本日は平福百穂と思われる作品で、平福百穂してはとても珍しい女性を描いた作品です。美人画を描くというよりも実際の人物を忠実にスケッチしたものかもしれませんね。
真贋はさだかではありませんが、当方では真作と判断している作品です。
桜下美人図 伝平福百穂筆 その119
絹本水墨額装 誂:黄袋+タトウ
P8号程度 額サイズ:縦650*横590 画サイズ:縦415*横360
落款から推察すると明治期の作品と思われますので、明治期を中心とした平福百穂の略歴は下記のとおりです。
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平福百穂は幼い時から秋田市の豪商である*那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育っており、1890年(明治23年)から父(画家 平福穂庵)から絵を学びはじめます。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始めます。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」 の百(その追悼の絵画品評会に訪れていた京都の日本画家・鈴木百年に画才を認められて号したもの)と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号します。
本ブログにても鈴木百年の作品を紹介しています。
「鈴木百年の画歴:長男に鈴木松年(上村松園の師であり、上村松篁 の父とされている)、次男に鈴木百翠、三男に鈴木萬年がおり、何れも絵師となった。また、妻の春香も絵師だったという。門下に今尾景年、久保田米僊、畑仙齢に松年を加えた百年四天王をはじめ、桜井百嶺、伊澤鶴年、徳美友仙ら、服部木仙、草野龍雲、西村秀岳、山岡墨仙、松田霞城、山田永年らがおり、幕末明治の京都画壇に一大勢力を形成した。なお、百年は弟子に対して細かく教える方ではなく、画風も各人好きな絵を描かせたという。」
1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となります。
1897年(明治30年)に川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学。
1899年(明治32年)に卒業後、翌1900年(明治33年)に素明らと无声会を結成、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指します。
1916年(大正5年)に金鈴社結成後は、中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表。やがて1932年(昭和7年)の「小松山」など、自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至ります。
一方で1903年(明治36年)頃からは伊藤左千夫と親しくなりアララギ派の歌人としても活動し、歌集「寒竹」を残しています。島木赤彦は百穂の絵画頒布会を開催することで、「アララギ」の経営を助けます。
また、秋田蘭画の紹介にも努めました。
作家・田口掬汀と親しく、掬汀の孫の高井有一の小説『夢の碑』に、棚町鼓山として登場します。
平福は、平福を中心に川端龍子・小川千甕・小川芋銭らと日本画グループ「珊瑚会」を形成。「珊瑚会」は1915年(大正4年)から1924年(大正13年)まで10回の展覧会を主催しています。
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*かなり手の込んだ額装となっていますが、もともとこの額に納まっていたとは思われません。
前述の「*秋田市の豪商である那波家」については下記の記述があります。
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秋田市大町三丁目の那波商店は、清酒(銀鱗)、味噌(山蕗)、醤油の製造販売、呉服衣料品(升屋)の販売を手がける、秋田を代表する老舗のひとつでした。当主は代々那波三郎右衛門を襲名しています。
秋田に来る前は京都室町の両替屋で、諸国の大名に資金を用立てるほどの財力がありました。初代は佐竹氏の常陸藩時代から、京都の佐竹屋敷に御用商人として出入りしていましたが、五代目の時に火災に遭い、那波家ではほとんどの財産を失います。佐竹家に再建の資金として借金返済を願い出るも、久保田藩の経済事情も悪く「秋田に来れば良きにはからう」と言われ、止むを得ず久保田に入ったのが宝永五年(1708)。藩では、那波家を御用商人として取りたて、さまざまな便宜を図り、これまでの義理に酬いています。
電気の時代になっても、維持費の安いランプを使い続けた那波家の家風は「ケチ」といわれていました。しかし、質素な生活で倹約した分は寄付金に当て、火災、飢饉となると被災者に援助の手をさし伸べる、人々に尊敬される家とされていました。
電気の時代になっても、維持費の安いランプを使い続けた那波家の家風は「ケチ」といわれていました。しかし、質素な生活で倹約した分は寄付金に当て、火災、飢饉となると被災者に援助の手をさし伸べる、人々に尊敬される家とされていました。
*下写真:那波呉服店・大正期 現在の交通公社付近
明治19年4月30日、秋田町を大火(通称・俵屋火事)が襲います。川反四丁目から上がった火の手は、おりからの30メートル近い南東の風にあおられ、外町、保戸野の半分、さらに八橋から寺内までも飛び火し、3454戸を焼失、死者17人、行方不明2人、負傷者186人。当時人口3万そこそこの秋田町の、半分近くが焦土と化した歴史的大火でした。
この大火の中心にあって、那波家は奇跡的に延焼を免れています。
火の手が大町の那波邸に迫りつつあるころ、「那波家を焼ぐな!」と叫びながら、日頃から那波家に世話になっている何百人もの町人が駆け、大屋根に上り、水に浸けたモクむしろ(男鹿の海藻で編んだムシロ)を屋根いっぱいに広げ、邸宅をすっぽり覆い、飛んできた火の粉は、屋根に据えつけた水がめにホウキを浸し、片っ端からたたき消し、さらに那波家周辺の屋根へ消防団や男たちが上がり火の粉を払し、家財道具を旭川対岸まで運びだす者もいたそうです。
当時、那波家の道をはさんだ向かい(当時の山王大通りは、数メートルの狭い小路だった)にあった、お菓子の「榮太楼」と周囲の数軒の家も、町人の活躍と共に榮太楼の裏に那波家の土蔵があって土蔵と榮太楼の間に十坪ほどの用水池があったことから、九死に一生を得、それ以来、榮太楼では那波家の恩を忘るべからずと、子々孫々に言い伝えているそうです。
ようやく火がおさまった翌朝、荒涼とした風景のなか、ポツンと那波家と周辺の家だけが焼け残っていたそうです。那波家の人徳、伝統的な福祉の心は庶民によって報われることとなったとされています。
火の手が大町の那波邸に迫りつつあるころ、「那波家を焼ぐな!」と叫びながら、日頃から那波家に世話になっている何百人もの町人が駆け、大屋根に上り、水に浸けたモクむしろ(男鹿の海藻で編んだムシロ)を屋根いっぱいに広げ、邸宅をすっぽり覆い、飛んできた火の粉は、屋根に据えつけた水がめにホウキを浸し、片っ端からたたき消し、さらに那波家周辺の屋根へ消防団や男たちが上がり火の粉を払し、家財道具を旭川対岸まで運びだす者もいたそうです。
当時、那波家の道をはさんだ向かい(当時の山王大通りは、数メートルの狭い小路だった)にあった、お菓子の「榮太楼」と周囲の数軒の家も、町人の活躍と共に榮太楼の裏に那波家の土蔵があって土蔵と榮太楼の間に十坪ほどの用水池があったことから、九死に一生を得、それ以来、榮太楼では那波家の恩を忘るべからずと、子々孫々に言い伝えているそうです。
ようやく火がおさまった翌朝、荒涼とした風景のなか、ポツンと那波家と周辺の家だけが焼け残っていたそうです。那波家の人徳、伝統的な福祉の心は庶民によって報われることとなったとされています。
下写真:焼け残った那波家の一部
この俵屋火事で那波家では、消防に尽力した各消防組に対して金五十円ずつを贈り、ほかに白米一千俵を出して被災者に配分し、文政十二年、那波祐生が創設した救済組織・感恩講の赤倉(緊急用)からも一千俵を救済に充て復興に寄与し、多くの被災者に感謝されました。
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このことによって火災から貴重な「那波家のコレクションの秋田蘭画」が救済されたのかもしれません。
本作品は荒めの絹本に描かれています。
平福百穂の人物画は意外にうまいもので、人物の特徴をとらえた写実性の高いものと評価されています。東京美術学校卒業後には新聞の挿絵などを多く描いていますが、平福百穂の人物画のスケッチはその風貌だけではなく、その性格まで描くと評判で、依頼されることが多かったようです。
この作品も品よく描かれていますが、平福百穂はこの後は琳派風の「たらし込み」を用いた南画風の自然を描いた作品を多く生み出しますが、美人画を描くことはほとんどなかったようです。
作品中に押印されている印章は図集などには見当たりません。落款の書体からは明治期に描かれた作品であろうかと推定されます。
額は裏面が補強されています。
平福百穂の埋もれている作品を探し出すことは同郷である当方の役目なのでしょう。
全布のタトウを誂えて保管しています。郷土の作品を状態の良いままの遺すことは蒐集する者の大きな役割のようです。