
EYDF 2023では、教育者が有意義な経験を実践し、教育の方法に影響を与えるための、頭字語「CHILD」で要約された5つの原則についても概説しています。...


とある。ちなみに「「CHILD」で要約された5つの原則」はHPの「Click here to download EYDF 2023」で確認できる。

テキストの概略図は次のとおり(前回の再掲)。



そして、EYDFの次のことも大事な特長らしい。テキストから。

EYDFは、3歳以下の乳幼児が力強く全人的な発達の基盤を形成できるように、「乳幼児期に期待される質」「EYDFの柱と指導原理」「望ましい結果の下位項目」という枠組みで構成されている。ここでの「望ましい結果」とは、MOEが追来している「教育の望ましい結果(DOE)」とは異なる。MOEが4~6歳児課程をDOEの中に組み込み、NELカリキュラムを通じて教育の質保証を図ってきたのとは異なり、やや遅れを取ってEYDFによって質の向上が目指されてきた2か月~3歳児課程は、NELカリキュラムの外に置かれているという事情もあって、”カリキュラムの”望ましい結果ではなく、“保育士に求められる”望ましい結果を意味している。それゆえ、EYDEは、保育と学びの実践やプログラム、環境に関して保育士が行う判断を手助けするものという位置づけになっている。その背景には、教師よりも保育士のほうが入職時に求められる専門職資格や学力資格が低いため、より実践的な手引きを提供することによって、保育の質の向上を図りたいという思いがある。
このようにシンガポールでは、2か月~3歳児課程をもつ施設の場合はEYDFが、4~6歳児課程をもつ施設の場合はNELカリキュラムが、保育や教育の質向上の手引きとして機能している。それぞれが補完し合う形で、「就学前教育段階の結果」として期待される力の獲得のために乳幼児保育期と就学前教育期をつないでおり、それが初等教育期へとつながっていくことで、DOEの実現という形で教育の質保証を図っている。


シンガポールでは、大小の枠組みの中で、「望ましい結果」と言う形で教育のゴール設定をしているのだが、そのことは就学前教育で4歳から6歳を担うNELカリキュラムでも同じである。だが、3歳以下の乳幼児については、「望ましい結果」像が保育士のあり方に向かっているのである。

・子どもたちは安心感と自信を持つ
・プログラムは全人的で、成長や発達や学びにとって最適な支援と経験を提供する。
・保育士は専門職であり、省察的で実践的に従事する
・保育士は、家庭との間に強固なパートナーシップと結びつきを築く
・地域社会は家庭と保育施設に対して、資源と支援のネットワークを提供する

そしてつまり保育士の目標設定そのものが子どもたちの「望ましい結果」と直結する認識なのだろう。

他にも、ECDA (幼児期開発局)の意欲は、SPARK(就学前教育機関認証枠組)というものを設定し、保育所や幼稚園の保育環境改善向上と教育成果の向上を公約的に支援する仕組みを備えていたりしている。

以上、かなり部分的ではあるが、シンガポールの斬新的な取り組みを見て来て、わかりやすい枠ぐみの提示とその意欲に驚く。この章の執筆を担当された中橋美穂教授は、この国の取り組みと日本とひかくして次のように結ぶ。

日本の幼児教育や就学前教育においては、シンガポールのように3つの観点で見たとき、「教育・保育内容の質」「幼児教育者の質」「保育環境の質」のいずれをとっても、明確な指標の下で点検や評価をしたり、相互の質保証の関連性が明確になったりするような制度上の仕組みを備えていないことがわかる。
教育・保育内容の質については、幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保育要領が告示されているという点では、ナショナルカリキュラムないしそれに準ずる国家基準があり、ある程度の均質性が保たれる仕組みはあるといえる。しかしながら、その実施過程で幼稚園教育要領等が求める「幼稚園教育において育みたい資質・能力」がどの程度実現できているのか、あるいはどのように努力すればよいのかなど、達成目標に照らして自らの現状の良し悪しや改善点を判断する手がかりが得られるものとはなっていない。


本章では、シンガポールの幼児教育や就学前教育の質保証の仕組みについて述べてきたが、シンガポールの事例を通して改めて浮き彫りになった日本の課題は、可視化された指標で教育・保育内容や幼児教育者、保育環境の質を図るということへの心理的抵抗感から脱却し、質が可視化されることの意義を社会的に共有していくことの議論の必要性についてである。

「日本の課題は、可視化された指標で教育・保育内容や幼児教育者、保育環境の質を図るということへの心理的抵抗感から脱却し、質が可視化されることの意義を社会的に共有していくことの議論の必要性」は特別支援教育にも当然あてはまる。

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224 保育の歩(ほ)#17 シンガポールの斬新

2024年02月12日 | 保育の歩
箱根八里(三島大社→小田原城)畑宿には旧街道の面影があります。 大きな一里塚。難所の箱根越えではマイルストーンが重要だったはずです。

そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

シンガポール1

続いてシンガポールを見てみよう。

シンガポールは、OECD Education2030においても積極的な提案が見られるように、
教育を重視する姿勢がある。
そのことは歳出額全体の約12.8%が教育に当てられ、これは日本が5.4%なのに対して、かなりのウェイトを教育にかけていることがわかるという。その中で就学前教育も重要な位置づけにしている。

前回のテキスト(白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房)でも、その教育への積極性の一端が伺える。



以下は、シンガポールの教育改革を解説の概要である。

 シンガポールにおいても、コンピテンシーを重視したカリキュラム改革が行われており、図序-6のような枠組みが示されている。シンガポール教育省の説明によると、外周部分は、新しい21世紀型コンピテンシーであり、具体的には、以下の3つが挙げられている。
・市民的リテラシー、国際感覚及び異文化に対応するスキル
・批判的・創造的思考力
・コミュニケーション、協働性及び情報に関するスキル
シンガポールでは、さらに図序-6の内周部分を「社会・情動的コンピテンシー」として、自らの感情を認識してコントロールしたり、他者に対して気配りや心配をしたり、責任ある意思決定をしたり、良い関係性を構築したり、難しい状況に上手に対応していくといったスキルが挙げられている。
 そして、シンガポールで最も重視されているのが円の中心部にある「中核的価値観(corevalues)」であり、知識やスキルも価値観によって下支えされるものであり、価値観によって信念や態度、行動も決まってくることから、21世紀型コンピテンシー枠組みの中心にあるものとして位置づけている(MOE [Singapore), 2018:Tan & Low, 2016) •
なお、シンガポールにおいても、中核的価値観を含めて、ここに挙げられているコンピテンシーが、カリキュラム改革前の教育で教えられていなかったわけではないのは当然である。しかしながら、こうした枠組みを示すことによって、コンテンツの知識を教えることと、21世紀の時代に必要なコンピテンシーや価値観を獲得させることのバランスをとることが目指されているのである(Tan & Low, 2016)。


そして、この「シンガポールで最も重視されているのが円の中心部にある「中核的価値観(corevalues)」であり、知識やスキルも価値観によって下支えされるものであり」とされるその部分が、主に就学前教育に課されていることが次の表でわかる。



冒頭の図の三重円の外側にある
・自信に満ちた人
・自律的な学習者
・率先して貢献する人
・積極的に社会に関わる市民
が、この図で一番右、「教育の望ましい結果」として表される中、そのスタート地点として就学前教育が大きくとりあげられ、「就学前教育段階の結果」から導かれるように、「学習目標」「学習の資質・能力」が明示されている。
これほど明確に就学前教育の枠組みを位置づけたのは、ある意味画期的なのではないだろうか。
 この2010年半ばに策定されたこの教育ビジョンにはこんな事情がある。

シンガポールでは小学校卒業試験(Primary School Leaving Examination; PSLE)の
結果により中学校以降の進路の行方が大きく左右される仕組みとなっているため、かつて就学前教育は小学校への準備教育として捉えられ、教科書中心で知識詰め込み型の傾向があった。
しかしながら、就学前教育で社会情動的スキル(social and emotional skils)を育成するという近年の国際的な動向を受け、シンガポールの就学前教育政策は転換され、2000年以降は子どもの全人的発達(children's holistic development)を目指すカリキュラムへとシフトしている。
すなわち、幼児期に受けた教育の違いによって、その後の人生にどのような影響を及ぼすのかを追跡した欧米での研究成果などを受け、就学前教育段階での認知的スキル(cognilive skills)の育成のみならず、「社会情動的スキル」の育成にも高い関心が寄せられている。
認知的スキルとは、10テストや経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査」(Programme for International Student Assessment; PISA)などのように、筆記テストで測ることができる能力を指し、社会情動的スキルとは、忍耐力や社交性、自尊心などのように、筆記テストで測ることが困難な目に見えにくい能力を指す。OEODの報告によると、社会情動的スキルを幼少期より育成することは、人生において成果を収めることに役立つという。


この「社会情動的スキルを幼少期より育成することは、人生において成果を収めることに役立つ」この発見がシンガポールの教育政策の転換の起点になったらしい。

そして、さらに、突き詰めた一例が次の表である。




EYDFとは、「保育所のための乳幼児期の発達枠組み」で、こうしたカリキュラムの枠組みで、保育所の経営は標準化されてきた。
それには、2013年に、社会・家族開発省と教育省がそれぞれ保育所と教育省を管轄していたのを、幼児期開発局(これをECDAという)が統合したことが大きかったようである。
 そのもとでEYDFを包括する保育所の指導要領にあたるNELカリキュラムが開発されるなど、具体的な改革が進んだのである。

この筋のとおったシンガポールの教育改革が整然と行われてきた様子について、もう少しテキストを追っていきたい。

《見出し写真》の補足
旧街道は石畳のまま、空中で車道を横切ります。

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223 保育の歩(ほ)#16スウェーデンの厚み

2024年01月28日 | 保育の歩
箱根八里(三島大社→小田原城) ここから東斜面にそって小田原に下っていきます。

そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

スウェーデン 2
スウェーデンの保育はその質を様々な評価によって維持していることを述べた。
このシステムそのものは、必ずしも伝統的なものではない。

特筆すべきは、1990年代初頭における未曽有の経済危機に陥った際、政府がこれら独特な教育観を発展させる形で事態を乗り越えようとした点であろう。
すなわち、すべての国民が「学ぶ」ことによって情報産業や知識産業を基軸とした産業構造を支える「知識国家」を形成し、不況から脱出しようと目論んだのである。これにより、失業対策にかかわる教育的措置も含め、「いつでも、どこでも、誰でも、ただで」学ぶことのできる教育制度、すなわち生涯学習制度の構築が目指されるようになった。その過程で、当時の首相が「幼児期の教育こそ知識国家を形成する要である」とする教育論を展開して、生涯学習制度に保育を統合する改革を断行したことが、その後の保育改革の方向性を決定づけるものとなった。改革においては、保育を生涯学習の基礎に位置づける制度設計が課題となり、保育の教育制度への行政移管、学校法の適用、就学前学校”1教育要領の策定、就学前クラスの設置などが行われた。この結果、スウェーデンは保育と学校教育を統合したユニバーサルな教育制度を構築し、国際的に高い評価を得たのである
2000年代に入ると、学校教育のみならず保育にも普遍主義を貫くために、教育制度における学校教育との公平性を担保するような制度改革が図られた。


こんな、経緯がある。
こうした大きな教育政策の一環の中に保育の改革もあり、保育が生涯学習制度の中で機能しているのか、学校教育と連動しているか、また、これを機に多額の公的資金を導入したことも、多様な評価・管理の必要性につながっているのだろう。

ところが、その中でも保育が保育であることとして、その哲学の存在感を示しているところが興味深い。

一方、コーエン(Cohen ct al. 2004)によれば、スウェーデン保育における最大の特徴は、パダゴジー(Pedagogy)の本質的な要素が存在することにあるという。ペダゴジーとは、education-in-its-broadest-senseといわれ、学校教育などのフォーマルな形態のみならず、インフォーマルな形態を含み、包括的な人間形成のために行われる教育のことを指す教育概念である(Patie2002)。 ペダゴジーの概念がスウェーデンの公的な保育に導入されたのは1972年の保育指針策定の際である。
しかし、1998年に策定された就学前学校教育要領の中でも「就学前学校の活動は養護、ケア、養育、学びを包括する教育的(Pedagogy)なものである」と定義された。ここからは、時代を経ても、スウェーデンの保育カリキュラムの中心に息づくのはペダゴジー概念であるという方針が貫かれたことが理解できよう。
それでは、このような保育カリキュラムを支えるのは、一体どのような哲学と実践方法なのであろうか。スウェーデンでは1972年の幼保一死化に伴う保育指針の策定時に、ジャン・ピアジェの発達心理学、エリク・H・エリクソンの社会理学、パウロ・フレイレの教育実践などを学術的基盤とする保育実践手法を考案した。
それらは、「対話教育法」「テーマ活動」「ノーマライゼーションとインテグレーション」「チーム保育」「異年齢編成」「遊びの重要性」「両親との協働」などであり、現在の就学前学校における保育実践にも存分に反映されている。
また、保育が福祉から教育へ移管されたことに伴う 1998年の就学前学校教育要領の策定時には、これら伝統的な保育方法を基にしながらも、レッジョ・エミリア教育の哲学を反映した「文化と知識の創造者としての子ども」像を打ち出して、乳幼児期の学びにかかわる理論と実践を保育内容に盛り込んだ。つまり、従来のペダゴジー概念を核としつつ、就学前学校は子どもを主体として、生涯にわたり学びながら社会を創造していくような人間を育む場なのだということを広く表明したのである。

というのである。こうした厚みがこの国にある背景にあるのである。
ところで、
ペダゴジーとは、education-in-its-broadest-senseといわれ、学校教育などのフォーマルな形態のみならず、インフォーマルな形態を含み、包括的な人間形成のために行われる教育のことを指す教育概念である

つまり、家庭や地域の教育、そして学校教育とは分化する以前の教育を意図的に概念化しているのは注目され、そのつかみにくいところを「ジャン・ピアジェの発達心理学、エリク・H・エリクソンの社会理学、パウロ・フレイレの教育実践」に学んでいるのである。

1998年の就学前学校教育要領の策定時にも、保育の哲学がいかされる。
それは、その時とりいれたレッジョ・エミリア教育が、学校教育と一線を画するもののようだからである。

調べる余裕がなく、ネット情報を参照させてもらうと、

レッジョ・エミリア教育とは、イタリアの都市レッジョ・エミリアで発祥され、子どもが主体的に活動し、それぞれの個性を引き出すことを大切にした教育方法のひとつ」であり、
子どもそれぞれの個性を引き出す方法として「社会性」「時間」「子どもの権利」3つの教育理念を唱えています。
社会性:子どもの社会性を育むために、4名~5名のチームを作り、意見交換の中で活動を展開していく
時間:時間割やタイムスケジュールなどは設けず、長期的なテーマにチャレンジし、深堀していく
子どもの権利:子どもが主体的な活動を行うことができるよう、否定的にならず、子どもの権利を尊重する


具体的には4~5人の子どもたちのグループに「プロジェクト」を提案する。そしてそれを長期に渡って子どもたちが完成させていく。その間の子どもたちの様子を「ドキュメンテーション」の手法で記録しながら、子どもたちの主体的な活動を支援していくという方法らしい。

その特徴は、

レッジョ・エミリア教育方法と一般的な教育方法の違いは「教師の指示で動くのではなく、子どもたちが自ら行動する力」を大切にしている点

とあり、これは日本の「保育所保育指針」にも共通するものだという。
(以上は、「保育士バンク」HPから)


自治体レベルで積極的に推進できそうな、積極的なことをスウェーデンでは、国レベルでおこなっている。
もっとも、スウェーデンの人口は神奈川県より少し多い程度なのである。

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