夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

水墨山水図 伝西郷孤月筆

2015-10-20 00:09:57 | 掛け軸
菱田春草は若くして病死し、その翌年、西郷孤月は滞在中の台湾で発病し38年の生涯を終えています。皮肉にも運命は二人に同じような画才を与え、同じように志し半ばでその道を絶ってしまっています。西郷孤月については日本美術史においてそれほど重要な画家ではないと私は判断していますし、その放蕩ぶりからもあまり好きにはなれない画家です。

西郷孤月という画家については浅間温泉にある富士乃湯という旅館で所蔵されている西郷孤月の作品が「なんでも鑑定団」に出品されていたことでご存知の方も多いと思います。もともとしっかりした作品なのに「なんでも鑑定団」に出品したのは、どうも旅館の宣伝のように思えてなりません。

本日の作品は「もともとしっかりした作品」ではありませんのでご了解願います 真贋は不明・・、よって「伝」で投稿します。

水墨山水図 伝西郷孤月筆
絹本水墨軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1120*横415



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西郷 孤月:(さいごう こげつ)明治6年(1873年)9月23日 ~大正元年(1912年)8月31日)。明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏

明治12年(1879年)、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。

同年10月小石川餌差町の私立知神学校へ入学して絵を習い始め、明治21年(1888年)、狩野友信に師事して日本画修業を始める。明治22年(1889年)、英語学校で同窓だった横山大観や、下村観山らとともに東京美術学校の第一期生として学ぶ。校内臨時試験で、観山と共に乙組に編入された。同27年2月に絵画科を卒業、卒業制作の「俊寛鬼界ヶ島ニ決別ノ図」が宮内庁買上げとなる。この頃から橋本雅邦に見出され、同校研究科へ進む。翌年3月、岡倉覚三(天心)の推薦で近衛師団に従軍、日清戦争の模様を写し、9月に帰国、「朝鮮風俗」(東京芸術大学大学美術館蔵)を描く。一方、大観・観山らと古画を模写して、古典学習にも努めた。明治29年(1896年)、研究科修了後、すぐに助教授となる。同年9月から日本絵画協会共進会に出品し始め、毎回賞を得る。



明治31年(1898年)に岡倉覚三が東京美術学校を辞任するのに従い辞職し、日本美術院の設立に尽力、評議員に挙げられる。橋本雅邦門下の四天王、大観・観山・孤月・菱田春草のうち、最も将来を嘱望され、同年末雅邦の娘と結婚。媒酌人は岡倉覚三であった。しかし、ある酒席で雅邦と激突、以降、酒と遊蕩に明け暮れるようになり、それが要因となり1年後に離婚してしまう。暫く共進会への出品もなかったが、同僚の勧めで33年(1900年)4月より再び参加し始めるが、かつて下位だった春草らの優位に及ばなくなっていく。私生活の不行跡も加わって仲間たちも離れていき、明治36年(1903年)、弧月会をつくり渡欧資金を集めようとしたが、うまくいかず挫折する。同年6月木村武山と東北を巡遊したのち、中央画壇を離れ各地を放浪することとなる。



明治39年(1906年)、大観と春草は孤月の才能を惜しみ、日本橋倶楽部の展覧会に参加させるが、もはや昔日の面影はなかった。だが、明治44年(1911年)に盟友の春草が病死した後、何かが吹っ切れたように翌大正元年(1912年)に台湾へ渡り「台湾風景」(山種美術館蔵)を描く。大陸への更なる進出を望んでいたものの、台北で発病し7月帰国するが、自宅で急逝した。

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弧月の落款の「月」の書き方をみると時代を大体判別することが出来るとのこと。本作品は落款と印章から「なんでも鑑定団」の出品された「月下飛鷺」と同時期と推察され、作風には狩野派の伝統のよる橋本雅邦の影響が見られることなどから、日本美術院に出入りしていた頃の30歳前半の作と推察されます。



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菱田春草らに先んじ線を排して光や空気を表現する手法に孤月は特に熱心に取り組み、その画才は抜きんでていた。孤月の人生を暗転させたのは橋本雅邦の娘との結婚だった。画才を見込まれ、将来を嘱望されながらの結婚は一年半あまりで破局した。孤月の放蕩が原因と言われる。

病身でありながら孤月の身を案じる春草だったが、一瞬だけ時間が重なりあった時がある。春草がスケッチ旅行に出かけた際、行方知れずの孤月に偶然出くわしたのである。療養しながら描くことへの情熱にあふれる春草の前に現れたのは、女性と連れ立った放浪の身である孤月だった。二人の生きざまを象徴するかのような再開の場面は、二度と繰り返されることはなかった。

翌年、春草は病死し、その翌年、孤月は滞在中の台湾で発病し38年の生涯を終えた。皮肉にも運命は二人に同じような画才を与え、同じように志し半ばでその道を絶った。そして何の気まぐれか、まったく違う歴史の中にそれぞれの名前を刻み込んでいってしまった。

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才能に溺れ、地道な努力を忘れてはいけません。「欲と色と酒は敵と知れ」ですね。


水戸黄門遺訓より:食欲、性欲、睡眠欲。名誉欲に、権力欲に、財欲。人間には様々な欲があり、それに支配されている人間を傍から見ると、醜くて無様で、あまり人間の在るべき姿には見えない。 ここで挙げられている『欲、色、酒』というのは、全てに共通して『欲望』が関係しているわけだが、『敵』と定めるのには、きちんとした理由がある。 自分を見失うのだ。それらに支配されている時、人間は自分を見失う。そして気づいたときには、悔いの残る結果を招いてしまっている。








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